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【エッセイ】朽ちて行く家と、母との約束 #創作大賞2024




現在、日本の空き家は九百万戸を超すと言われている。

人口減少、少子高齢化、地方から都市部への人口集中が進み過去最高の空き家数だそうだ。


母の実家も、その九百万戸のうちの一戸である。


母は岩手県の秋田に近い田舎町出身だ。
田舎と言っても、田畑だけでなく駅やスーパー、銀行なども近くにあり、こじんまりと生活に必要なものは揃っている。


祖母は七十歳を目前に亡くなり、
それから祖父が一人で寂しいだろうから、と毎年盆と暮れには必ず母の実家へ訪れていた。


その家は、一階に仏壇、台所、居間、トイレ、お風呂。
二階には畳部屋が四部屋ほどあった。
階段はカーブはなくただまっすぐな階段で、板が嵌め込まれてるような急なものだった。

祖父の家に、何か特別なものがあるというわけではない。
ただ何もないというわけでもない。
その家は母が産まれるずうっと前に建ち、何故かトイレが男女別で二つあるような不思議な家だった。
私は祖父の家に漂う、寂しくて、幽霊や妖怪が住んでいてもおかしくない雰囲気が大好きだった。

先日、祖父の墓参りついでにその家に寄った。
祖父はもういないのに、祖父がいたあの頃の風景が思い出された。

隣を流れる小さい川、
庭から見える大きな八幡平、
ボソボソと流れるラジオ、
会ったことのない曽祖父母の写真。

祖父が優勝したときの将棋大会の賞状、
据えた匂いの積まれた客用布団、
髭抜きをする祖父、
綺麗に貼られた障子。


亡くなった祖母の焦茶の化粧台、
器用な祖父が作った猫の人形、
母と叔母の無邪気な写真、
私たち孫が贈った修学旅行のお土産たち。


祖父の家はこぢんまりとしていて、物は少なくなかったが理路整然としていた。
流れる空気は冷たく澄んでおり、綺麗にされている家の匂いがした。


祖父は、祖母が亡くなり随分経ってから認知症を患った。亡くなる数年前から祖父は施設に入り、そしてあの家は空き家になった。

ラジオも、化粧台も、人形も、写真も、そのまま、そのまま。



家は主人がいないと朽ちるのが早いというが、
あの家は静かに、綺麗に朽ちている途中だ。
蜘蛛の巣が増え、床が沈み、庭の草木は背が高くなる。

空き家は人が住んでいたことを忘れてゆくと思っていたけれど、祖父の家はまだ祖父のことを忘れていないようだった。

冷蔵庫に貼られている、母の字で書かれた電話番号の紙。
四十%を示す湿度計。
最後にいつ使われたか分からない整列された食器たち。
ふわふわなままの白い絨毯。

思っていたより綺麗だったのが逆に私を悲しくさせた。
この家は、人が住んでいた記憶を持っているままだった。

私が小学生のとき買った小さなぬいぐるみが、畳部屋の電気の紐に結ばれていた。
私たちが帰ったあとも、祖父が私たちを感じれるようにと子どもなりに気を遣って結んだことを思い出した。
その変な気遣いのおかげで、そのぬいぐるみは朽ちていく家の風景になっていた。


別に私の実家が無くなったわけではない。
ただ、母は生家がゆっくりと朽ちていくのはどんな気持ちなんだろうと寂しく苦しくなる。

無口な祖父とトランプしたり、
おもちゃ屋で買ったゲームを妹と取り合ったり、
川が見える庭でいとこと花火をしたり。
そんな思い出を漂わせているあの家を思うと、私はただただやるせない。



母は私に、親の反対を押し切って岩手から離れたことを後悔しているとよく話していた。

母は専門学校に行くため岩手から埼玉に引っ越し、学生時代に出会った父と結婚するため埼玉に留まった。

「あのときは若かったから里帰りなんてわけないと思ってた」

埼玉から岩手まで五百キロある。
連休前、母は仕事終わりに荷造りをして夜中に私たち兄弟を車に乗せ、暗い黒い東北道をただまっすぐ走った。

母が里帰りできるのも多くて年に二回。
父の両親と同居していた母は毎日忙しく、余計に実家が恋しかったのだろう。
一心不乱、猪突猛進。
母は、あの家をただただ目指して車を走らせていた。

母の実家に着くと、祖父が「座敷で寝とけ」と言って用意していた布団で母を寝かせていたのを覚えている。

その間、私たちは庭で祖父にとんぼの捕まえ方を教わる。
とんぼの目の前で指をぐるぐるぱっ。ぐるぐるぱっ。
とんぼは、目が回り、動きを止める。

庭から仏壇の部屋で寝る母を眺める。
私の家では昼間母が寝ることはなかったので、その光景は珍しかった。

祖父の家でただ日々を過ごし、数日後また五百キロを走り埼玉に戻る。
母は口にしなかったが、切なかったんだろうな。


仕事とか子どもとか同居とか。
岩手にとどまれない諦めと悔しさを振り切るように、母の車は東北道を走り抜いていた。

今、あの誰もいない家を思って、母は責任を感じているのだろうか。岩手にまた住みたいだろうか。

小さかった私は岩手に帰りたそうな母に、「私たちを置いて岩手に帰っていいよ」だなんて言えなかった。
言えない代わりに、なんと言えば母が喜ぶかと逡巡させた。

私が出した答えは、ある約束をすることだった。

いずれ嫁いだ埼玉のお墓へ入る母に、
「母さんの骨は少しだけ、岩手山が見えるとこに撒くからね」と。

母さんは、ありがとうって確か言っていた。
その約束をしたとき、頭の中で細かくなった母の骨が白い雪と混ざり合う場面を想像した。



母が亡くなってもあの家がまだ残っていれば、私は兄弟たちとその末を見届けよう。


日本には九百万戸の数だけ、寂しさがあるのだろうか。

私は母の寂しさを、岩手山の見える場所へ骨を撒く約束に託す。




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