コノ・セカイノ・マツロ
3.11の時に思ったこと。
地震による原子力発電の崩壊と環境汚染。
津波で人がたくさん亡くなってさらに土地が汚され住めなくなる。
こんな世界を造ったのは自分だった。
自分以外はなかった。
「間違い」を「間違い」と見ないように、見ないようにした結果だと思った。
私は懺悔し、頭を丸めた。
コストがかかる、時間がかかる
そのために、多くのことを犠牲にしすぎてきた。
人類の歴史で「どこまで戻れば良いのか、果たして戻れるのか」
根本的なことをしない限り、全てはうわすべりだ。
頭を剃っても答えはなかった。
ただ、唯一、建てる家には電気以外の物を取り入れた、それが薪ストーブ。
薪風呂もかまども
現代的日常にはあまりにもそぐわなかった。
今も車に乗り、電気を使う暮らしは変わらない。
最近は、コロナ禍、というけれど
世間一般の対応に、叫びにもならない絶望を感じる。
自分の身体にすら聴けなくて「何を信頼していくのか?」
解体会社から取り壊した家の残骸をもらってみた。
金属も入っているし、薪にするために加工もいるし、逆にコストがかかるけれど
木が切られ、家が建てられ、人が住み、そして壊され見向きもされない残骸が残る
ただ燃やされて埋められて終わるなら、せめて「暖」を。
その最後の過程にただの虚しい抵抗のようなものかもしれない。
けれど、抵抗せずにはいられない。
世界はこのまま「闇」と転するのか、いや、決して。
そうではない。
思い出す術(すべ)を
感じる術(すべ)を
私たちのどこかに「希望」を
蘇らせることができると信じている。
もう、時代を遡り戻ることはない。
新しい創生を真剣に産み出すしかない。