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着ぐるみ


役目を終えた着ぐるみを脱いだ

「先生」をやめる、宣言からの生徒の反応はなかなか新鮮ですが、なにより、私自身のしごとに対する抵抗感が随分と減りました。なんだか、気分がとても楽なのです。

しておもえば、私自身が、既成のイメージの「先生」であることに如何に縛られてきていたことか。先生なんだからこんな事ができなきゃいけないとか、先生なのにできてない、とか。いや、でも逆に自分の権威をその名で守られてきてるところもありました。少々難ありでも、「先生」と言っておけばなんとなくハリボテで形になる(笑)そう、たしかに「先生」という呼び名は、教育に効果的な役割を果たすのでしょうけど、どうも私はそれを効果的に使えずプレッシャーのほうが大きかったのでした。着慣れないきぐるみで身動き取れない、みたいな。それでどうもしなやかに泳げない、使えないから脱いだ、みたいな。それに気がついたのがやっと今。

そして、そうこうあがいて今この年令になったから必要なくなったのかも、みたいなことも思ったりします。

先生であろうがなかろうが、私のしごとは何かといえば、人が音楽と深く関わることに携わることで、ここへの情熱が呼び名によって変わることはない。人がどうみるか、なんてのも一向に気にはならない、これはやっぱり年と重ねてきたからいえることだと思います。

それでも、いまだに「先生ね」って言っては「あー、そうじゃなくて・・・」と言い訳して、生徒にくすっと笑われたりしています。

壁を取り払っていく、お互いが。

先生が着ぐるみにしか慣れなったのは私の事情。

もう一方で、相互の間にある出来事。呼び名によって固定化されてしまう役割のイメージ。先生、だけでなく、お母さん、とか、主婦とか。もっとシンプルな人と人の間柄に既存の関係性が入り込んできて壁を作ってしまうもの。

名前でよんでね、と、おとなしい女の子に伝えると、えっ?えっ?という困惑モード。そこをもうひと押しして「そもそも、大人の人を名前でよぶことってある?」尋ねると、小さく首をふったので、「都会の子はね、大人でもなまえで呼ぶんだよ」となかなか疑わしい論を吹聴したあとに、「ねね、みかさん、ってよんでみ」というと、彼女、オンラインから目を合わせて話すことができるようになった、その技をつかいつつ、「みかさん」と、呼んでくれました。なんだか、恥ずかしうれし。そして、帰りの自家用車のドアを開けたところで彼女は振り返って、いつもより大きく手を降ってくれたのでした。なんか、いい・・・!

なんだかね、そういう小さな変化がさざなみのように、音楽室に満ちてくる。

そうここはもう教室ではなくて、音楽室。

学校の7時間目みたいな教室にはしたくないな、それは、曲がりなりにも必須科目ではない、世の中からみたら蛇足みたいな、音楽の側の人間だから。でも、ぎゃくにだからこそ なくてはならない存在だと思うから、学校の真似ではいけないんだと。

先週は突然「ぼく、ゲーム依存だ」と、私の宣言に負けじと告白してくれた男の子がいて、その告白、私に言う?ってすごく嬉しかったです。そうさ、先生じゃないからねけしからんとか、言わないさ。今週も、みかさん、って呼べないーーーといいつつ、ピアノはいつもよりうんと楽しそうでした。変えたのはもちろん呼び名だけではなく、大事なのはワークの中身で、それを共有するために先生やめます宣言を象徴的に表にだしてきたものなのですが、生徒たちが見事にその変化を嗅ぎ取ってくれているのが嬉しいですね。

例えば、「さ、テキストだして、バーナムからひいてね」というような冒頭の語りかけはなくなり、「さて、今日はなにを 聞かせてくれるん?」というところから始まって、自分で考えてきた練習曲を弾いたり、うんと前に丸をもらって、いつも弾いている曲をひいたり、歌を歌ったり。

終わるときも、「さ、片付けをお願いね。」と言ったら私の役目は終わり。生徒が散らかったテキストを回収して帰っていきます。

中学生の男の子二人はすごい。どんどん自分で始めだしました。頼もしい限り。

受け身の子たちがほんの少しずつ変わってきているのかも、それは、たぶん、そうだ、生徒がかわったんじゃない、私が変わってきてるからなんだと思います。
どうかどうか、せっかく脱ぎ捨てた着ぐるみ、成仏しておくれ、二度と戻ってこないように。


愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!