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ドイツ歌曲の楽しみFreude am Lied㊸

生のコンサートでは“今まさにここで生まれる音楽”を共有していただける喜びがあります。その時間を1曲1曲切り取って“今まさに”のひとかけらでもお届けできたら!とお送りするドイツ歌曲の楽しみ Freude am Lied…

43曲目はR.シュトラウス♬…ひとかけら、届くかな?

リヒャルト・シュトラウス(1864-1949)作曲
見つけたもの Gefunden Op.56-1

                 ソプラノ 川田亜希子 ピアノ 松井 理恵


私は何とはなしに森の中を歩いていた
何を探すでもなく歩いていた

とある木陰に一輪の花が咲いているのを見つけた
星のように輝いて、瞳のように美しかった

私が手折ろうとしたその時
花はか細く言った
「私は枯れるために摘まれるの?」

私は根っこごと掘りおこし
素敵な家の庭に持ち帰った

そして静かな場所に植えた
今は枝を伸ばし、いつまでも咲きつづけている

 ドイツの文豪ゲーテJohann Wolfgang Goethe(1749-1832)の詩。

 この詩は恋愛体質であったゲーテがただ一人結婚にいたった女性、クリスティアーネChristiane Vulpius (1765-1816)との出会いをうたったものです。彼女は造花工場で働く娘で、それまでのゲーテの相手の才女たちのように教養があるわけではありませんでした。けれども彼女の若くぴちぴちした魅力に孤独な詩人は強く引かれ、出会った翌日には彼女を内縁の妻にしてしまったのです。その結婚生活は明るく幸せに満ちたものでした。この詩は出会いから25年もたってから書かれていること、ほかにクリスティアーネとの幸せをうたったものが多くあることからもそれはうかがえます。そしてシュトラウスも良き理解者であり自分の作品の演奏者でもあるソプラノ歌手の妻、パウリーネにこの曲を捧げています。愛妻家のシュトラウスは、このゲーテの詩を彼女に贈らずにはいられなかったのでしょう。この曲は人生の伴侶との出会いを歌った愛の歌です。
 前奏の心地いいゆったりとした連打は詩人が森をそぞろ歩いているテンポ。その足取りに導かれて始まる歌声部には“einfach(簡単に)”という注文がついています。「何とはなしに歩いていた」ことを歌ってほしい指示なのでしょうね。歌詞はほとんど過去形で綴られており、記憶をそっとたどるように歌われます。お花を見つけたところからピアノパートにバスの響きが加わります。歩みのテンポから胸の鼓動、ときめきのテンポに変わったのです。胸の高鳴りが歌声部の上昇するメロディからも聞き取れます(「星のように輝いて、瞳のように美しかった Wie Sterne leuchtend, Wie Äuglein schön」)。すると突然ピアノのアルぺジオでテンポの刻みが止まります。それは「私が手折ろうとしたその時 Ich wollt' es brechen」の“その時”を表しています。そしてお花の声が聞こえてきます。「わたし、枯れるために手折られてしまうの?Soll ich zum Welken gebrochen sein?」その言葉は詩人の胸を打ったのでしょう、歌詞と同じメロディがエコーとなって直後の間奏で響きます。しばしの沈黙の後、再び胸の鼓動のリズムで、少し誇らしげに「手折らずにお庭に植え直したよ」と歌い進められます。連続する付点のリズムが庭までの弾んだ足取りを表しているようです。そしてこの曲で最も美しい場面がやってきます。「咲きつづけているblüht so fort」の“blüht”に付けられたメロディと和音です。和音は一拍ずつ変えらていて、まるで花びらが開いていく様子を映した 早送りの映像のようです。最後の2行は幸せの余韻のように繰り返され、天にも昇る気持ちがピアノパートの弾んだリズムと上行形のフレーズで表されています。ゲーテとクリスティアーネ、シュトラウスとパウリーネ…二組の幸せな夫婦の姿が目に浮かぶ、そんな終わり方ですね。


✻リヒャルト・シュトラウスRicherd Strauss(1864–1949 )✻✻✻✻✻✻✻✻✻
ドイツの後期ロマン派を代表する作曲家。ミュンヘン宮廷楽団のホルン奏者を父に持つ彼は4歳から音楽教育を受け、6歳で既に作曲を始めていた。早くから才能を発揮し、20歳を過ぎる頃には名指揮者として名を知られる存在となって、本格的な管弦楽曲やオペラの作曲も手掛けるようになる。作曲活動は『ドン・ファン』や『英雄の生涯』などの交響詩は初期から中期に、『サロメ』『ばらの騎士』などのオペラは中期から後期にかけて行われているが、200曲を超える歌曲は、少年だったころの習作的作品から80歳をこえて作曲された最晩年の『四つの最後の歌』にいたるまで、生涯を通して作られており、歌曲は彼にとって重要なジャンルであったことがうかがえる。23歳で知り合って30歳で結婚した妻パウリーネがソプラノ歌手だったことも彼の歌曲創作への意欲を高めた大きな要因ともいえる。




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