顔についての考察

 たっぷりと漆喰が塗られ、脚がくるりと丸まった焦げ茶色の木箪笥の横に、落ち着いた乳白色のビロード生地のソファが据えられている。よく手入れの行き届いたえんじ色のカーペットを囲うように、フロアランプ、大きなモンステラの鉢、そしてスツールのうえに明るい緑と長い尾羽のインコを収めた鳥かごが置かれ、正面には大きなフランス窓が一つ、よく晴れた気持ちの良い空、立派な楠、といった景色と温室の中を隔てている。左右の壁にも窓は嵌まっており、それが温室にささやかな解放感を与えている。というのも、室内には4面の壁それぞれに1つずつ、実に4ヶ所に大きな姿見が設置され、鏡の表面に室内の様子が反射するので、部屋は狭苦しい印象を与えているのである。
 室内は備え付けられたエア・コンによって常に最適な温度に保たれている。冬は暑すぎず、夏は寒すぎることがない。外の景色が季節と共に変化するのに対して、室内はいつも変わらず穏やかで、同じ時間が流れている。
 部屋の中央に小さな檜の椅子が置かれる。5歳の女の子にちょうどぴったりな大きさだ。そのうえに、髪の長い人形が座っている。顔は見えないが、目が覚めるほど赤いワンピースが印象的である。
 温室。それはありふれた、しかし決して欠くことのできない中間地帯である。一人の人間と彼を取り巻く世界との関係は、まさしく1枚のコインの裏表に等しい。彼は至るところで世界の見せる姿を目撃し、様々なその相貌に向けて顔をしかめてみたり、目を踊らせてみたり、忙しなく応じることをやめない。彼を取り巻く事柄が見せる表情と、彼自身の顔の表情は、言わば一対一に対応しているのであって、一方があるところには必ず、もう一方もまた存在しているに違いない。愉快な場面の裏面には、その場面を愉快だと思う感性が貼り付いているのだ。意味作用の秘密は、このような対応関係それ自体のうちにある。意味するものと意味されるもの、顔と事物の表情の関係である。だからここに見える一つの風景ーーよく晴れた空、大きな楠ーーもまた、それを意味する顔を隠し持っているに違いない。室内は表情と顔を、表と裏を媒介する、メビウスの帯の中間地帯である。そこでは外の風景、ないし意味されるものをそのまま真似るみたいに、人ならざるものが同じ躍りを踊っている。誰もいない、静まりかえった部屋のなかで。人形のうなだれた首が、そろと持ち上がる。静かに、ゆっくりと。だらりと垂れた両手が動きだし、生気を持ち始める。人形はついに立ち上がると、くるりと一回転するときりと止まる。暫くすると、足がこつこつとカーペットを叩き始める。徐々にそれはタップに変わり、腕が忙しなく動き始める。人形の周りでいくつかの細い線が白く瞬く。実は人形の手足の要所に糸がくくりつけられており、誰かがそれを引っ張って人形を操っているのだ。しかしその誰かは、この部屋には存在しない。なぜならその誰かこそ、室内を媒介してコインの裏表を行き来する、顔の持ち主にほかならないからである。
 一見、なにも難しいところはないように思われる。愉快な場面に立ち会った人間がくすくす笑う。意味されるものは愉快な場面であり、意味するものに笑いが対応する。愉快な場面は笑いを必要とするし、笑いは愉快な場面なしには自らを維持することができない。従って、意味するものが意味されるものを一方的に意味すると言うことなどできはしない。笑いをもっとよく見つめてみよう。いったい、何が笑いを意味しているのか?楽しげな場面ではなく、顔のうえに浮かんだ笑いそれ自体を意味するのは、いったい何なのか。言い換えれば、笑いという表情の裏に、いったいどんな別の表情が、笑いを意味すべく隠されているのだろうか。というのも、男が笑うのを見て、別の誰かがまた笑ったからである。我々が手にしている二項関係のどこを探しても、答えは一向に出てこない。従って笑いと愉快な場面との間では、まだ十分に検討されていない第三項が意味作用の懐で作用しているはずなのだ。
 ぼそぼそ声で誰かが呟く。「残酷な事実といったものは存在しない。存在するのは、事実の残酷な無だけである。」そういって、女は忘却の闇へと消えていった。一気に山脈を飛び越えて、一人の人間と彼を取り巻く世界に話の規模を移すことにしよう。彼は言う。世界はこれこれである。世界はこれこれの仕組みを有し、これこれの法則に則って動いている、だから、と彼は続ける。そのあとに来るのは、何をしても無駄だという溜息だと相場が決まっている。肩を落とし、頼りなく縮こまった痛々しい背中が見える。しかし、少し待とう。彼の肩を叩いてみる。1つの問いが残っているだろう。始めに来るのは、世界はこれこれであるという事実の方なのか、それとも今にも泣き出しそうな君の表情の方なのか。
 どちらを調べてみても、調査の対象は霧となって消えてしまう。世界の事実の方は、すぐに見つかる反例によって客観的な実在性を失ってしまうだろうし(反例のないあまねき価値判断など存在しない)、彼の光を失った瞳の方は、原因は世界の方にあると睨んでいる。ここでも結局同じ問題に行き着くことになる。意味するものと意味されるもののどちらが最初にやってくるのか。意味作用はどちらに宿ってるのか。意味は、どこから生まれてくるのだろうか。
 操り人形が踊っている。ゆっくりとステップを踏むその足取りには、古びた大時計の針を思わせるぎこちなさがある。少女は白鳥の羽根のように軽い身体をソファに投げ出して、足を所在なさげにぱたつかせている。ギイギイと金属の擦れる音が聞こえてきそうな少女の上下するふくらはぎが、室内に据えられた鏡に反射する。あちこちで揺れる白っぽい木製の肉。少女の動きに従って、穏やかな風景に捧げるように、顔の主もまた表情を浮かべているに違いない。操り人形は風景と顔に浮かんだ表情の間で踊る。コインの表と裏を繋ぎながら、そしてそれらを媒介する意味作用の秘密を小さな腕に抱えながら。
 人形を操る人間が人形を動かしているのではない。人間は決して、意味作用の秘密を知ることも、意味作用を支配することもできないからだ。意味作用は常に人間を越えているのであり、人間は自身がなす術もなく意味してしまうところに自己を発見せざるを得ない。自己同一性という意味するものはそれ自体なにか別のものによって意味されるものなのであり、いくら遡ってみても初項が与えられることはないのだ。人形の足のようにそれは鏡に反射し目を眩ませ、拡散し遂に追手を逃げ切ってしまう。一冊の辞書に対する人間の関係とは、そのようなものである。人間はその書物を糾弾することはできず、わずかなページの中に自己を見つけることができるのみである。
 顔。それがこの室内に与えられた名前である。意味がそのうえに生じる平面であり、意味するものと意味されるものを媒介し、表と裏を繋ぐメビウスの帯の中間地帯。絶えず追手を逃れて闇の中へ沈んでいく謎であり、目と鼻の先で今にでも手の届きそうな、しかし決してつかみ取ることのできない平面である。人間は、彼自身の顔を決して所有することができない。人間は、彼の顔が自由に意味するのを支える台座にすぎないとさえ言えるだろう。最後に、人間の顔というものも存在しない。人間らしい顔、ほっと安心させる顔、信頼の置ける顔は、押し付けがましい虚構であり、分厚い仮面である。顔は、水晶のように透き通っている。或いは室内の空気のように。仮面の下に顔はない。仮面の下の空虚にこそ、とりもなおさず顔と呼ばれるものが位置付けられるべきなのである。

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