2024/3/24

 乱雑に置かれた何枚もの鏡のそばを、あてどない思考が通り過ぎる。悲しみも憎しみも知らん顔で、かといって狂喜乱舞といったわけでもない。彼がの関心はただ一つ、鏡にふっと映った自分の顔が、どんな表情を浮かべているか。ぎこちない薄ら笑いが映えるようにと、通りかかったときにそっと鏡の向きを変えては、失望してまた立ち去っていく。彼の覚束ない足取りを作り上げたのは確か、二、三の思い出の断片。しかしそのことを彼がはっきり知っているかどうか。
 あるとき彼はとても大それたことを考えた。「凄い!これは神託だぞ。こんなことを考えられるなんて、俺はとんでもなく重要な人物に違いない!」そんな幸福な瞬間が訪れたのもとうの昔、記憶の底に沈むあの思い出の断片の一つでしかない。残りの断片を為すのは、またべつの幸福な記憶。着色された昔のモノクロ映像みたいにやけに色めいたその記憶は、わずかな香りと暖かなピンク色だけを残して、彼にとって遠い過去となった。彼がかつて手にしたものはすべて忘却の中。空になった掌のなかに息が詰まるような恐怖を握りしめながら、素知らぬ顔で彼がどこへ行こうとしているのか、誰も知る者はいない。
 彼は少しずつ思い出す。一度彼が見たあの大それたことについて。彼はあのとき、全てを目撃し、そしてその全てを去るに任せてしまった。彼の眼のなかにあったわずかな不安が、彼をそのように――それまで彼がずっとしてきたのと全く同じ仕方で――ただの俯瞰者に、ただの映画の観客にとどめてしまった。彼は文字通りの意味で、信じられなかった。目の前で繰り広げられているものが、彼自身にとってとてつもなく重要な何かなのではないかということに。それによって彼自身の運命が大きく軌道を変えるかもしれないことに。彼のそばを何人もの人々が通り過ぎた。彼がゆったりと客席に腰かけている横で、人々は頑なな足取りを緩めなかった。彼はそうして一人取り残されて、いま、ようやく映画館から出ようとしている。彼の記憶を閉ざしていたのは、彼が囚われていたあの恐怖ではなかったか。何もかも捨て去る勢いで彼が飛び出していったのも、あの恐怖のせいではなかったか。立ち上がって、慎重に歩む。緩やかな階段を数段下って、出口に向かう彼の足取りに宿るささやかな踊りを、私は見逃さなかった。


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