もう一度、吐き気のなかへ

 "Ejaculatory anhedonia is the experience of normal ejaculation without pleasure or orgasm. Patients experience sexual stimulation and achieve erection, but the connection in the brain which registers these sensations as pleasure is missing. This disorder is quite rare and therefore poorly studied; however, experts believe anorgasmia is due to neurohormonal imbalance in the brain, namely decreased dopamine levels." (Gray M, Zillioux J, Khourdahhji I, Smith RP  "Contemporary management of ejaculatory dysfunction")
 このejaculatory anhedoniaという障害についての日本語の論文はほとんど見つからず、正式な和名は不明である。この障害は俗に「射精無快感症」と呼ばれ、これをネット検索にかけるといくつかのページがヒットする。一口に射精無快感症といっても種類は様々であり、先天的な脳の障害という場合も人生のある時期から感じなくなったという場合もあり、幼少期の心的トラウマに起因することも薬の副作用によることもあるとされる。
 この障害が勃起不全(erectile dysfunction)と区別されることに注意が必要である。勃起不全が陰茎海綿体の異常による勃起障害を指し示すのに対し、射精無快感症はほとんどの場合脳機能の異常に起因し、正常に性的興奮を覚え勃起し射精に至るが、ただ快感のみがないのである。「踏破すべき道があり、踏破しなくてはならないが、往くものがいない。行為はまっとうされたが、行為者がいない。」
 この障害はあらゆる快感消失(anhedonia)において現れる典型的、象徴的な現象を持っている。現在権威的な精神疾患の判定基準であるDSM-5、ICD-10のいずれにおいても、anhedoniaもejaculatory anhedoniaも、はっきりとした定義はなされていない。
 射精無快感症を患った24歳の男性は、自身の症状についてこう語っている。
 「自慰行為を始めてから数年後、友人が僕が経験したのとはまったく違う何かを経験していることに気づきました。僕にとって射精は、くしゃみと同じような、単なる受動的な痙攣でしかありません。性的な衝動や欲望は感じますが、射精する時、気持ち良い感じや頭が真っ白になる感覚がありません。性器の先から流れ出た液体が何なのかわかりません。(中略)射精時の快感がどれほど良いものなのか人が話しているのを聞くと、疎外感を感じます。まるで自分が人間ではないかのように思えてきます」
 性的衝動や欲望は感じられるのに、快感がない、という状態が引き起こす失望感は単に性的な領域にとどまるものではない。その奇異な体質のせいで他人との隔たりを強く感じ、社会的な困難を感じるケースも少なくない。
 快感消失が射精だけに留まらない場合も多い。その場合、失望は生そのものへと対象を移す。「好き」と呼べるものが何もないと語る男性(20)は自身の性体験を次のように語る。
 「私が最初にセックスをしたのは16歳の時です。相手は同級生で、半年の片思いの末にできた初めての彼女でした。僕も彼女もクラスに友達がいなくて、それで仲良くなりました。彼女は美術部に所属していて、よく好きな画家や映画監督の話をしてくれました。ある日彼女は僕にその画家の画集をプレゼントしてくれました。僕は彼女の感性に少しでも近づきたくて、毎日それを開いていました。(中略)退屈な人生です。普段していることといえば、SNSで興味のない動画をずっと見ていることくらいで、僕は多分何にも興味が持てないんだと思います。自分が本当に彼女のことを好きなのかわからなくて、ずっと不安でした。僕は昔からオナニーの気持ちよさがわかりません。でも流石にセックスをしたら快感を感じるだろうと思っていました。付き合い始めて半年くらい経って、そういう雰囲気になって、挿入した瞬間、彼女は激しく喘ぎ始めました。私は何も感じませんでした。下腹部の感覚がないのです。なんてグロテスクで野蛮な行為なんだろうと思いました。私はずっと、次の日のテストの勉強をしなきゃとか、そんなことについて考えていました。終わった後、罪悪感と激しい嫉妬に駆られて、それから学校に行けなくなりました。自分の人生がどうしても虚しいことに絶望しました。彼女とはそのあと別れました。画集は捨てました。以降、誰ともセックスをしていません」
 何にも興味が持てない。射精無快感症は、そうした多くの人たちが持つ日常的な虚無感の極限として存在している。彼は豊かな感受性を持つ彼女に対してずっと嫉妬感を感じていたにもかかわらず、自分で何かを始める気になれない。自分で誰かに関わっていく気になれない。絵には興味がない。クラスメイトの話題についていく気にもなれない。セックスをしても気持ちよくない。「明確に理由があって不幸な人たちが羨ましいし、そういう人たちの話を聞くと嫉妬と絶望で死にたくなります。20年間ずっと、狭い牢屋に閉じ込められていて、その小さな覗き穴から、僕だけを仲間はずれにして皆が遊んでいるのを眺めているようです」
 快感消失者の感じる嫉妬は現実に生きる人々全般に対する嫉妬である。好きなものが何もない。それなのに部屋のそとでは今日も人々が出会い、喜びか悲しみを経験している。全身でなにかに打ち込んで、全力で絶望して、また現実のなかに入っていく。喜びも悲しみもわからない自分は、なにもする気になれない。
 何にも興味が持てない。そうした日常的な虚無感は快感消失者においてしばしば加速され、次のような日常性の崩壊をもたらす。この18歳の男性も射精無快感に悩まされている。
 「家族や友人、恋人と話していると、時々、ふと相手の顔が変化することがあります。目の輪郭、鼻の穴と鼻翼を結ぶ曲線や、上唇と下唇の境目の描く曲線が浮き上がってきて、顔が幾何学的な図形に見えてきて、それが動き始めると、胸が苦しくなってきて、この人は誰なんだろう、というか、これは何なんだろうと思うようになってきます。(中略)昔、家族で犬を飼っていました。小さいトイプードルです。僕によくなついていて、家に帰ってくるとしっぽを振って出迎えてくれました。ソファでよく丸くなって眠っていて、僕はその綺麗な毛並みを撫でるのが好きでした。犬が死んだ日の夜、オナニーをしました。いつもと同じで気持ちよくありませんでした。ほとんど罪悪感も感じませんでした。厭な気分になりました。でも次の日、火葬中に涙が1滴だけ出ました。少しだけ安心しました。でももうペットは飼いたくありません」
 この男性はずっと日常のあらゆる場面でぎこちなさを感じているという。例えばペットボトルに入った水を飲む、というようなごくごく些細な動作でも、手を伸ばし、ペットボトルを掴み、ペットボトルの口に自分の唇をあて、中の水を流し込むというそれぞれの作業で、手を伸ばす方向や口の付け方、ペットボトルの傾け方などが「正しく」出来ているかどうかに細心の注意を払ってしまう。行為の主体としての実感が持てない。痛いから身をよじる。悲しいから涙が出る。空腹だから食べる。こうした自然な欲求や身体反応を彼は意識的にしか行えない。彼は身近な人間の死をきちんと悲しめるのかがずっと不安だという。
 このような日常性に対するぎこちなさは、快感消失においてしばしば同時的に現れる現象であると言えよう。先の事例の「仲間はずれ」感もこのぎこちなさをその内に潜ませている。
 このぎこちなさこそが、快感消失を紐解く重要なカギとなる。
 それは、事物の非文脈性、事物が脈絡なく、偶然的なかたちで生みだされ存在していることの気持ち悪さ。そして、そこに自分がはめ込まれている、ということの気持ち悪さである。「好き」という言葉の響きが持つ甘ったるさや、あらゆる固有名詞が持つ唐突さと無意味さ、或いは四肢のかたちや顔の造形が、"これ"として「与えられている」ことの、気持ち悪さである。それは、自分に名前があること、そしてそれがこの名前であること偶然性と取り返しのつかなさであり、会話の流れの中でそっと沈殿する一連の発音である。それは、家族の団欒のなかで地面に叩きつけられ引きずり回される諸々の概念である。事物たちは棄てられている。それらは無視され、用済みにされている。だれにも見向きもされず、皆がその上を走り回り滑っていく。僕たちは仲間外れにされている。
 ぎこちなさに垣間見える気持ち悪さの影は、何にも興味が持てない、何もする気にならないというような虚無感の本質を指し示している。今こそこう言わねばならない。虚無感の背後には吐き気が隠れている、と。
 吐き気は日常の節々に潜んでいる。それは将来の夢を発表する小学生の声色や、SNSに流れる膨大な取るに足らない投稿の数々に隠れている。それは次々に移り変わるトレンドであり、意識を向けられるように設計された粗製乱造の広告たち、そして想像を絶する複雑な過程を経て、国々を渡って今ここの店頭に並べられた、信じられないほどくだらない商品の数々に反射している。それは、熱力学第二法則と自己同一性の関係。或いは、予定で埋まったスケジュール帳とその持ち主の関係である。猛スピードの物流のうねりがあなたの身体を連れて行く。これまで、吐き気は少しづつ小出しにして、あなたに決断を迫ってきた。
 それは、あなたが排泄した大便と便器との接触面である。舌に残った食物の後味である。当然、あなたの肛門についた汚れである。口の周りについた汚れである。快感消失者は尻を拭く術を知らない排泄者であった。彼らは食べることを忘れ永久機関を目指す。空中に広がった糞尿の分子が、快感消失者の鼻腔の奥嗅細胞に接続する。臭い、と思っても、時すでに遅し。
 教育は、果たして食事のマナーやトイレのしつけとともに、現実との関係の作法を身体に刻み込んだのではなかったか。そうだとすれば、快感消失者は不良品だろうか。彼らは潔癖すぎたのだ。五十音も九九も、彼らの肛門に頑固にへばり付いて離れない食物である。
 教育は一種の暴力を身体に叩き込む。大切に口へと運ばれた食物は、口腔で粉砕され、胃の中へと投げ入れられる。それはやがて汚物として、無視され、用済みにされ、棄てられる。汚物への気遣い――情け深さと軟弱さは、教育には手に負えなかった余剰である。
 吐き気は、コンビニの自動ドアのぬめりとした動きである。衣服と皮膚のさりげない摩擦であり、座り心地の良い椅子、そして快適な高さの机である。つまるところ、それは性交なのである。「自然は、配慮的な気遣いをつうじて、特定の方向のうちで暴露されている。屋根付きのプラットフォームは、雨天を斟酌しており、公共の照明設備は、暗夜を、言いかえれば、昼の明るさの有無という特殊な交替、つまり「太陽の位置」を斟酌している。」快感消失者が気遣うとき、彼は吐き気を我慢している。彼は否応なしに勃起し、太陽と交わるのだ。「人間の目は、太陽にも、性交にも、暗闇にも、耐えられない。」
 わかるだろう、全身が勃起しているのだ。あなたも感じるはずだ。指が五本。足が二本。"これ"が首であり、その上に頭がある。これらは常に一つの事実を示している。つまり、全身が性器なのである。腕が、後頭部のふくらみや、目尻の曲線、仕草や話し方の癖、言い間違いやどもりが、それぞれにおいて、勃起して、突き出ている。吐き気は勃起の伸びる方向に向かって流れ出す。感じないか。まだわからないのか。
 しっかりとあなたを補足するまなざしの愛撫で、あなたはもう吐き気に耐えられないかもしれない。あなたを慰める声の微睡んだ甘い響きに、吐き気は見え隠れしている。彼があなたの目を覗き込んだとたん、あなたの目はすでに一つの性器なのだ。眼球が吐き気となって飛び出す。身を守るためには、眼球を捨てねばならない。あなたは捨ててしまったのではなかったか。
 あなたの存在は一つの大きな勃起である。それは、一つの無謀な勇気であった。いまやそれは、柔らかい勃起である。虚しい勃起、ぐったりとした勃起である。それは虚無へむかって伸びている。ただ、伸びているのである。あなたはもうその中身が何なのかわからなくなってしまった。あなたの勃起は辛うじてかたちを保っているに過ぎない。一度穴が開けば一気に流れ出す。しかし、流れ出すのは中身ではない。かたちそのものが流出するのだ。あなたはそれが怖い。だからあなたは謎を表面に這わせ、はったりをする。
あなたは一度現実をやめてしまった。そのせいでたくさんのものを失ったはずだ。あなたは耐えきれなかった。吐き気を忘れてしまった。そして最後には何も残らなかった。
 それでも、希望が消えてしまったわけではない。むしろ、吐き気こそが希望を描き出すのだ。
 すべてをやりなおそう。まずはもう一度、吐き気のなかへ。

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