<計算機>

 屠殺場に連れていかれる豚だと思った。広い砂漠を横切る行列の中で、俺は惨めに行進する。システムが天空で〈計算機〉と戯れている。誰かが俺の頭を叩いた。また別の誰かが蹴った。俺の腕は固く結ばれた綱に締め付けられ、動くたびに皮膚が新たな血を吐き出す。システムはすべてを<計算する>。列の先頭で行進する役人の小指の動きから、俺が流す血の一滴一滴まで、一つ残らず記憶して、形而上に開かれた巨大な石門の向こうに溜め込んでいる。
 俺はどこから来たのか、何故今こうして、列の先に控える死に吸い込まれていく無力に身を委ねるに至ったのか、俺はもう覚えていない。いや、覚えているには違いないが、それらの断片が全くかみ合わないのだ。まるで事物から「現実」がすり取られたかのように、今までのすべてが嘘みたいだ。思い出せないこと、まるで夢のように――それが俺が脛に抱えた傷、そしてシステムが狙いをつけた隙だった。システムはすべてを記憶している。システムは俺が見せた些細な過失、ほんの少しの手違いを、僅かに空いた戸の隙間から目撃していた。システムは俺を責めなかった。むしろシステムは俺を<計算した>。システムは決して、その顔を見せなかった。それゆえ、これがシステムの怒りの鉄槌なのか、それとも何か別の表情の現れなのか、わからない。システムが寄越した数人の官吏の顔は、いずれも特に変わった印象を与えず、むしろ物事の通常の成り行きを、電車が定時通りに駅に到着するみたいに――少し遅れることがあるにせよ、それにしても平常であるというように――、電線にとまる鳥を見つめていた。それから窓、それからカーテン、それから俺を順々に見つめ、それから彼らは俺の腕に手錠をかけたのだ。
 家から連れ出され、玄関先の階段を下りている途中、一人の女が俺を見ていた。ピンク色のセーターの上からエプロンを付けたその女は、騒ぎを聞きつけてキッチンから飛び出てきたといった様子だった。女は駆け寄り、俺のシャツの襟に掴みかかって、訳の分からない叫びを浴びせた。乾いた唾の匂いが、鼻先に押し付けられた。つり上がった眉、大きく広げられ、歯茎までくっきりと露になった口。あれは、システムの顔だったろうか?否、システムは女の喉の奥で静かに<計算していた>。そして、それこそ問題なのだ。
 あれからどれほど歩かされたのか。二人の官吏に腕を固定され、俺たちは街を抜け、山を越えた。途中、川にかかった桟橋に差し掛かると、俺の両脇の二人はぴたりと歩を止め、左の奴の足元を軸に右の奴が大回りする仕方で、俺たちは自分たちが過ぎてきた風景を振り返った。夜は更け、山間から街の光が漏れていた。暖かい光、しかし、もう俺には届かない、そして伸ばす手すらシステムにがっちりと固められ、茫然と眺めているほかないあの光。再び俺たちは歩き出した。今度は右の奴を軸に、左の奴が大回りをする仕方で、俺たちは光に背を向けた。
 砂漠は広かった。遠くを見晴らそうとしても、風に巻かれた砂が向こうをぼやかしている。俺は行列に入るように命令された。気が進まずじっとしていると、官吏の一人が腰に差した警棒に手をかけた。従うしかなかった。
 俺は何かを忘れている。そして忘れているのは、忘れているということ自体なのかもしれない。俺は俺の目の前に続く死への行列とはまた別の、もう一つの道を砂の上に描こうとした。そうだ、俺は暁の三叉路の前にいる。俺は、忘れているということを思い出す。俺は何を忘れている?
 俺は、俺が先なのか、システムが先なのか、わからなくなっている。システムが先なのであれば、システムに生み出された俺が、システムに背き、そしてシステムが俺を<計算する>。そしてそれ以外では全くない。システムは顔を持たない。とすればシステムの無表情は、俺の表情に先立っていることになる。俺の表情は、無表情の上に浮かび上がるエラーのようなものでしかない。或いはそうでないとしても、結局は徒花に過ぎないのだ。表情は、結局のところシステムの無表情という支柱に絡まって成長する蔦でしかないのだ。俺が表情の表舞台から弾かれ、無表情の死の行列に加えられたのよりもはるか前、俺があげた産声さえも、システムの無表情に対する無力な抵抗でしかなかったのかもしれない。しかし、もし俺が、或いは俺がその一部であった表情の全体が、システムに先立っているのだとしたらどうだろう。そんなことはありそうにもない。しかし俺は三叉路のもう一方の道を、描いてみる必要がある。
 俺は少しずつ思い出す。システムに奪われた「支柱」を取り戻すために。システムを形成する粒子を、俺の中に受け入れるのだ。きっとそれは、何か普遍的で際立った瞬間であるに違いない。革命家が苦肉の策で権力の一部を自らに取り入れるとき、彼は革命の夢を半分だけ捨てる代わりに、システムを凌駕する力を手に入れるのだ。
 俺はまた思い出す。俺がその上で滑走してきた、静かなる現実。そして俺の忘却を支えている滑走のスピードを。俺は徐々にスピードを緩める。俺の首にかかり、前の男の首につながっている綱を見つめる。その綱の動きに合わせるのだ。思い出せ。俺たちのよたよた歩きに合わせて小刻みに揺れ、重力に従ってふしだらに垂れるその綱のように、ゆったりと、もっと当然の、もっと所与のものの中へと赴く必要がある。きっともっと単純な話であるに違いないのだ。
 俺は少しずつ物質に触れる。綱が俺の皮膚を抉る痛みに、俺は改めて顔を歪める。この綱はさっきからずっと俺の腕を苦しめているのだが、その長い時間を、俺の忘却がもう既に食い尽くしかけていたのだ。俺は少しずつ物質に触れる。砂を含んだ風が目を乾かし、痛みで涙が出てくる。気が付けばしばらく前から俺は目を閉じかけている。目の前の綱に焦点を合わせる。綱に合わせて俺も揺れる。右に、左に、そしてまた右に。リズムが綱から離れかけるのを急いで調整し、右に、左に、そしてまた右に。システムが<計算している>。システムは俺を綱から引きはがし、頭蓋に閉じ込められた天空に連れ去ろうとする。俺はじっと耐える。三叉路のもう一方の道が点滅し、風に吹かれて消えかかっている。
 行列の先の方に、<死>が見えた。<死>はムカデのような筒状の機械で罪人の頭に食いつき、筒が回転すると頭がねじ切れて筒に吸い込まれていく。空しくなった胴体はその場に崩れ落ち、待ち構えている役人たちがそれを奥のトタンの小屋に運んでいく。俺の前にはまだ50人はいる。<死>は約30秒でひとりの罪人を<計算する>から、俺に残された時間は25分程度。足が震えている。不思議だ、と思った。<計算>が進むたびに列はゆっくりと前に進む。昔聞いた話を思い出した。アキレスが亀を追いかけて走っているのだが、時間を細切れにして観察すると、アキレスが亀が居た場所に追いつくときにはすでに、亀はその先へ進んでしまっている。アキレスが再び亀が居た場所に追いつくと、亀はまたもやその先へ進んでしまっている。故に永遠にアキレスは亀に追いつくことができない。そして俺もまた、永遠に<死>にたどり着くことがないように思われた。しかしその直感とは反対に、俺は25分後に確実に<計算され>るのだ。俺はこの25分という時間を測りかねた。それは永遠にも等しい長い時間だろうか?それともあっけなく過ぎ去っていくのだろうか?不可思議に延び縮みするこの25分という時間は、システムの時間の本質であるように思われた。<計算機>の中に組み込まれた時計は、きっとこの時間を有しているに違いない。
 俺は再び綱に集中した。綱は揺れている。この綱から引き出される一つの経験、一つの現実を掴もうとして、俺は体中の神経を集中させた。まるで綱が俺の身体の一部であるかのように。俺が綱に繋がれているのではなく、綱が俺に繋がれているのだ、というように。どこまで行っても黄色い砂漠の上に、再び道を創るのだ。俺はどこにいる?俺は何をしている?俺の前には何がある?その先には何がある?システムとは別の道、システムとは別の現実、システムとは別の経験が、俺には開かれているはずなのだ。
 井戸の中を落ちていく石のように、何かが捉えがたく、しかし鋭く、俺の中で反響する。それは俺の臀部でくるくると回り、そして頭の方へ上って熱を発している。目を大きく開く。吐きそうだ。いや、違う。俺は俺の中で何が起きたのか、わかっていた。俺は目の前の綱を見つめる。ちぎれ、ちぎれ!俺は小刻みに震える。頭の熱が喉の方へ移動していって、顎で炸裂した。綱に噛みつく。ちぎれ、ちぎれ!ギリギリと顎が悲鳴を上げる。ちぎれ、ちぎれ!綱の繊維が少しずつ解けていく。猛獣が獲物の肉を噛みちぎるように、俺は頭を左右に振って綱に食らいつく。ぶち、と音を立てて綱がたるむ。腕の綱もほどいて俺は駆けだす、砂の上の二つ目の道を。俺の後ろの奴らも俺を追う。どこまで行けばいいのかわからないが、腕の傷の痛みが方向を指し示す。システムよ、さらば。<計算機>よ、さらば。腕から垂れる血を走りながら舐めとる。足は巨大な車輪のように回り、心臓は激流のただなかで脈打つ。役人が大声で何かを叫びながら追いかけてくる。ほんの少しの跳躍、ほんの少しの…。


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