「便」という漢字について考えた

トイレをしていて、ふと「便」について考えた。トイレにかこつけて何を考えてるんだ、と思われるかもしれないが、私は今回、便の字義そのものに関心を抱いたのである。

まず先にも若干触れたように、名詞としての「便」は我々の排泄物を指す。しかしながら、その字の前に「大」「小」がつくことから、排泄物は全て「便」であるとも考えられるのだが、一般に「便」といえば大のほうを指し、軽い矛盾(矛盾に軽重もあったものかはさておき)が生じてしまう。この時点で既に「便」という漢字の不思議さが感じ取れるだろう。

しかし、「便」にはさらに不思議なことがある。我々も日常でよく使う「便利」や「交通の便」といった言葉に用いられる「便」は、専ら「ヒトが使用する際に、快適さや低労力をもたらすもの」という意味を含蓄している。これは先に述べた「便」の意味とは甚だ異なるように(それも対義ではなく全くの別次元として)感じられて仕様がない。

ふたつの字義にまったくの関連性がないといえば嘘になる。確かに江戸時代、人家で出た不要物であるそれを買い取り、あるいはもらい受け、それを肥料として農家に売り捌く商売があったという話を、確か高校時代の日本史の恩師から学んだ。しかしながら、それを出した本人たちからすればそれは紛れもなく不要物であり、何ら利便性を感じられるものではなかっただろう。便によって利を得るのは仲介業者だけであり、農民の手に渡ればそれは便ではなくただの肥料である。
或いは農耕する人間が大多数を占めた時代なら……とも考えたが、日本人の農民割合と漢字の流布を考えると、時代が合わないように思える。当時日本史の点数順位は下から数えた方が速かった私の所感ではあるものの、あまりに大きな違和感であったため、この説は不成立だと考えた。

字を分解してみる。人が更なると書いて便。うん、まったくわからない。「更に」「更なる」という言葉から推測すれば、「ひとがこれまでより一層良いものになる」となるだろう。これは双方の意味にとって当て嵌まる意味であれど、どこか腑に落ちない。そうこうしていると、私はある結論に至った。

もしかすると、現在「便」に含まれるふたつの意味は、ここから派生したものなのかもしれないと。

やや納得しかけたところ、ここでもうひとつ、余計な疑問が頭をよぎった。
「便」は、「郵便」や「(飛行機の)便」といった使い方も出来るではないか。
これが意外にも盲点で、前述したふたつの字義、更にはそれの元となった(と個人的に考えている)字義とも、重なる点はあれやや差異が感じられる。

これを納得するために私がまず考えたのは、読み方である。前に挙げた複数の「便」は「べん」と読み、後に挙がったこれらの「便」は、「びん」と読むのである。当然のことではあるのだが、ここが大きなターニングポイントなのではないかと感じられて仕方がなかった。

それでも疑問は残る。「郵便」「便箋」などに使われる「便」は、「書を認める/認めた紙」という意味をもつ(実際、「お便り」には便の字が使われる)のに対し、飛行機に用いられる「便」は、「人を運ぶ定期運行の乗り物の数え方」であり、バスや電車にも使われる。この差異について色々と考え、結局、郵便の「便」は他の「便」とは異なる由来によるもの(恐らくは読みによる)で、飛行機などの「便」については、その使用目的が現代的であることから、「便利」の意味が派生したものではないか、と一旦落ち着けることにした。一寸考えるのに疲労してしまったからだ。

さて、ここまで散々「便」に関する考察と持論を展開してきたが、無論それぞれの意味や漢字そのものの由来について、既に研究され解明されていることも多いだろう。それこそ漢字辞典などを開けば、回答は自ずと現れるような気もする。しかし、私が行いたかったのは一時的な思考と結論だけであり、正解を導き出すことではないことを明記しておきたい。ともあれこのような思考は非常に愉快であるから、読者諸君も是非とも実践してみてほしい。
また、所謂クソについての話が冒頭に挙がったために不快感を覚えた方がいれば、申し訳なく思うが、その際は私ではなく、このような記事に行き当ってしまった自分自身の不幸さを呪い、神社でお祓いをしてもらうとかして発散していただきたく思います。

それでは。

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