私を救った言葉たち
この人人生何周目、、???
というくらい私の気持ちを代弁してくれている、
良かった部分が美化されて、本当が分からなくなった私に、傷ついた事から目を逸らすなお前は何も悪くないと救ってくれた言葉たち
何かが見えなくなっていた私の視界を晴れさせてくれた言葉たち
お前が泣いたことも、笑ったことも、悩んだことも、すべて知ってくれている本を一冊を持っておくといい。困った事があるときはその本に相談するといい。
信念のない自意識だけで他人を傷つける人間嫌いなんですよ
言葉という葉は、あなたを青く彩るかも知れないし、或いは枯葉となってあなたの足許に舞い落ちるかもしれない。然しそんなことはどうでも構わないのだ。青葉も美しく、枯葉もまた美しいのである。多くの人をそう思わせるのは、その樹が凛として聳え立っているからである。
大切な人の涙する姿を、面倒くさいと思ったら何もかも、お終いなんです。それは、とても怖いことなのです。
自分が悪者になりたくないからという理由で相手の口から別れ話を持ち出すように仕向けるのは愚かで究極の甘えた行為だ
愛は借り物だ。必ず返すときが来るのである。別れの際に返し方が雑な人間は所詮その程度でしかないのである。
別れるときにその相手の本性が現れるというが、今まで本性を隠し通せていた相手に敬意を払い、本性を見せる隙を与えなかった自分の強さを誉め称えるベきである
相手の悲しみや恐怖を推測できない人間は何やっても駄目
割り切れない想いが多過ぎるのではなく、認めたくない感情が多過ぎるだけなのだ。
失って深く悲しむような大切ものがない人なんているのだろうか。私はかけがえのない大切なものを失った。私は確かに不幸かもしれない。然し、それは失うべきものがあったからなのだ。私は失うべきものがあったから、不幸であり、そして同様の理由で幸福だったのだ。
「幸せだった」とか「ほんとに好きだった」などのもう過去形でしか浮かんで来ないような言葉は、相手に伝えるべきではないのだ。それがただ自分が楽になりたいだけの言い訳なら尚更である。
根はいい人というのは根以外全て駄目なので距離をおいたほうがいい
汚いことを綺麗に言える人間には気を付けろ
無駄な出会いだったと嘆くのは、相手を愛していたのではなく自分を愛していた証拠である
元に戻せる関係というのは、また壊すことが可能になることでもある。また壊して、過ちを繰り返すくらいなら、ずっと壊したままでいたほうが幸せなこともある。
命短しもう大丈夫って何回も自分に言い聞かせたけどまだ声を聞くだけで動揺するから全然大丈夫じゃないんだ乙女
命短しいつも寂しい寂しい言っていると本当に押し潰されそうな寂しさの時に誰も振り向いてくれなくなるぞ乙女
自惚れと盲目は紙一重である
人も言葉も、出会うべき時に出会うように出来ている。それが「今ではない」というだけの話で。必ず出会えるから、なにも心配しなくていい。
終わらせる勇気を振り絞るのは、永続きさせる努力をした後ですよ
私は愛に正解も不正解も存在しないと思うが 「この人を愛せて良かった」と、一瞬でも思えたのなら、その愛はそのひとの人生に必要な愛だったのだと思う。
恋に善い恋も悪い恋もないのです。それ自体は例外なく奇跡じみた尊いものである。もし仮に、その善し悪しがあるとするなら、それは始まり方よりも終わり方で決定付られる。
相手の態度や言葉一つで、奔流となる涙で、「あぁ、自分はこんなに傷ついていたのだ」と思い知る。目には見えない心の状態を、身体は素直に教えてくれる。
始めなければ終わらないかもしれないが、始めなければ何も残らないのである。終わるのは恐ろしい事だが、全て終わりがあるのが恋である。終わることより、何も残らない方を恐るべきなのである。
哲学というほどのものでもなく、人生観というほどのものでさえもない、只ちょっとした生き方の好みの問題だけでも根本点で食い違うと、少なくとも恋人同士であれ相手が居ても孤独になることは間違いない
愛を疑え。優しさを疑え。真実と言われるものも疑え。疑うことを怠るな。疑って、自分の目で確かめろ。差し出されたものを素直に、楽して受け取るな。受け取ろうとするな。全てをまず疑え。疑えば自ずと自身が何を求めているか、何を必要としているか見えてくる。無駄に傷つきたくなければ、まず疑え。
愛に裏切られるのは、恐ろしくないんです。本当に恐ろしいのは、愛を過信して、 その結果に絶望してしまう、脆い精神に気付かされた時なんです。
人間は、喪失したものを別のもので代替し、取り返すことができるのです。しかし、喪失を放置すること、そして、その喪失のまわりを延々とぐるぐる回ることだけは、やめることができないのです。
傷というのはその存在がこころに書き込まれていくものなのです。「治った」ら「治った傷」というのが書き込まれるだけで、傷そのものが癒えることも消えることも決してない。
言いたいことを言わなかった事で、大切な人を傷つけてしまう場合もある。
「あんたに私たちの何がわかるんだよ」って怒れること。それ、すっげぇ純愛だからな。
寂しい気持ちを埋めるために付き合うふたりは「寂しい」を埋める目的を達成するとそれから先の展開が全くなくなる。ふたりで何をしたいか、どうすれば幸せになれるか、ふたりで楽しく過ごせるかなどの先の展開をお互いが理解できなくなる。寂しさを恋愛感情だと勘違いすると、苦しい目に合う。
言葉を大切に扱えない人は、言葉からも大切にされないのでなにを言っても同じである
注がれている愛情を試すような真似をして、幸せになれるなんて思うなよ
昔付き合っていた人がそうだったから「結局男はこうだから」とか「結局女はこうだから」などと言えてしまう人。お前がそういう人間を引き寄せてきただけで今眼の前にいる恋人は全く別の個体の人間だということに気付いてほしい。昔付き合ってた人間と今付き合っている大切な人を比較する行為は愚かだよ
あなたのためという言葉にすり換えて自分を正当化する人間にまともなやつはいない
「あなたの為だから」と口にする前に、これは本当に相手の為なのか、自分に功利的で、そこに自身の欲望や甘えの影が隠れていないかを改めて確認するべきである。
「あなたのためだから」という言葉は言われる側の人間にとって迷惑、或いは余計なお世話の場合が大抵なのである。
さよならも告げずに何処かへ行ってしまうやさしい人は冷たい人よりもタチが悪い
プライドは自分の譲れないものを守るための盾であって、他人や大切な人を傷つける刃物では決してない。人を傷つけるようなプライドなら、即刻捨ててしまえ。
自分の美学を覆してしまうものだけを愛と呼びたい
人に優しくない人間に足りないのは想像力とはいうが、彼ら彼女らはそもそも人に優しくする『能力』がない。何をしたら悲しむか、何を言ったら傷付くか、それを考える能力が欠落している。その人は優しくないわけではなく、能力がない故に誰かに優しくすることがそもそも『できない』人間なのだ。
自分の幸せの為なら人間はどこまでも残酷になれますから。
個性は、誰かを傷付け、傷付けられてきた人間の姿のことだ。決して明るい言葉ではない。
心にもないことをいってしまった、じゃないんだよ。心に溜まってたから言ったんだろ。自分が楽になりたかっただけだろ。自分が負うべき傷を相手に渡してんじゃねぇよ。何が心にもないことを、だよ甘えたこと言ってんじゃねぇよ。
然し君、人に向けた刃が、自身を守ってくれたことがあったかね。人に投げつけた我儘は、自身のこころを、満たしてくれたことがあったかね。
相手を試そうとするのは自分の自信の無さとや卑屈さが臨界点の時で、それで相手が離れていったら「やっぱりね」等と言って取り繕う。そんなもの、相手からしたら至極面倒で鬱陶しく関わりたくなくて離れられるのも当然である。何が「やっぱりね」だ。愚かな下劣精神の持ち主が格好をつけるんじゃない。
依存はそのひとという対象に依存するのではなくそのひととの過去の自分に依存しているのである
傷つくような表現に全く出会わないというのは精神、或いは感性が壊死している
愛について考えることは、そのひとが限りなく孤独に近い証明である
その嘘は一体誰の為のものですか。何を守る為のものですか。ひとつを得るために、今までの全てを犠牲にする覚悟があるのですか。
度を越えた憧れは嫉妬に変わる
詩や哲学、文学をやっていること自体が、不幸の告白なのだ
季節と同様に、心も移り変わるものである
「この人に恋人ができて欲しくないと思った」という感情の境界線を越えときに男女の友情は崩壊する
三丁目
@_nekonose_ さんのTwitterより
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