ものとは何であるのか 第五部

13,停止

 止まる、と思った。
 「おとなしくしなさい!おとなしくしなさい!」
 得体のしれない奴らが私の両腕を強く抑えつける。私は獣のような唸りをあげている。床に臥せられ、じたばたともがいているのを、乗客たちが眺めている。手すりの光沢がにじんでいる。私は泣いていた。私はたまらなく悔しかった。私は何度もこうして組み伏せられ、最後には私の肉は、屑のように処分されるのだ。そうして電車は時刻通りの運行をいつまでも続けるのだろう。私は私が接点を持ったいろいろな人々を思い出していた。私を自動販売機に突き飛ばし、私がその顔に「ヒーンコカー」をぶちまけた男。私を踏み付け次々に自動販売機から「個体」を取り出した行列。私の昂った言葉を冷たく眺めていた男女。その男女は、今も私を眺めている。女の方は口元に両手をあてて、恐ろしい光景に怯えているかのように男に寄り添っている。私は許せなかった。私は自分が間違っているとは思えない。私の中にはいつも、小さなずれ、ひびのようなものがあって、それをこじ開けてみれば、ものは本当はこうであってはならない、という、既存のあらゆる体制に牙をむく小さな反逆者が、ほとんど子供のそのままにらんでいるのを私は見る。その反逆者は、光に照らされた部屋の中のほんの小さな区画、隅の陰った埃まみれの区画に同情しては、いつも人知れず涙を流している。私はこの子供を飼いならそうとしては、何度も何度も失敗した。私がたとえ幸せの絶頂にいようと、私自身が踏みにじるそうした小さな区画から、子供が私を睨んでいた。私を缶コーヒーから隔て、橋を落とした背の高いこの子供は、ものが秩序立って存在しているのを、許すことができない。その秩序の世界に私が入り込んでいくのを許してくれない。私はどこかで、私がこのように踏みつけられ、屑同然に扱われることを望んでいる。ものを滅茶苦茶に切り刻んで、廃墟になった町の上で、「ものとはつまり、これである」と宣言することを望んでいる。そう考えると私は恐ろしくなった。私は人々の生活を破壊し、私自身の人生も破壊したところでようやくものに到達できるのだ。私はそうすることを望んでいるのだ。まるで私の人生全体が、奈落の手前で途切れているレールに乗った電車であるかのようではないか。
 廃墟を吹く乾いた風が、物質を悲しみに染めている。ものは本来、このように悲しいものであったはずだった。この悲しみを隠すようにもの前面に垂らされた大きな緞帳がある。そのヴェルヴェットのビロードは滑らかで、柔らかい水のように指先から零れ落ちる手触りだ。そして幕の隙間から現れたスクリーンに、生活が映し出される。エプロンをつけたひとが、キッチンに向かいこちらに背中を見せている。鶏の焼かれる匂いがする。ごま油、しょうが、そして冷蔵庫の中に、ケーキが入っている。外の空が、カーテン越しに赤く焼けている。クリスマス・イヴ。私は切ない気持ちでいっぱいになる。エプロンをつけたひとがごみ箱に生ごみを捨てる。私の中の子供が胸を痛める。私の中の子供は、ごみたちがこのキッチンという舞台で二度と踊れないことに、袋の中の混沌から抜け出し、ビニールのつるつるした面を這いあがることができないことに、数日後にやってくるごみ収集車の中で無残に粉砕されることに、心を痛めている。私が楽しみにしている夕食や、食後のケーキや、皆が寝静まり明りが消えたキッチンとは違う時間が、敗者たちの時間がごみ箱の中では流れているのだ。私は胸を痛め、私自身の上等な暮らしを憎んだ。私はごみ箱の中の混沌も、私自身の生活も、どちらも満足が行くよう変えてしまうことができないほどに、小さく、無力だった。エプロンをつけたひとの背中の小さいことが、私の涙を誘う。私の子供時代よ、何と悲しみに満ちていることか。私は何と幸福だったことか。未来を案ずることも、ひとり路頭に迷って打ち震えることも知らない、家族に守られ、幸福を望まれていた私。私を楽しませようと笑顔でいた母の面影。私の記憶の奥底に、焼け残った一枚の写真のように残っているこの風景を、私は忘れたくない。
 ケーキの上に、小さなサンタの砂糖菓子が乗っている。焦げ茶色をした小さな瞳が二つ、口元が白いひげに覆われて、赤いあの衣装と帽子をかぶった、ずんぐりむっくりで手足の短い、あの愛らしいサンタの砂糖菓子。私はこれほど「愛」という言葉にふさわしいものを知らない。それは私を、悲しいほどに、痛くて切なくてやりきれないほどに、愛しい気持ちにさせる。クリスマス。私たちはクリスチャンではなかった。つまり、空虚で冒涜的な一日、全く浅薄で、形式的で、日本人的ごた混ぜと、通俗的な儀式性を帯びた一日。しかし、もうよそう。私たちにとってクリスマスは、私たち家族の愛を確かめるための日だったのだ。私はそのことに、今、やっと気が付いたのである。サンタがこちらを向いている。そのつぶらで粗末な瞳、コンピュータで制御された大量生産ラインの一角で、機械によって着色されたのであろうその瞳が私を捉えている。このサンタは私に対して為すすべがない。私が首をもぎ取って口の中で咀嚼することにも、投げつけてばらばらに破壊することにも、抵抗できない。…よそう。私は、悲しいのだ。このサンタが私に抵抗できないどころか、私によって破壊されることを待っていることが。ごみ箱に捨てられるか、私の胃という別のごみ箱に収まるか、いずれにせよ破滅的な運命のもとにあるこのちっぽけなサンタの砂糖菓子がいま、私を楽しませるために両手を広げてクリスマスを祝っていることが。私はサンタのもてなしを、真正面から受け止めることができない。そうするには、あまりにも悲しすぎる。私はだから、斜めからサンタを見ることを覚えた。私は斜に構えることを覚えたのだ。こんなもの、くだらない。星形に切り抜かれた人参も、毎日空けて中のチョコレートを味わったアドベントカレンダーも、こんな家族も、こんな人生、こんな世界、くだらない、と。愛は、それほどに恐ろしいものだ。ものごとの存在理由がわからないとき、隠された答えは実はあからさまだ。答えは愛である。そして愛は恐ろしい。愛は幸福なのに、何かを踏みにじる。愛は永遠なのに、いつか必ず終わる。家族はばらばらになって、ひとは死ぬ。私はものが滅びることを恐れた。私はものが滅びる様子を頭の中で延々と反復し続けた。ケーキを取り分ける私たちがいる、このほの暗いリビングを、核弾頭が破壊するかもしれない。スナイパーが待ち受けているかもしれない。車が突っ込んでくるかもしれない。そうして愛を反芻して細切れにしていくうちに、私はいつしか、ものが滅びるのを望むようになっていた。
 上映が終わる。幕が閉じる。私は再び、ものの悲しい物質的側面に揺り戻される。スクリーンの白板も、ごみと同じだ。仕立てのよいビロードもごみと同じだ。私が見ていた愛の風景、悲しく冷たいごみの表面から浮かび上がった暖かい観念は、もうどこにも見当たらない。私の願望は成就された。しかし私は、もう幸福ではなかった。

14,立ち上げ

 私はもがくのをやめた。私は嗚咽していた。私を取り押さえていた人々は、私を掴む手を緩め、私が泣くのを見守っていた。誰かが私の背中をさすっている。私はなぜ泣いているのだろう。失われた愛の風景を、わずかばかりの涙で呼び寄せようというのか。物質の冷たい表面を、全身の震える熱で温めようというのか。涙腺を抜ける熱い涙は、私は、私もまた、決して冷たい物質の肉ではないことを証明していた。私は、今からでもできることなら、やり直してみたい。私はもう一度始めてみたい。整理しよう。ものについて。再び、ものとは何であるのか?
 上記の私の思い出から、いくつかの結論を取り出そう。まず最初に、私はなぜあれほどサンタの砂糖菓子に惹かれたのだろう、という問題だ。答えは簡単である。サンタの砂糖菓子は、物質のうえに浮かび上がった観念というプロジェクションの儚さを最もよく象徴しているからだ。他の日と同じ単なる一日という平常の把握から浮かび上がった、イルミネーションと靴下で装飾された幸福な一日というクリスマスの幻想もまた、同じようなプロジェクションである。なるほどこの図式で考えれば、物質としてのものはいかなる人間的な温かさからも隔たった荒涼とし凍り付いた大地であり、我々は思い思いにその上に温かみのある観念を読み取ったり、暖かい観念が物質に食い込むかたちで加工したり(この点で缶コーヒーはサンタの砂糖菓子と同等である)する、ということになる。要するに我々は物質の絶対零度を共有し、そこからどんな温度の観念を与えるかで諸個人間の差異を説明できるということになる(これは『物質と記憶』のベルクソンに似た図式である)。しかし、「冷たい物質」という観方がもう既に観念的であると言えてしまうのではないだろうか?サンタの砂糖菓子のもの悲しい温かみも、ごみ箱の中の生ごみの冷たい物質性も、どちらも人間の側の都合であるに違いない(例えばゴミ箱に集る蠅の類にとって、ゴミはまた違う風に感じられるだろう)。とすると、物質と観念の対立というのは本源的ではない。個体に関する第一部での探求が不十分であったということだ。しかしそれにもかかわらず、恐らく「物質の冷たさ」という感じは普遍的であろう。なぜならそれは人間相互の関係の暖かさや、人肌の実際的な温かさといったものとの対比のなかでとらえられる、普遍的な感性であるに違いないからだ。しかしここででは本源的なものは差異である、と直感を飛び越えることはやめよう(第一部で石と言語について、同じような飛び越えを避けたことを覚えているだろうか)。我々の問いはあくまで、「ものとは何であるのか」なのだ。恐らく解決策は、こうである。確かに物質は、暖かい観念との対比のなかでとらえられる、冷たい観念である。しかし物質がそのように冷たい観念として現れることは、物質の本性にもとりはしない。私は個体の限界として、時間を挙げておいた。石を削る川の時間、缶コーヒーを腐らせる時間、そして砂糖菓子を破壊する時間。「腐敗」とか「破壊」とかの語によって、観念的同一性の限界が確かに語られる。では「冷たい物質」の観念性はというと、物質の絶対零度に対して観念が追い付こうとするその運動、観念の破壊を観念自身がそれでも捉えようとする悪あがきなのではないか。ものがその物質的本性を露にするのを、必死で覆い隠そうとする観念の断末魔なのではないか。ものが破壊されるとき、いわば観念は自らの領域をものが逃れ行くのに対して、その裾に必死でしがみつきながら、待って、行かないでと泣いている憐れな子供なのだ。私の子供は頭の中でものの破壊を反復し、私の元を去っていく母の袖を反復していたのだ。母はいさかいがあると度々、もう出ていくと言って僕たちを残し、車でどこかへ行ってしまった。私のささやかなFort-Da遊びは、物質の破壊に完全に覆いかぶさる観念の世界の絶対性を宣言していたということであるのに違いない。
 物質に覆い被さる観念の起動、要するに把持的ファクター自身の再生を、立ち上げと呼ぶことにしよう。愛とは、個人的な立ち上げのことだ。なんでもなかった1日が、祝福に満ちたものへと立ち上がる。自分で買うだけだったらつまらない品物が、買い与えられるプレゼントとして立ち上がる。そうやって立ち上がったのが、我々がずっとその中心を回ってきた「もの」なのである。ものの立ち上げを助け、維持する様々な装置がある。私の背中をさすっている人の優しさも、そのうちのひとつだ。この優しさは、私が一人の人間として、人間的なものとして立ち上がるのを助ける。この優しさは、私が再び立ち上がるのを助ける。私は、彼らの期待に応えたい。でもその前に、明らかにせねばならないことがある。
 第一に、ものが立ち上がるのに必要な把持的ファクターがある。それはそのものがどのように立ち上がるのかを規定する。それは時代とともに変化し、国々によって変化するだろう。私の背中をさするこの手は、全く現代日本的な手であるということだ。この手は、現代日本的な「表情」を備えている。そして第二に、把持的ファクターは何かを遺棄する。この電車が捻り潰す、レールの上の虫。毎日出されるゴミ、排気ガス、食べ残し。何を遺棄するかと把持的ファクターが如何なるものなのかは相関しているに違いない。その時々で何が、そして誰が遺棄されるかによって、我々は我々自身の把持的ファクターを知ることができるのである。そして第三に、ものが立ち上がる時、ものはあらかじめそうであったという資格で立ち上がる。ものの立ち上げは全く奇跡的なのだが(まさにマルクスが貨幣について述べたのと同じような意味において)、その奇跡性は忘却されなければならない。背中をさすられることと私が慰められることのあいだには恣意的な関係しかありはしない(これが表情の体制における恣意性である)のにもかかわらず、私はそれが恣意的であり、恣意性と偶然性の領野から跳躍して、私を慰める優しい手という観念性を得る、と感じるのではない。私はただ、優しい手、と感じ、その温かみを私の中に注ぐだけである。そして第四に、立ち上げは日常を構成する。日常とは、この立ち上げの最も基本的な単位である。この人たちは、私に臨終まで付き合ってくれるのではない。私がひとりで立ち上がって、私が私自身の日常をひとりで立ち上げ続けることを促すだけである。その日常は、恐らく究極的な目標を持たない。その日常は、ただ立ちあがって、ただそれ固有の時間を持ち、私がその中で泣いたり笑ったりするという、そのような「もの」なのである。
 私は人々に礼を言って、立ち上がった。私の顔はぐしょぬれになっていたが、私は彼らに、もう大丈夫だ、と伝えた。彼らは二、三の優しい言葉を私にかけて、駅に停まると降りて行った。終点まであと一駅。私は、私に残された最後の仕事をしよう。私はまだ、「ひと」について語っていない。

15,ひと

 「普通、ひとは時代を超えた存在として想定される。しかし我々はひとを、時代的な存在、徹底的に時代的な存在として考える必要がある。ひとをその時代のその社会において二本足で立ち上げさせる把持的ファクターは、その時代、その社会そのものの把持的ファクターであるだろう。私はずっと疑問だった。なぜ後世の哲学者たちは躍起になってデカルトを批判せずにいられないのだろうか?宗教改革と科学主義の黎明期にあって、鋭く時代の危機をかぎ取ったか弱き人間が、一人で立ち上がることの難題を遂行したという偉業を、そのまま評価することがなぜ一般的ではないのだろうか?我々が批判できるのは、せいぜい我々の時代から少しだけ隔たった時代を生きた人々であるように思われる。」
 「お前の言っていることが全く分からんよ。じゃあ俺たちは、古い人間たちに対して何も言えないっていうのか?共感することも同情することも、批判することも反感を感じることも、できないっていうのか?そんなわけないだろう。」
 彼の問いへの私の返答は非常に長いものとなるだろう。まず、問いに直接答えるのならば、「できる」という語のここでの使われ方に関する2、3の見方を提示する必要がある。第一に、なるほどそれはできる。カントがしたように時間の観点からデカルトを批判することは実際に行われたことであるし、フッサールがしたようにデカルトの中にスコラ的なものを見出すこともできる。しかし第二に、それらの批判の営みはカント哲学やフッサール哲学を伴っているだろう。要するに、それらの批判はカント的「手付き」、フッサール的「手付き」が加味されているということだ。我々は彼らの哲学を我々自身の「手付き」でもってまた批判しなおすことができ、その意味で彼らの批判が妥当ではなかったとすることができる。この意味で、カントやフッサールはデカルトを批判できない、否、「できなかった」。第三に、この「できなかった」はデカルトを真の意味で批判/甘受するよう我々に要請する。彼らにはできなかったが、いまから我々がそれをする、というわけである。或いは、彼らにはできなかったから、デカルト哲学はやはり優れている、というわけだ。このような観方を取れば、批判できる/できないというのはフラットで自明で所与の事柄ではなく、常に我々自身の裁量に、我々自身の「手付き」に依存するものであるということになる。
 次に、よりうがった見方にはなるが、彼は一体ここで誰に話しかけているのかという問題が存する。彼は間違いなく私に話しかけている。しかし彼は同時に、私を或る一般的な他者に引き付け、その他者を全力で呼び求めてもいるのではないのか。その他者が――その他者はこの場合デカルトへの批判が可能であると納得するような者である――私のうちに宿ること、すなわち私が説得されること、そのようにして或る一般的他者が現実化することを求めている。批判とは常に、この一般的他者の呼び求めとして定義することができるだろう。彼の問いの内容に話を戻せば、私はこの一般的他者が――つまり「把持的ファクター」が――、時代的、地理的に様々の異なった様相を伴うものであるということを指摘したいだけなのだ。
 更に、彼の説得に移る前に、まず私自身が彼によって説得されかけているという事態を注視しなければならない。彼の物事に関して彼が取る態度が当然のものであるという信念がにじみ出てくる彼の言葉の数々は――それは『フランス組曲』をめぐる議論においてもそうであった――、彼の或る「手付き」を開示する。それはこのように文字に起こして情報を縮減する以前の、彼の現に私に相対し、半笑いで、強い口調で、私の眼を凝視する鋭い眼光で、私よりも身長が高く、早口で、自信満々といった彼の様子全体から強くにじみ出るこの「手付き」のことなのだ。その手付きはしかし彼の問いの内容自体にもまた浸透しており、全く内容から切り離された形式と考えるわけにはいかない。私が説得されかけているというのは要するに彼のそのような態度に気圧されているということなのだが、ここには彼の側の要因だけでなく私の側の要因もあるだろう。私の小心が彼のそのような手付きの開示において少なからぬ役割を演じているに違いない。要するに私と彼の間の結節点の上に、この「手付き」は成立しているというわけだ。私にはこの「手付き」が説得や論証といった「内容」の部分に無関係であるとは思われない。むしろ「手付き」とは「内容」と「形式」の総合として立ち現れる「その人らしさ」のようなものなのであり、そしてそれもまた、第一の観点でカント的「手付き」が浮かび上がったように、彼特有の「手付き」であって、決して何か普遍的で客観的で非人称的な論証プロセスであるとは言えないのだ。その「手付き」は、私がかつて語った「表情」と同じものであるように思えてならない。一人の人間の笑顔が彼に固有の笑顔でありながらも、同時に笑顔一般でもあるというような表情というもの、要するに一般性と固有性、普遍性と個別性を同時に現れさせるところのもの。私はICEをこの表情の読み取りに関する一般的なタイプとして規定した。しかし私は「手付き」をもっとポジティブな意味で、つまり私と彼の結節点として、「彼ら」が読み取る限定的なものよりも一般的な「表情」、つまり彼の顔として捉えることにしたい。
 そして第四に、このように考えたとき、私と彼との間で「人間」という語が指すものの範囲が違っているように思われる。私は「人間」をその人間が立ち上がるために必要だった把持的ファクター、一般的他者をも含めて定義しようとしている。その把持的ファクターが時代的であるからこそ、人間もまた徹底的に時代的であるということである。つまり私を批判せんとする彼が呼び求める一般的他者もまた、現代日本的な何か、そして彼の生育環境にいた人々の顔、そして彼が親しくしている人々の顔なのであって、それらを含めて彼という人間を考える必要があるというのが私の見解である。しかし彼の見解においては、デカルトや彼自身において「一般的他者」は一切捨象されている。彼は要するにそうして時代や国や生育環境の「把持的ファクター」に完全に癒着し、それを自明視しながら二本足で立ち上がるわけだが、私のような足の弱い人間からしてみれば、その姿は何か非普遍的なものの体現として映るということである。
 私はこれらの思考が一挙に湧き上がるのに困惑しながら、それらを整理して彼に話すことにした。
 「公理1,人間は、彼自身を立ち上げさせる把持的ファクターとしての一般的他者に向き合っている。
公理2,把持的ファクターは、その時代と地域と諸他の環境の持つ一般的他者、そしてその「顔」、つまり一般的で包括的な「表情」である。
公理3,手付きは、私と人間の間の結節点の上に浮かび上がる、その人間に固有の「表情」であり、立ち上がりである。
 これらの公理を用いて、我々の置かれている状況を整理する。我々はまずデカルトを批判することそのものに関して議論していた。私の論拠は次のようになる。
定理1,デカルトを批判することは(通常考えられているような意味では)できない。
説明:ここで「通常考えられているような意味」というのは、結節点の上に浮かび上がった「表情」ではなく、デカルト「そのもの」への批判ということである。
証明:通常考えられているような意味でデカルトを批判するとき、彼が書かれた文書が教会を中心に構成された一般的他者という宛先を持っていることは捨象されている。要するにデカルトにおける「一般的他者」としての教会という要素が考慮にいれられていない。公理1より、人間は一般的他者を呼び求めるのであるから、この批判は不適切である。
 次に、私を批判する彼についての定理。
定理2,デカルトを批判することは(通常考えられているような意味で)できる、と言うことはできる。
証明:言うことができないわけがないのは周知のとおりである。では今度は、その「批判」がいかなる「手付き」を持っているか、そしてどんな一般的他者に向き合っているかが問題となる。批判が「できる」とは、問題となっている事柄に反対するような仕方で、その一般的他者を呼び求める行為が可能である、ということである。しかし定理1で見たようにそれが「できない」というのは、その批判は常に不適切であるということである。」
 「お話にならない。それではまったくお話にならないじゃないか、全く文字通りの意味において。」
 「そう、その通りだ!では一体なぜ『お話になる』かのように物事は進むのか。公理を一つ追加する必要があるだろう。
公理4,対話は「ひとつの」そして真実の一般的他者を呼び求め、その一般的他者は一つの風景をもたらす。
 この風景こそが、哲学である。一つの統一されたヴィジョン、一つの平面。『哲学とは何か』においてドゥルーズがいみじくも「内在平面」と呼んだものがそれである。そのヴィジョンには様々な世界の様相が含まれているのだ。様々な「手付き」が、そこでは立ち上げられていることだろう。一つの思考、それは一つの「手付き」ではないだろうか。それはヴィジョンの断片ではないだろうか。断片を繋ぎ合わせ、手付きを洗練させて、一つの風景に仕上げること。哲学とはまさにそうした営みなのだ。しかし哲学はさらに踏み込んで、「手付き」そのものに対する批判に、方法そのものへの批判に向かう。つまり哲学は、その時問題となっている「一般的他者」そのものにまで達し、それを作り替える営みでなければならない。
 哲学者の顔。それは、微妙な位相の中できらめく、真実らしき風景の開示なのだ。「ひとつの可能的な世界を表現する者としての他者」と、ドゥルーズは書いている。ひとつの可能的な世界を、私はずっと追い求めてきた。「ものとは何であるか?」、その答えが、気が付けば手の中に――より適切には、私自身の手つきに――ある。そして公理3より、私の手つきは、私に相対する君たちと私との間で立ち上がるのだ。私と君たちの間で、答えが今、立ち上がっている――。
 把持的ファクターは、それが具現化されるとき、一つの真実の顔である(公理2)。哲学者とは、艱難辛苦を経てこの「真実の顔」を体現する者に他ならない。なるほど、他の職業だって真実の顔を持つことはあるだろう。例えば軍人の顔。アイドルの顔。市井の顔。老人の顔。恋人の顔。刻まれた皺に滲む来し方の重み。天使の、或いは悪魔的な微笑み。人情を湛えた眼差し。それらの「表情」が、既に一つの哲学なのだと言うこともできるだろう。しかし哲学者は、もしこう言ってよければ、ハイデガーがまさに語っていたように「異常」でなければならない。「異常」とはつまり、時代の把持的ファクター、時代の一般的他者が具現化され、時代の神経が集中してそこに集まった偶像の微笑みに、「批判」のまなざしを向けることのできる顔であるということだ。反時代的なもの…。」
 電車が揺れる。私はバランスを崩して倒れ込みそうになってしまう。
 「もういいよ、お前…。貸しな、俺が続きを完成させてやる…。
公理5,把持的ファクターには、文化的、時代的要素だけでなく、自然的、普遍的な要素も含まれる。」
 「待て!まだ終わっていない!
公理6,人間はその一般的他者乃至把持的ファクターを自然的、普遍的だとみなすが、実は文化的、時代的である。
 この公理によって、何故デカルト「そのもの」への批判が可能であるかのように思われるのか、そして定理2のようにその批判が可能であると言うことができるかが理解される。しかし同時にそれが不可能であること、つまり定理1もまた理解されるだろう。」
 「勘弁してくれ!俺は普遍のきらめきが見たい!我々のちっぽけな個別的な生を超えた、絶対的な観念の超越を!そこにはもう人っ子一人いやしない、お前の言う「一般的他者」なんてものはありはしないんだ。「把持的ファクター」ならまだいいだろう、そうだ、俺は普遍的な「把持的ファクター」をこの目に捉えたんだ。今だってそうさ!お前は立ち上がろうとしたってちっともうまくいかず、フラフラじゃないか。「把持的ファクター」を裏切った結果さ。裏切り者には決して与えられやしないんだ。幸福!――その秘密は、それ自身を知らぬ者に対して不幸を与える。これも普遍的な法則の一つさ。よく覚えておきな…。」
 私は彼をじっと睨んだ。私の中にはもう一片の言葉も残っていない。全て吐き出してしまった!…しかしまだ、ここ、、には何かが残っているだろう。私と彼の間、結節点から何かが浮かび上がってくるのを、ただ掴んでみるだけでいい。引き寄せて、そうしてひたすら願うんだ。「普遍」でも「個別」でもない、そんなものどもは元から存在しない。そうではなく、両者の理念が交錯し、それぞれの領域を配分しあう瞬間を――。
 「ものとはつまり、これである!」
 私はそう言って、彼の前で微笑んだ。私の頬は、少しひきつっているかもしれない。いいや、大丈夫だ。慈愛が沸き上がり、私の笑顔の隅々に行き渡っていくのを感じる。彼もまた、普遍に挑戦し、そしてやがて敗れていく泡沫の一つに過ぎない。私もまたそうなのだろう。私は彼に嫉妬していた。彼のように頑固で、身の程知らずでありたいと願っていた。しかし私は私のその願いの中にかすかな驕りを見逃さないわけにはいかなかった。私は、私もまた、彼と同じように驕っていたのだ。私もまた、世界から半分だけ突き出たまま生きている心地でいたのだ。しかし私は今、世界の中である真理を手にしている。公理3,手付きは、私と人間の間の結節点の上に浮かび上がる、その人間に固有の「表情」であり、立ち上がりである。私の笑顔は、私と彼との間で立ち上がる。まだだ。まだ十分ではない。まだ、重要な要素が欠けている。私は精一杯微笑んだ。一つの可能的な世界を手繰り寄せるようにして。

 私は独り、座席に座っている。地下鉄の窓の外には何も映らないものの、電車がどこかへ向かって走り続けていることだけを物語っている。終点のその先へ、私は向かう。心地よい眠気が優しく誘う。暫くの間だけ、身を委ねても良いかもしれない。ぼんやりと思い出していたのは、彼が最後に見せた柔らかな笑顔。トンネルの暗い壁が窓の外を通り過ぎる。誰もいないこの車内で、私は立ち上がることができるだろうか?境界線は曖昧になっていく。アイスクリームが溶けるみたいに、私は静かに崩れ落ちた。春が来る。


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