見出し画像

醜悪なバカとバカに寛容な日本社会

今週火曜日に、『障害者のフリをして、難癖つけてきた人を逃れた。相手は本物の障害者だと思い「がんばれ」と声をかけてきた。それを見ていた別の人は、自分が健常者だとわかると吹き出した』という主旨の醜悪なツイートを目にして、わたしは目眩がして、不快で腸煮えくり返るようで、いろいろなことを思い出しては悔しくて情けなくて、感情をひどく害した。気持ちを整理してこれを書き始めるまで、最悪の二日間を過ごした。

わたしの姉は車椅子を使っていた。下半身の随意運動ができないから、移動に車椅子を使っていた。使わざるを得なくて使っていた。自分の足で立ち、歩き、走り、飛び跳ね、どこへでも人の力を借りずに行くことが出来たらどんなにか素晴らしく自由だったろう。でもあいにくそうはいかなかった。なんで歩けないの、なんで立てないの、がんばれば立てるんじゃないの、治るといいねといった、健常者からの無邪気で邪悪な発話に生涯さらされ、その都度胸を抉られた。障害は疾患とは違い治癒も軽快もしない。だからこそ『障害』である。それを世間のマジョリティ、つまり健常者たちは解さないし気にもしていないし、日夜彼女がどんな痛みと苦しみにさらされているかなんてことに思いを馳せるわけでもないのに、気まぐれに「パラリンピック出ないの?」といきなり消費しようとしてきたりする。その醜悪さにわたしも長年やきもきしてきて、『わからない世界なんだからせめて触れないで黙ってるとかできないのかな』と腹立たしく思ってきた。

ところで姉とはたまに遊園地を開拓した。全部で十回くらいだろうか。わたしは姉を押して入場した。その時見たいくつかの光景に心底驚きげんなりした。
ある園には、車椅子の貸し出しコーナーがあった。こちらは自前の車椅子があるので不要だが、どんな型が置いてあるのかな、もしかしてタイヤがでこぼこの多い園内に適している仕様のものかな、とわたしは一応確認した。係の人に貸出用の車椅子を見せてもらい、すぐにオーソドックスな型の、ただの急患用だとわかった。それじゃあ特に借りる必要はない。コーナーを立ち去ろうとした時、一組の家族が入ってきて言った。

「車椅子貸してください」

不思議に思った。彼らは健康そうだった。でも内部疾患がある人もいるのかも知れない。でも内部疾患がある人が園に到着するなり車椅子貸してくださいと窓口で元気に訴えるものだろうか。正直よくわからなかった。貸し出しコーナーの外で、わたしは姉の足の痙攣が始まったのをさすっていた。するとその家族がでてきた。空っぽの車椅子に荷物をのせて。
乗らないんだ、と思った。荷物用に借りたのかな。ちょっともやもやした。その時姉が明るく口を開いた。
「車椅子だと、パレード一番前でみられるんですよね」
えっ、何を言ってるの、と思ったら、その家族のひとりが返事をした。
「そうなんですよ! アトラクションも、並ばないでいいし!」
そして彼らは元気に走っていった。
わたしは姉の震えるふくらはぎをさすり、ずり上がってしまうズボンの裾を引き戻し、次の排尿の時間が近いと頭の片隅で考えながら、なんて情けないことだろうと愕然とした。
「世の中には、一時の利得のために障害者を装う健常者がいる」という現実には、驚き呆れるしかなかった。

一生の障害である。一日も、一瞬も、休んだり離脱したりすることのできない障害。それを抱え、不本意な心身とともになんとか暮らしていくしかない者の、苦しみにも痛みにも目を向けることのない人たちが、その外見だけを模倣し、内実健康な心身のまま、利得を得ようとする行為の、なんて醜悪で倫理観に欠けることだろう。
にわかには信じられなかったが、日本に暮らすうちにそのような醜悪な行為を許す土壌であることにも気がついた。否応なしに気付かされてしまった。

たとえば日本のテレビでは《ウケる》という利得のために、女装する人がよく見られる。女の持つ苦しみ、女の受ける暴力に思いを馳せることなく女の外見を一時的に装う。当然、女の逃れられない痛みとは向き合わない。でも、おもしろければいいんじゃないの。そういう風潮が確実にある。そういう風潮が、他の属性の者を一時的に装う行為を認めている、気がする。
歩けない者を模倣する行為が、その延長線上にないとは言えない。

今回見たツイートは、聾唖者の模倣をしたものだった。聴力の有無をめぐる葛藤の文脈、努力の歴史、相互理解の難しさ、手話教育の課題、そういったことに何一つ思いを巡らせていないであろう人が、言語としての手話への敬意もなく、でたらめに聾唖を装った。機転を利かせて言い掛かりを撃退した、と本人は言うのだろうが、健常者の自分のままでは、五体満足で立派に聞こえて目も見えて自立する自分の体のままでは、母語を自由に操る日本人として日本で暮らしている自分のままでは、他者からの言い掛かりを回避できないのでマイノリティを装うのはやむを得ませんでしたという無能の告白であろうか。それとも障害を纏ったら少ないカロリーでトラブルを回避できました、これはオススメです、というライフハックであろうか。たしかに障害者の姿を操ってるという意味では吐き気がするほどライフをハックしているけれど。

とにかく世の中にはこちらの想定を超える醜悪な行為を働く人がいて、意外と大勢いて、彼らはその醜悪さに微塵も気づいていなくて、「装うくらいいいじゃない」と他者の十字架をかたちだけ真似るわけだが、彼らの行為が人倫にも悖るということだけは、書ける場所がある限り書いておかないといけないと思った。

ていうかそもそも嘘ついちゃいけないって知らないのかな? あまりのことに、もうため息しか出ない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?