イメージの思考へ、その1

 イメージの思考、思考のイメージ。一枚の絵画が様々な法則に貫かれているように、イメージもまた論理を持っているに違いない。イメージの論理はイメージ同士の繋がり、そしてその全体が作り出すある統一のとれた全体像によって完結する。「エネルギーのもろもろの流れはまだ緊密に結びつき、様々な部分対処も依然として過度に有機的である、といわれるかもしれない。ところが、ある純粋な流体が、自由状態で、途切れることなく、ひとつの充実身体の上を滑走しているのだ。」これがイメージの思考、思考のイメージである。問題は、そのイメージをどこまで信じることができるのか、そしてそのイメージをどこまで現実的なものとして捉えるのか、ということであるように思われる。
 例えば映写機のイメージ。「現実は映画である」としたとたん、我々はもうイメージの世界にいる。回転する歯車、巻き込まれていくフィルムのイメージ。そしてさらに、現実であったものが「解除」され、記号としての「現実」が一つの映画館のなかに取り戻されるとき、そこにもまたイメージの働きがある。想像力をどれだけ信じることができるのか。現実は既に、そのようにして「解除」されることで死滅し、また「接続」されることで生じる一つのイメージに過ぎないのではないだろうか?
 そうだとするならば、イメージの思考とは、思考一般のことを指していると考えることすらできるだろう。普通人は言語で思考するという。そうだとするならば、今度は言語とイメージの関係が問題となる。シニフィアンが喚起するイメージ――シニフィエ――、それらの関係すらも、映画館のイメージに回収されるのではないだろうか。映写機に巻き取られていくシニフィアンの連鎖、そしてスクリーンに映し出されたシニフィエ。問題は、これらの間の一対一対応的で恣意的な関係である。というのも、「森」という言葉を聞いた瞬間に喚起される森林のイメージ、これらの間の繋がりの強固さとは、一体何だろうか?
 この問いに答えは出ないであろう。重要なのは、この一対一対応関係は、それが意識に上らない限りにおいて紐帯を強めるということであるように思われる。従って意識に上ってしまえば意味しない意味するもの(シニフィアン)というものもまた生じてくることになる(そもそも、記号をシニフィアン-シニフィエに分割したということのが既に、シニフィアンがもはや意味しなくなることの符牒であったと考えることもできる)。意味すること自体を見つめる視線など、あってはならないのだ。
 しかし同時に、言葉が意味するとき、共に何か別のものが同時に意味しているのではないだろうか。言葉が映画のように何かを映し出すとしても、いやだからこそ、我々が映画に熱中し、その中から何か現実的なものを取りだすことがあるのとまったく同じように、言葉にもまた何か現実的なものが含まれているはずだ。そしてそれこそまさに、全体は部分の総和以上のものである、と言われるようなその全体のことなのである。その全体の事を「表情」と呼ぶことにしよう。一つの笑顔は一つの全体であるが、その全体は口角の上昇、目の細まりなどの合計以上のものである。その他、一つの風景や、一冊の本すらも、一つの表情であると言えよう。
 表情は一つのイメージだろうか。確かにそうである。表情は一つの記号だろうか。今度は、そうとも言えなくなる。記号において問題となる一般性と、表情において問題となる個別性・具体性は対極に位置する。否、表情は記号における一般性と具体性の間にまたがっているとするのが正確であろう。一人の人物の笑顔は、記号としての笑顔を超えて、その人物独自の笑顔であるだろう。そうではない笑顔、つまり記号的な笑顔の場合、ひとはその裏側を疑うだろう。そのようなわけで、表情は一つの全体的なイメージである。
 しかし全体と言っても、それを部分とした更なる全体が浮かび上がることを妨げるものではない。表情はいたるところに存するのであって、ある場合においては一つの完結した全体として、また別の機会にはそこに部分として組み込まれる全体の一部として、表情は機能するであろう。表情は、それが記号と区別されるという一点に依って、表情としての本質を獲得するのである。この記号と表情の区別から成る体系の特徴は、個別性と一般性の構造主義的転倒であるように思われる。個別性は一般性の種なのではない。個別性は微視的な一般性によって織りなされる束なのだ。そしてこの表情の全体化作用こそ、「顔」の機能にほかならない。顔、それは映写された映写機である。顔は一つの表情を浮かべるが、その表情にはそれに対応する世界が見せる表情が反射しているのだ。顔こそ一つの完結した表情なのであって、この意味において文章とは顔なのだ。
 最後に、表情の空転という事態を考える必要がある。もはや興味のなくなった映画のように、表情がもはや何も意味しないこと、つまり表情がいかなるイメージも還帰しなくなってしまうことがある。これこそ表情を映画の中に閉じ込め、映写機に不調をきたしてしまうような、離人症の体験である。離人症とは、映画を見ている、という映画を見ている意識のことなのであるが、最初の映画が映写機の不調により何も映し出さないことと、映画を見ている、という映画を見ている、という意識が生じることは同時である。
 しかしそうはいってもやはり、彼は映画を見ているのだ。彼はそこに何かが映し出され、欠けたところのあるイメージがおぼろげに浮かび上がるスクリーンを見つめているのだ。
 離人症者も知らない何かが、離人症者の視界に映写されている。この点において離人症者は神経症者に近い。その何かは解読を待ち続けているに違いない。


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