白色

 最近、友人がこんなようなことを言う。「そんなことをしてたら、白色になっちゃいますよ。」白色とは何か。聞くと、彼女はよくわからないことを言う。
 夜。日の暮れた後の街を一人で歩く。いつも同じ帰り道。腐り始めた青さが、醜さに姿を変えるその前に。人生が一つの露悪的なユーモアであったとしたらどんなによかっただろう、と、思ってもないことを思う。「白色」の正体は、角を曲がると現れた。
 僕は急いで街へ戻る。くたびれた司祭を尻目に、嫌がる修道女の手を引いて、急遽自分でこしらえた告解室に連れて行く。24時間営業だから、時間は気にならない。ブレンドを二つ。2000円の出費は痛いが、背に腹は代えられない。
 心の叫びや、奥底に隠れた本心などといったものはもういない。はじめから何もなかったのだ――そう言い残して、それらは僕の膝の上で死んだ。後を引き継ぐことになったのは一匹の諧謔。目を輝かせ、今から罪の数々をまくしたてるのだと浮足立った僕。彼女が帰りたがるそぶりを見せるたびに、咳払いをひとつ。沈黙。僕は静かに、語り始める。何か重要な真実が開示されるかのような緊張感を圧しつけながら。

* *

 はじめに。ひとりの人間が自分自身が空虚であるということを証明するために言葉を尽くすことの滑稽さ。それがこの出来の悪いコントの辛うじて笑える点だ。告白しよう。僕は僕がここで喋ることに、君が「否」を突き付けることを望んでいる。――否、本当のことを告白しよう。「否」を待ち望む僕に「否」を突き付けること。それも僕が望むような優しさでもってではなく、直観的で瞬発的な嫌悪感でもって。僕はただ自分の評価を落とすために、君に嫌われるために告解を成功させなければならない。僕は自分の望みを誰かに軽々しく握りつぶされる必要がある。その後には何が残るだろう?送信者も受信者も存在しない空虚な饒舌であったのなら、望むところである。
 これが僕の奈落の五、六枚。それもどこかぼんやりと、薄白んだ奈落だ。

* *

 リルケは、「始原のざわめき」と題された短い散文の中で、蓄音機による興味深い実験を夢見る。周波数の複合体を回転する円筒の上に物質化し、それをふたたび針でなぞることでかつて存在した音を蘇らせることができるというこの大発明は、確かに理科の実験に参加した学生時代の彼を驚嘆させたのだが、「私の思い出のなかで圧倒的だったのは、漏斗のなかから出てきたあの音ではないことがやがてわかった。むしろ円筒に刻み込まれたあのいくつもの徴しが私にははるかに独特なものとして心に残ったのである。」
 彼が空想の中で蓄音機の針を落とすのは、全く別の対象だった。

「頭蓋骨の冠状縫合線と、蓄音機の針が録音用の回転する円筒に刻み込む、細かく揺れ動く線とには(まずこの点をただす必要があるだろう)――私たちがそう思おうとすれば――一種の類似性があるようにみえなくもない。さて、ここでこの針を欺き、本来ある音をさかのぼって再現すべきその針を、任意の線状、すなわち音が図形に転化された線形の上へではなく、それ自体で自然なままとして存在している線状の上へ持っていくとしたら、どうだろう――そうなのだ、もうはっきり言ってしまおう、(たとえば)まさにあの冠状縫合線の上へと――そうしたらいったい何が起こるだろうか。音が発せられるだろう、音の連なり、音楽が…」

 人間の頭蓋骨は、乳飲み子の段階では隙間が空いている。後になって前頭骨と頭頂骨が縫合することでその隙間がふさがる箇所に、痕跡として、或いは軌道として、一筋の溝が刻まれることになる。この溝の上を走るリルケのイマジネーションが再生するもの、それは恐らく記号論者が目を輝かせるような、「意味」の誕生の不可思議な瞬間である。「不信、おびえ、恐怖、畏敬――どの感情とははっきりいえないのだが、いったいそれらの可能な感情のうちのどれが、そのときこの世に出現するであろう始原のざわめきに名前を与えることを、ためらわせるであろうか……。」
 つかみとしてはなかなか上出来ではないだろうか。僕は君が抱いている感情を正確に予測することができる。何か深淵なことが語られる予感、そして今この瞬間に生じた、特に何も深淵なことは語られないのだろうという新たな失望、安心…。しかしまだ僕は君と、ひとつのことを共有している。古びたテクノロジーに対する同時代人特有の興奮への若干の倦怠のことだ。冠状縫合線が奏でる音色なんかより、僕のヘタクソな歌の方がまだ聴きがいがありそうじゃないか?しかし記号論的にはあらゆる人間が詩人になる素質を備えている。意味がないと判りきったところに意味を発見すること、或いはそもそも意味など無かったところに「虚の世界」としての意味の世界を打ち立てること、それこそが人間をコード化された鳴き声によるコミュニケーションの段階に留まる動物から区別するところのものだからだ。コンピューターは破竹の勢いで「虚の世界」でのシェアを拡大しているが、コンピューターの計算に意味を与えるのはやはり人間でしかありえない、と、僕は思っている。意味の世界、人間の世界、「虚の世界」の始点で流れるBGM、「始原のざわめき」を夢見ることもまた同様に、人間にしかなし得ないことだ。無に意味を見出す目とノイズから意味を聴き取る耳。それこそが人間の条件ではないだろうか。
 意味の発生メカニズムの端緒には、良く知られているように差異が置かれる。音韻論的にはそれは例えばtとsの発音によって単語同士が区別されることだし、記号論一般において「分節化」と呼ばれる作業が必要になる。或いは、始原的な二項対立。善と悪、天と地、昼と夜、朝と夕、陸と海、そして快と不快、生と死。或いは、ゼロとイチ。
 ここで第一の苦悩を提出しておこう。対立する二項はその極限同士においてくっついてしまうのではないだろうか。すなわち、善と悪が。静けさとざわめきが。存在と無が。そのような共存には、一つの名前が与えられている。ホワイト・ノイズ。
 クラスに一人は必ず、物理学において天才的な能力を発揮する生徒がいた。これは誰に聞くまでもなく共有された思い出である。奴は無論数学もそこそこできるのだが、別に真面目という訳でもなく、というよりはむしろ不真面目な部類だ。特に勉強はしていない。それなのに物理だけ異様にデキた、あいつ。どうしてそんなにデキるのか気になって聞いてみても、勘、とかセンス、とか返してくる、あいつ。所謂「センス」というやつの残酷な有無を突き付けられ自分の無能を恨むあの時間。あの時間こそが、僕の第二の苦悩である。

* *

 導入、終わり。沈黙。なかなかうまくいったのではないか?34点というところだろうか。しかし、もう話すことがない。どうしよう!?おっと、咳払いをひとつ。

* *
 
 初めてCDを買ったのは、確か中学1年生の頃だった。入学後最初のテストで学年4位の成績を獲得した僕は、プレイステーションVitaというゲーム機を買ってもらった。熱中したゲームのBGMを調べ、たどり着いたのがそのCDだった。『Absolution』(赦免)というそのタイトルは、皮肉にも僕の本質を射当てている。ウォークマンにそれを取り込んで、昼も夜もずっと聴き続けた。ジャンル名に「ロック」と書いてあったから、「ロック」とは何だろうと調べても、無知な僕には全部の音楽がロックであるかのように思えてしまった。従って僕はロックが一般的に「激しい音楽」であることを知らなかった。僕の耳は、残念ながらあの人間の条件をクリアすることができなかったのだ。僕は耳元の絶叫と共に毎日眠りについた。マシュー・ベラミーのヒステリックなファルセットには、カント的な無関心を許す何かがあった。メランコリックなメロディーのなかに、寝転がれるくらいの広さの安堵感があった。ギターの轟音は、美しい静寂だった。

I know the moments near
And there's nothing we can do
Look through a faithless eye
Are you afraid to die

 もう少しさかのぼって、僕の精通の体験に移ろう(以前の告解のコピペになるので、送信者にとっても受信者にとっても情報量がゼロの時間が流れる)。

 僕は風呂場にいた。インターネットの指南をあてにしながら、自分のそれを擦り続けた。徐々に冷めていく空気と水が肌に触れ、それは焦りとして興奮を殺していった、かもしれない。尿意に似た感覚が、しかし尿意とは異なって先端の方にのぼっていった、かもしれない。やがて何かが身体から排出された、が、記事にあった「快感」「多幸感」というものは、期待していたような実質を持たず、ただ観念のうちで現象と言葉を結びつけるべきかどうか迷った。まだなのかもしれないと思って擦り続けていると痛くなったのでやめた。
 人が語る快楽との邂逅は、いつも身体の内側から何かがじわじわと広がっていく感覚、空気の暗さ、身体の震え、秘めやかな悦びを伴っていた。僕は嫉妬していた。僕は怖かった。疎外感を感じた。同級生が放課後の広々とした校庭でサッカーボールを蹴りながら、なにかを叫んだり、笑ったり、しゃがみこんで泣いたりしているのを、僕はとても遠くから眺めていた。時に僕は高笑いをした。同級生の一人が、他の同級生たちに取り押さえられながら、泣きながら僕に向かってなにかを叫んでいたからだ。僕は彼の尊厳を傷つける何かを言ったのだ。僕は力いっぱい笑った。校庭に座り込んで、何が面白いのか、面白いということがなんなのかわからないまま、自分の笑い声で自分の実質が世界から隠れ、そこにある静寂と自由を、安心して味わった。毎日、昼休みの時間になると、何もなくても僕は笑った。同級生の女の子二人がそれを見て、悪魔の笑いと呼んだ。
 世界、それは、顔を歪めながら痙攣するいくつもの孤独な身体の集合、あるいは寄り集まって共振し、あるいはそうせずとも痙攣する白痴共の集合だった。快楽とあの暗さの関係はなんなのだろう、快楽があるところはあの暗さが漂い、あの暗さのなかにはいつも快楽があるはずだった。曇天で午後5時にしてはすっかり暗くなった窓の外のあの不穏な空気に覆われ、僕にとってはとても頼りなく思えた蛍光灯の明かりのなかで本にみいる同級生たちは、あの体液のてかりを隠しているに違いなかった。ホラー映画を見る人々は、叫び声をあげたり涙を流したりしながら、あの明かりの届く場所に身をおいているに違いなかった。オルガズムが僕を襲わなかったように、どんな刺激も僕を襲わなかった。

 なんとも痛々しい文章である。取るに足らないことがらを、それが自分の中に発見されたという理由だけで、ヒロイックに、パセティックに、ロマンティックに書き換える初歩的なミス。しかしこれを書いたのは僕なのだから、しおらしくしていなければなるまい。それに僕の射精の刺激で波形を描いたら、見事な直線になるには違いないのだ。それとももしかしたら、あの冠状縫合線が奏でる始原のホワイト・ノイズ(許して)と同じことだろうか。確かに僕はまだ、最初のステップから踏み出すことができていないでいる。その証拠に性交のときに限っては、あの「快楽」というものの後ろ姿が見えるのだ。恐らくドゥルーズが「強度」と呼んでいたあの苦しみを、身体の奥にある心を鷲掴みにするあの圧迫感を人が「快楽」と呼ぶのなら、苦しみに満ちたこの世界を巧みにコード変換しながら、人間という二本足の記号系は生きていることになる。この仮定が正しいとすれば、僕はやはり例の条件を満たしていない。僕は様々な刺激を一様に白色に変化させる技術ばかり身に着けてしまったのだから。苦しみというものを白くした中学の部活動、喜びと悲しみの示差的差異を白くした理系大学生時代。僕の身体は、一定以上の刺激を白色にする完全な一元論を採用することでチューリング・マシーンを超越している。あらゆる才能をAIが凌駕したとしても、こんな才能は決して模倣できまい。まさに灯台下暗しというやつだ。能ある鷹の爪を探すより、最初から存在しない爪を見つける方がはるかに難しい。
 それだから僕は、無のなかから実体を作り出すあのまなざしを、ノイズから意味を聴き取るあの耳を備えたすべての人間、あの物理学徒たちを羨望してやまない。自分の身体器官を眺めても、常に他人のまなざしを伏し目がちに伺う目と、白色を聴き取る耳しか見つからない。高校生までは他人の目を気にしているだけで良かった。良い高校に入って、テストで良い点を取って、良い大学に進学するだけで良かった。本当はそれだけではよくなかったことは、大学で出会った圧倒的な才能たちに囲まれて初めて気付かされることになる。そこでは平凡であるということも一つの才能である。それぞれの才能に重さや軽さがあるにしても、端的に無であることをどう量ればいい?というのも、僕にはやりたいことなんて何一つなかったからだ。入院したとき、僕は担当医にそう言った。高校までは課されることをやるだけでよかった、云々。それまで難しそうな顔をして話を聞いていた医者ははっと顔色を変え、手許の紙に何かを書きつけた。後で見せられたカルテには、「自閉スペクトラム症」と書いてあった。

 不安や落ち込み、イライラや怒り、傷ついた気もちや悲しさといったネガティブな感情にとらわれると、誰であれ、すぐには切り替えられない。グレーゾーンの人は、こだわりの強さや過敏さ、傷つきやすさといった特性を抱えているため、余計に切り替えが苦手で、不快な感情が長引きやすい。

『発達障害「グレーゾーン」生き方レッスン』、197頁

…ああ、そんなものは、もう抱えきれぬほど抱え込んでいるよ(ここで爆笑)。
 正常と異常の二進法もまた、あの条件に含まれることになるだろう。あらゆる記号の内部データは、このゼロイチの羅列によって成り立っているとすら言えるのではないか。「分節」の最終的な根拠。例えば、靴下を膣に比べること、それはまだいい。それは毎日みんながしていることだ。しかし、単なる網み目の集まりを膣の局部と比べること、それはやはり狂気めいたことだ。tとsの区別はわかった。しかし、tとsをどう区別すればいい?答えは簡単、あの物理学徒曰く、自然な自明性によって。

いろいろのことを落っことしてしまっているのです。何が足りないのか、それの名前がわかりません。いえないんだけど、感じるんです。わからない、どういったらいいのか――悲しい、卑屈な気持......。一度だってちゃんとしてついていけたことがありません。わからないけど、どういっても同じことです。どういえばよいのでしょう......簡単なことなのです......わからないけど、わかるとかいうことではないんです。実際そうなんですから.......どんな子供でもわかることなんです。ふつうならあたりまえのこととして身につけていること、それを私はどうしてもちゃんということができません。ただ感じるんです......わからないけど......感じのようなもの......わかりません。なにもかもやりなおしです......きっとそうです。それは文句なしに必要なんです。家庭がなければ、そして指導が......両親の指導がなければだめなんです。親がちゃんとやってみせて、いろんなことにぶつかって、自分で正しい道を見つけて、理解できるようになって......私はそれをしませんでした。なにもかもいいかげんだったのです。理解するということも。いまになってやっとそれに気づいたんです。


 才能のない人間に残された二つの手段、それは記憶と体験である。僕は前者を選んだ。僕は知識を、恐らく他の誰よりも切実に望んだ。そこに僕のアイデンティティと体重のすべてが懸っていたからだ。哲学史に残る主要書物すべてを読破することを、僕はどんなポルノよりもエロティックに夢想した。ロマン主義時代の女性読者のように、僕は行間に真実を発見できる気がした。何度も哲学者に失望し、何度も再び書物に向かった。ところが僕が愛したのは、知そのものではなく知を愛することそのものであったらしい。ということは僕には哲学しかいなかったのに、哲学にとって僕はゆきずりの女でしかなかったのだ。――ただし一回だけ、僕は哲学に愛されたことがあった。それはしょせんこんな書物共などと、すべてを放棄しかけた頃に訪れた。あれは良く晴れた11月の夜――

* *

咳払いをひとつ。

* *

 ともかく、恋は破れる。というのも僕は、手許にある尊い愛に気づかなかったのだ。僕は次から次へと知識を求めた。現象学、経済学、現代思想、精神医学、等々。性行為が白色になったとき、所謂愛が白色になった。だからこそ僕はやはり哲学しかないと決断した。レトリックを真実の片鱗に見紛う目の有無こそは、あの時期の僕と今の僕とを隔てるものだが、しかしあれは全く人間のものではない。あれは人間になり損ねた者の目だ。確かに僕の目は無を眺めてはいたのだが、しかし同時に無を眺めている己をも眺めていたのだ。僕は最後にはあの真理とひとつになることを夢見た。あの夜が再び僕を抱くことを願った。僕は美しいものを渇望し、また自らも純粋な美たることを渇望した。しかしそれらの理想はすべて、行間にしか存在しなかったのだ。僕の狂気の数年間は、たった4ミリ程度の隙間で完結した。最後に僕は、古い精神医学書の症例の中に、自己を発見するようになっていた。あのアルバムと同じ静寂が、同じ孤独がそこにあった。良いも悪いもない、悲劇にも喜劇にもならない白痴がそこにいた。
 要するに、僕は最初の選択を間違ったのだ。知識一般を手にするのにも、あの物理学徒の謎めいたセンスが必要だったらしい。何をするにも勝手がわからない。一冊の書物は線形の流れを持つからといって、一本の線のような姿をしているのではない。知識には形があって、ごつごつしていて、ところどころ飛び出ていたりする。僕はそういったものを記憶することがとんでもなく苦手だ。僕は単純なものしか好まない。サルトルの『存在と無』を読めたのはあの本が球体だからだし、ドゥルーズが好きなのは彼が三角形だからだ。フッサールやベンヤミンの書物は、文字通り異形である。彼らの書物は、あの射精の苦しみのように、僕の罪深い魂を圧迫する。僕の最大の勘違いは、いつかきっと僕もあの理想のように単純な図形になることができるというものであった。ところがあの図形の単純さというのは、僕が必死になって脱出しようとしたホワイト・ノイズだったのだ。夢は破れた。回転する図形たちが遠退いていく。全身が綿のように軽くなって、身体の奥底にある重みが零れ落ちていくみたいだった。しがみつこうと腕を伸ばしても、もうそうする理由も、そうできる理由も、手放してしまったような気がした。

* *

 第一章、終わり。喋っている間に、つまらない漫才を考えた。僕が自分のことをひたすらにあざけり、ののしる。ツッコミ訳は君。僕があまりに自分を低く見積もるので、すかさずそこでツッコミ。「そんなことないよ、大丈夫だよ」。笑いどころは、僕の自虐のヴァリエーションの意外性だ。会話の些細な切れ端を材料に、相手に一切の隙を与えずに自虐を繰り出す。ひと突きで自分の心臓とやらをやわらかく突き刺すのだ。鮮やかで潔ければそうであるほど笑いを誘う。
 「いつからそんなに面倒くさくなっちゃったんですか?」
 面白い?面白くない?そういう漫才師がもういる?そうですか。では、第二章。

* *

 高校は理系を選択したから、社会科科目は世界史しかとっていない。日本史は中学でやったきりだ。それゆえ、僕は日本史の内容を一ミリも覚えていない。それだけではない。懐かしむべき思い出というものがない。過去の決意や決断の一切を、時間が流し去っていく。故に、自分というものがない。忘却。僕が知識に見放された理由であり、第三の苦悩。知識など選ぶべきではなかったのだ。こんなに記憶力の悪い僕ごときが。
 賢者は歴史から学び、愚者は経験から学ぶとよく言う。この分類法に、白痴たる僕の居場所はない。記憶力が悪いのに、CTスキャンにも知能検査にもひっかからず、最終的に医者に言われたのは、興味がないから、だという。それはどこまでも残酷な真実だった。一度興味を持ったものでも、やはり罪深き僕の魂が一度そっぽを向けば、知識は驚くべきスピードで腐敗していくということなのだから。僕は何度そっぽを向いてきただろう。そのたびに大事な人、忘れたくない人、忘れちゃだめな人との間の絆は、ぷつりぷつりと切れていく。
 泣くことができない。それがずっとコンプレックスだった。普段から感情があまりない僕だが(中二病みたいでカッコイイと思う)、涙が出そうになる瞬間、僕の目を何かがのぞき込む。さあ始まりのシーンだ、カメラが回り出す。そうすると僕は真顔に元通り。そうはいっても最近は涙もろくなってきた。涙した映画は覚えている。最近だと1971年の『バニシングポイント』というアメリカ映画のラストシーンだ。どんな映画だったか全部忘れちゃったけど。
 かの大哲学者ダニエル・パウル・シュレーバーは次のように述べている。


「フレクシッヒの精神病院に入院していた最後の頃に、そして、ここに入院した最初の頃に、一度ならず幾百回も、人間たちの形姿が神の奇蹟によって瞬時のうちに破棄され、それからさらに死亡するか、消滅するのを目のあたりにした。――語りかけてくる声は、このような現象を、いわゆる「束の間に組み立てられた男たち」と呼んでいたが――一部は、例えば、私がコスヴィヒのビエルゾンの精神病院で会ったルドルフ・J博士のように、ずっと以前に死亡した者であり、また別の者たち、例えば検事長B氏、控訴院顧問官N博士とW博士、枢密顧問官W博士、弁護士W氏、その他の者たちは、まるで魂の遍歴の中にあるようで、すべての者たちが、いわば夢の生活を送っている。つまり、彼らは理性的な会話ができる状態にあるという印象を与えないのである。」

 シュレーバーのこの「神の奇蹟」という概念は、ベルクソンの言う直接性よりもダイレクトに僕の魂を刺激する。ここ2年の間にその回数は増え、そのたびに「理性的な会話ができる状態にあるという印象を与えないのである」。具体的には、最近起きた二度の戦争のタイミングがそうだった。それはまさに神の奇蹟と呼ぶべき悲惨であり、僕の「そっぽ向き」が発動しては、一連の記憶が吹き飛び、時間は認識論的ズタズタの災禍に見舞われる。シュレーバーは時間の不連続性を見抜いていたことで、安易なベルクソン主義を超克している。
 僕とシュレーバーの理論的立場の相違は、「理性的な会話ができる状態にあるという印象を与えない」存在者が送信者の側なのか受信者の側なのかという点にある。シュレーバーは勿論後者を取り、僕は前者を取る。シュレーバーという人物は、哲学者たちが皆そうであるように、人間のカリカチュアなのだ。彼に欠けていたのは何だったのだろう?何が欠けていたのか、その名前がわからない。物理学徒の謎。正常と異常の境界が問題となるとき、それは所謂「フツウ」というやつである。哲学者たちとは、なんと憐れな種族だろうか。彼らは何も知らされていないのだ。それどころか、無知の上にどっかり座ってひねくれた知を宣言する始末。どういう訳か欠けてしまった「フツウ」の穴を、理論で埋め尽くそうと何百ページも費やしてしまう。「知らない」と書くだけでこの厚み?(ここで先と同じバラエティ番組の別撮りされた爆笑)――とはいえ、そうした重厚な知の集積は、僕に或る感慨をもたらす。届かないものへの絶望的な渇望、壮大な勘違い。無を見つめるあの目――。哲学者たちは、あの「謎」に勝負を挑む。そして一つの認識を持ち帰ってくるのだが、その認識は実はあの「謎」の歪曲された姿なのである。なぜ知っているかって?僕も一度だけ、あの物理学徒になれた瞬間があったのだ。それはよく晴れた11月の夜――

* *

 咳払いを一つ。

* *

 ともかく、哲学とは絶海のただなかで舫綱を投げつけるようなものなのだ。カリカチュアの美点は、それがやはり何らかの真実を射当てているというところにある。ということはつまり僕がここで言おうとしていることは、人間たちの認識の一つ一つもまた、同じような舫によって成り立っているのではないかということになろうか。恐らく、これは真実である。要するに僕が言わんとしていることは、認識は、あまりにあまねきため、そのほとんどの部分において完全に正しいのだが、しかし決定的に間違っている、ということである(あまりにあまねきため、というところがなんとも言えず良いので、僕はこの文言を気に入っている)。
 ところが問題は全くないのだ。人間の意識をコンピューターのプログラムになぞらえる手法はとっくの昔に過ぎ去った流行だが、それによると個々の認識は一つのサブルーティンであることになる。有限個の手続きによって完結したショート・サーキット。外部について不可知論者のペシミズムを抱くことが一切ないままに、プログラムは進行中である。インプット、演算、アウトプット。それでなぜかうまく行ってしまうので、人間とは根本のところで皆ライプニッツ主義者なのであろう。物自体に投げられた舫は、皮肉にもあの「神の奇蹟」と同じ名を持つ秩序によって無事、宛先に届くのである。
 コミュニケーション。それは個々のサブルーティンという手札を使ったカードゲームである。送信者が「a=b」という認識を場に召喚すると、受信者がその認識を自身のプログラムにインプットする。そしてレスポンスとしてのアウトプットである「a=b」(この場合状況としては「同意」となる)か「a=c」(b≠cであれば、この場合状況としては「不同意」となる)が場に召喚される、云々、云々。ここで生じる「ちっぽけな差異」とやらが、あの名高い「感動」とか「愛」とかいうやつである。

参照元:https://navymule9.sakura.ne.jp/communication_theory.html
 かつて友達と会話をしながらこの図を紙に書きつけて、一緒にゲラゲラ笑った思い出がある。

 1949年に誕生したこの図式は、至る所で応用可能である。喫茶店での会話は勿論、あらゆるテレコミュニケーション、スポーツ、読書、空に浮かぶ虹を眺めたときの感慨、それにセックスまでカヴァーしている。コンピューター同士の結合が新たなるロマンスとして夢見られるよりも30年以上も前に、あらゆるロマンスの可能性が既に二進法的に走査されていたということだ。そのあとでは一体何が残るだろう?恐らくは――ただのフェティッシュである。

《スプロール》には、一種得体のしれない十代ティーンエイジDNAが働いている。その中に、さまざまの短命な熱病のための指示が遺伝信号化されており、妙な感覚をおいて自己複製するのだ。《パンサー・モダンズ》は《科学者サイエンティスツ》のソフトヘッド版だ。当時このテクノロジーがあったら、《大科学者ビッグ・サイエンティスツ》もみんな、ソケットにマイクロソフトを詰めこんでいたことだろう。重要なのはスタイルであり、そのスタイルは同じ。《モダンズ》は傭兵で、プラクティカル・ジョーク屋で、虚無的なテクノ・フェチだ。

 いつからか世界は《スプロール》になってしまった。そうは思わないだろうか?エピステーメーは無計画な拡張・取り壊しを繰り返し、現代人のDNAには《パンサー・モダンズ》たちの熱狂が練り込まれているように思わないだろうか?僕にはエフェクターの違いがさっぱり分からないし、1ページに1日もかけて読む作業にどんな価値があるのかもさっぱりわからない。個々のサブルーティンであるフェティッシュによって、シンセサイザーのツマミを少し動かしただけで笑ったり、泣いたり、怒ったりする。僕はアタリマエのことを言っていると思うだろうか?それとも僕が言っていることがわからない?なら思い出してほしい。僕とシュレーバーの理論的な対立のことを。君は、一人じゃない。

* *

 第二章、終了。そういえば、僕の友人の一人がこんな風に言う。自分が尊敬している人物に認められること。それさえあれば結局のところくじけずにやっていけるのだと。僕には尊敬している人がたくさんいる。そして彼らから不思議と認められていると思う。ところが彼らは僕に対する判断だけは誤ってしまうのだ。
 「本当にそう思っているんですか?」
 早まらないでいただきたい。本当は、判断というものは常に、すんでのところで、決定的に間違っている。あらゆる優れたものの源にはいつも壮大な勘違いしかない。さっきも言ったように、僕はそのことに気が付いている。僕の目には真実しか映らない。癒された孤独は幻想であり、理想は常に錯覚であり、人間はとうの昔に波にさらわれ、幸福は人造人間たちのジャンクフードであり、あの子は僕のことが好きで、2足す2は5だ。

* *

 青春、それはもしかしたら、孤独のただなかにおけるある予感のことなのかもしれない。必要なのはおいてけぼりの時間ではなく、ひたすらにこちらを焦らせる時間でもなく、こちらを無言のうちに誘う時間である。行為が成されるのを待っている時間。行為のなかに自分の名前をくっきりと刻むことの許されている時間。行為を為すとき行為が成されることが約束され、行為が成されなければ何も生じないという優しい残酷。しかし残酷の本性は別のところにある。それを知るには、何もせずただ年を重ねるだけでいい。
 22歳。失うには年を取りすぎたが、選ぶにはまだ若すぎる。僕のとなりはいつも空席で、そこには年齢にふさわしくない問いが座っている。「この世界は一体なんなのか?」問いを持つこと自体は悪くない。哲学者たちが開くあの固有の空間は問いを起源にもつだろうし、ひとりぼっちの詩人が舌打ちしながら歩く鋪道も美しい煩悶で満ちているだろう。ところが僕のこのおセンチな問いは、人びとが人生のかなり早い段階で捨て去っていくべき類のものであった。この問いは、幼稚園、小学校、中学校、高校を生き延びた。この問いは、「存在とは何か」などと大げさに振舞うことは全くない。人はよく、死についておしゃべりする。死んだ後はどうなるのか。魂は不滅なのか。脳科学的には、云々、云々。僕は死というものが全く分からない。死生観を訪ねられたとき、僕は決まって次のように言う――生がわからなければ、死もまたわかるはずがない、と(ズッコケ)。その理由はもはや明らかであろう。生と死は、あの白色において結合するはずなのだ。
 その昔、僕は美を選り好みしていた。しかしそうできる身分でないとわかったいま、僕はもう美しければなんでも良くなってきている。そこで思い当たったのだが、僕には一つだけ残された手段がある。最近の僕といえば、圧倒的な才能を見れば、またいつもの圧倒的な才能か、とため息を吐き、新しいものを知っては、ああまたいつもの新しいものか、とため息を吐く。ひとと会話をすることが増えたが、送信者と受信者の間の隔たりのことを考えて黙ってしまう。
 2019年の映画『ジョーカー』を見たことがあると思う。僕が好きなシーンは、アーサーが自己の真実を知ってしまう場面だ。母親がずっと嘘をついていたことが判明するあのシーンで、彼は、隣人の女性の思わせぶりな行動が、すべて自分の妄想であったことを悟る。彼女は彼のほとんど唯一の現実的な希望だったのだが、それがカルテ一つで崩壊してしまう。僕の「神の奇蹟」もそれに近いところがある。僕は愛されていて、トクベツだとなぜだかずっと思っていた。しかし最初から愛などなかったのだ。あったのはフェティッシュで、僕はフツウのなり損ないだった。意図して選択したわけではなかった。しかし僕の「強度または対象において異常なほど、きわめて限定され執着する興味」は、意識しないままにネガティブ・フィードバックを繰り返し、慎重に「経験」という選択を避け続けていたらしい。僕は22歳の割に、ほとんど何も知らない。びっくりするほど何もだ。東京に4年もいるのに、未だに路線の名前や地名をマッピングすることができない。酒の名前も煙草の味も覚えられない。自分が所属している大学の制度を知らない。後輩の議論について行くことができない。所謂教訓というものも、結局教養というものも、何も身に着けていない。未来を欲望することができない。なぜなら欲望は体系的に分節化された、虚無的テクノ・フェチたちのガジェットだからである。
 アイム・アン・イミテーション。もう無理っすわ。バレバレっすわ。あきらめ。それが僕の白色のプログラムを完遂する、最後のコマンドである。その時閉鎖性にはしっかりと錠が下され、その時象は平原に帰り、その時V2ロケットは人生という映画をつまらなさそうに眺めている僕の頭上で炸裂することだろう。僕に残された最後の美学。それは世界を真っ白にすることだ。痛々しい?ならその痛みも白くしてみせねばならない。僕の罪深き純白の魂が、最後に奏でるアブソリューション。いまからやり直せばいいって?ありがとう、君の言葉でまた一歩進めたよ。それじゃあ、感動のフィナーレは目前。

* *

 死にたい、と僕は言う。皆も言う。いじけて責任を一人で背負おうとしながら。ところが死は一つの鉄板ネタに過ぎないのだ。様々な重みで口々に発せられるこの言葉は、だからうまいように使わないと滑り芸になってしまう。しかし僕はそういったユーモアが好きだ。死にたいと最後まで言い続け、言葉の重みを徐々にすり減らしていって、最後に生も死も同じように軽くしてしまった者だけが、ひらりと飛び降りることができる試練がある。致死量の希死念慮は、もしグラムで量れば信じられないほど軽いのではないだろうか。
 僕が短い生涯の中で掴んだものは数えるほどしかない。今数え上げようと思ったら、何も思い出せなくて笑っちゃった。僕を構成する0枚。白色の外には色とりどりのアンノウン・プレジャーズが並んでいる。確かに僕は精神を得た。しかし僕は感情を失った。楽しいふりをして皆を騙すことが最も罪深いのだと、カート・コバーンは最後に言った。彼の学説を採用するならば僕は間違いなく罪人であることになるが、しかしそれでも僕は絶対的に自分自身であろうと欲する。最近は、褒められても貶されても、あまり何も感じなくなってきた。自己の罪に関して絶望する罪。僕は弁証法のネガティブ・フィードバックではなく、真っ白なポジティブ・フィードバックを選ぶ。だんだんしおれていくよりは、いっそ燃え尽きたほうがいい。
 何が僕をこんな気持ちにさせるのだろう?何かが期限切れになるのをずっと恐れている。だが一体何がなのだろう?もしあの溝に針を置いたとしたら、答えはひとりでに聞こえてくるのだろうか?しかしきっとそれを耳にしたとき、始原と結末はくっついてしまっているだろう。

* *

 ひとつ、思い出した出来事がある。中学校の卒業旅行で、仲のよかった男女でディズニーランドに行ったことがあった。思い出深いのは、帰りの電車での一幕。夜も遅く、僕ら8人だけが乗った下り列車の車両に、一人の男が乗り込んできた。見るからに浮浪者の、ボロボロで変色した衣服をまとうその男が乗り合わせてしばらくすると、車内は尿に似た悪臭で充満した。注意を向けるまでもなく、彼の口から発せられるノイズは、車両の端の僕らの耳に届いてくる。僕は彼のことをずっと見ていた。たぶん、同情とは別の、もっと澄んだ何かがあった。僕はスマートフォンの振動に気が付かなかった。どこかの駅で彼が下りたあと、残された沈黙がやっと、僕に通知の存在を気付かせた。それは僕の真向かいに座っていた、僕が密かに思いを寄せていた女の子からのメッセージだった。
 「助けて 怖い」
 僕がその時に感じたものをはっきり覚えている。軽蔑だ。

* *

 僕は白色だ、僕は空虚だ、僕は何も持たなかった、僕は何も持てなかった、僕は何も持てないだろう、そうやって僕はまくしたてる。死にたい、死にたい、死にたい、死にたい、大丈夫かな、ちゃんと声は上ずってる?ここが見せ場だ、うまくやらないと。空虚という真実も空虚であったとしたら、一体何の意味があるというのか。僕の中には諦めている部分とまだ諦めていない部分が競り合っている。すべてを白色に染め上げたとき、最終的に残るのは、笑いと苦しみの二元論。君はどちらに賭ける?すべてを諦めたとき、残るのは生だろうか、死だろうか?

 それじゃあ、先に行くよ。会計は済ませておいたから、頃合いを見て帰りなさい。こんな時間だし、タクシー代も渡しておこう。一匹の男になりそこねた僕がこんなことを言うのは、お笑い草というものだけれど。最後に、アツアツの自閉症ジョークを一つ。

 また見つかった!何が?白色が。それは、太陽と一緒になった海なんだ。

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