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隙間の底から

 産後間もなく離活を始めたので《住登外》の期間が4年ほど続いた。そこに暮らしていても住民登録をしておらず、その地に税金も納めていない。支援センターで育児相談の申し込みをしても、「お住まいは?え、ジュウトウガイ?じゃあ相談は受け付けられません」と帰されることが続いた。

 未就園児対象の市営の遊び場に通った時期がある。ある日、そこで『◯月◯日 育児相談 予約可 有料 どなたでも』という張り紙を見つけた。受付で予約したい旨を申し出ると、「書いてください」と用紙を渡された。名前、生年月日、住所欄。住民票通りに書くと、「他県のお住まいですか」といつもの質問。

 実際の家はこの近くです、住民票はまだ、ここに記入した夫の家です、離婚が済んでいないため住登外です。フラッシュバックしそうな時特有の動悸を無視して一気に説明する。
 納税していない引け目がある。無料の相談サービスは受けられないのも知っている。しかし“有料”で“どなたでも”ならば、或いは。

 職員はわたしの期待が込められた用紙をビリリと破り捨てながら言った。「これはこの市にお住まいの方のための相談事業なんですよ。でも、今ここでよければ、相談に乗りますよ。どんな内容でお困りですか?話してみたらどうです」
 逡巡したが、一応好機なのだろうと認識した。わたしは抱っこ紐の中の子どもが、理解できずとも傷つかないよう、言葉を選んで紡いだ。
「寝ないんです。朝も夜も。夜は6時にはお風呂から上がって、7時には腕枕でベッドに寝かせて、絵本を読むんですけど、うとうとして泣くから、抱っこして外を歩いて。抱っこで歌っていれば眠るので、そっと家に帰るんですけど、ドアを閉める音でまた起きて泣いてしまうから、また抱っこで外を歩いて、それを繰り返して、いつも、夜1時くらいまで、何度も同じことを。そして、2時には起きてしまって、朝6時くらいまで積み木を投げていて。まとめて眠ることがなくて——」

 その辺りまで話したところで職員はわたしをさえぎった。「相談ってそれですか?お子さんが眠らないってこと?」わたしは頷いた。ほんとうは日中の寝なさ加減も訴えたいくらいだったが、人と話す体験自体、やり方を忘れて久しく既に話すのに疲れていた。

「それは相談のうちに入りませんね。寝なきゃ死ぬし、生きてるってことは寝てるってことなんで。まあ、相談したいことがあったらまたいつでもうかがいます」
 その目は冷静だった。眠りが足りていて、ちゃんと生きている人の目だ、とわたしはぼんやり考えた。そのあと彼女の言葉をずっと頭で反芻した。

 誰もいないアパートの灯りを点けて靴を脱ぐ。子どもに声をかけながら、抱っこ紐を外して一旦厚い絨毯に子どもを置く。わたしが手洗いうがいをするだけの間もこの子は待てずに大泣きをする。急いでふたたび抱き上げる。揺らして話しかけてカーテンを開けて外を見せる。とんぼの飛び交う沼と葦が全世界。「どうしたらいいんだろうねえ」わたしはぼろぼろ泣いていた。「どうしたらうまく眠れるんだろうねえ」
 こんなにも眠れず、こんなにも目の下にクマを作り、こんなにも苦しげに泣くばかりの子どもが、寝かせるのが下手なわたしといて、幸福であるはずがない。「一緒に死のっか」呟いたら、堰が切れた。

 自分があんなに激しく泣ける生き物だとわたしはあのとき初めて知った。泣いて泣いて、襟もフードも抱っこ紐もぐしょぐしょにして、子どもはそんなわたしをじっと顎の下から見上げていた。ひとしきり泣いて震えを止めると、わたしは思いのほかスッと《母》に戻った。おんぶに持ち替え台所に立つ。

 おやき、煮物、リンゴの甘煮、魚団子スープ、にんじんパンケーキ。何一つ食べやしないと知りつつ作る、これは供物。料理は作って作って捨てて捨てて、布は洗って洗って干して干して、家を整えて整えて、それでも混沌に追いつかれ追い越され、子を寝かせることさえできないわたしはなんて無力なんだ。

 子育ての真剣な悩みも、立派な人たちからすれば『悩み未満』。これはもう、粛々とこなしていくしかないのだな、とわたしは悟った。どんなに辛かろうが困り果てようが、粛々と淡々と、毎秒死なずに生きること。その繰り返しの先になにがあるのかなんて、子育ての結果なんてわからないけれど、「考えちゃダメなんだ、やるしかないんだ」ということだけは、無謀で無策な受験生のように盲信せざるを得なかった。
 だって、迷ったり逃げたりしたら、その間にこの子が死んでしまうから。モラトリアムの猶予はない。独りで育てるとはそういうことだ——。

 あの頃のわたしにもし会えたなら、そんなに抱え込むなと伝えたい一方、実際に頼る相手も絶無な状況で、支援の隙間に落ちているのを救い出せるか自信がない。
 彼女を助けるのは、きっと誰かの仕事だったんだろうとは思う。そして命取りなことに、その誰かに、出会えなかった。

 役所の人も仕事している。支援センターの人も仕事している。助産師も保健師も産科医も。みんな仕事しているのに、毎日どこかで、子どもの親が孤立して、子どもは命を落としたり、落とさなくても絶望の淵で長く暮らすのを強いられる。皆、子どもと親を救おうと懸命なのに、《隙間》がそれを阻んでいる。

《隙間》。それは本来なら家族というチームで協力的に分担されると想定され、福祉事業の立案設計に含まれなかった働きを意味する。

 産後のわたしが落ちた隙間は《住登外》という場所だった。少時は《ヤングケアラー》という隙間で暮らして辛酸を舐めたというのに、また、支援者の目に触れず手の届きにくい悪路に図らずも落ちてしまっていたらしい。そして自力で歩み続けるしかないというファイナルアンサーに再度しがみついている。

 今日、ランドセルのカタログを見る年頃にまで生き延びている子どもは、まだ朝までまとめて寝たことがない。そういえばわたしの母も姉もそうだった。
 きっとこの世には止まない雨もあって、傘を差し続けないといけない人もいて、そんな人たちはたまに数分でも代わりに傘を持ってくれる誰かに出会えることを、ずぶ濡れのまま待ち望みながら、大切な人を未来に送り届けようと必死に歩き続けている。「なんであの人あんなに大変そうなんだろう?」と感じる時、束の間でも休息を差し出せたら、助かる命がきっとあることだろう。



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