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 手のひらの上に、小さな時間がある。それは穏やかな寝息を立てて安らったままで、目覚めた後に待ち受ける町の騒音や、茶碗の割れる音、救急車のサイレン、投げつけられた火炎瓶や言い争いなど知らぬまま、物陰でひっそりと眠っている。
 一人の人間に、一つの時間が宿っている。人間は様々に流れる時間に触れながら、その一つの時間が揺らめいては、加速したり、減速したり、様々に変化する。他人とは、様々に変化する時間を共に過ごしているうちに、その一つの時間が現前することではないだろうか。「心を開く」とは、他人の時間の流れを聴き取る精密な耳を持つことではないだろうか。
 他人は、一つの事実である。物事の進むスピードと、物事に触れる手つき、未来への視線、諸々の情念についての一義的な解釈、それらがまとまりをもった一つの事実としてただ目の前に置かれるとき、僕はただ頷くことしかできない(「事実」についてそれ以外にできることがあるだろうか)。しかし本当は、その事実が他の事実であったこともできたはずなのだ。つまり、物事の他のスピード、他の手つき、他の視線、他の解釈が、できたはずなのだ。そうすると、僕は焦りを覚える。他人が自らの事実で苦しんでいるのならば、その事実を変えねばならない。
 焦りの時間。焦りは本来あるべき時間からの遅れとして特徴づけられる。しかし、本来あるべき時間とは一体何なのか。わからないが、とにかく他人が携えたこの時間が偽りであることは間違いない。この時間とは別の時間も可能だったことも間違いない。そして何より、この時間が「心を開く」ということと対立する、心を閉じている時間であることも間違いがない。要するにこの時間を持っている人間が、絶望していることは間違いがない。
 共有された時間、開かれた時間。それは外への出口へ向かうすんでのところで自我の検閲に回収される心を閉じている時間とは逆に、検閲を経ないまま一種の挑戦として出口から躍り出て、二人の間の客観のなかで流れる時間のことである。そしてそれは逆説的に、訂正可能な時間でもある。その時間は、どこまでも暫定的な時間であるということだ。閉じた時間における、検閲という内部と他者の厳しい判断と言う外部の過酷な二元性は廃止され、開かれた時間の無限の訂正可能性が中心に置かれる。自我は検閲官として外部と交信するのではなく、出口から外へ向かう演者になって人々と出会うのだ。
 僕は最近ずっと、そうして一人の演者になりきっていた。まずいところがあればひとが指摘してくれるということに賭けていた。確かにまずい演技はたくさんあった。技術が足りないところもあったし、敬意が足りないところもあった。焦りに身を任せ、それが訂正可能な身振りだと思って、まずいところがあればひとが訂正してくれると信じて、他人の事実を否定してしまうところもあった。しかし実際、訂正よりもただ、僕の前から身を引くという選択を人が取るのであれば、全くの誤りであったということになる。「言われなければわからない」という言葉は、二重の意味で真理である。一つは言われる側におけるもので、言うことが一人の人間の事実を開示するという意味において。そして二つ目に、言う側におけるもので、その開示が言われる側の態度を不可逆的に決定するという意味において。
 ともかく、手のひらの上の時間はまだ眠っているみたいだ。コップの中で氷が融ける音や、遠くで車が走行する音、雨がしとしとと降る音などが、この時間のなかではしゃいでいる。ぱん、と風船がはじけるみたいに、この時間は消えてしまうのかもしれない。この時間を育てて、世界に開かせることもできるのかもしれない。開かれた時間、開かれた事実、それが僕たちに必要だ。その事実が恐ろしいものに、息の詰まるものに見えたとしても、別の角度から見ればそうとも言い切れないはずだ。「言われなければわからない」。会話の場から立ち去らないこと。僕はかつて、立ち去ることを肯定したことがあった。結局、矛盾に満ちている。

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