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2024/05/29 自分は勝つことでしか自己表現できないのだと気づくのに三十年かかった

某月某日、わたしはタイムラインを見て歯ぎしりをしていた。
「あ、みんな楽しそうだな……」
パフェの写真。イベントの写真。チェキの写真。カフェの写真には向かい側に人がうつっている。誰かと遊びに行ったのだろう。
ところで、わたしにはお金がない。薄給会社員、毎日の生活費と家賃に追われ、あくせく働いていても溜まるのは疲労ばかり。この前、わずかなお金で本を発行してから、今月はいつにもまして余裕がない。
そうか。創作の教室に行ったんだ。いいな。でもわたしはコツコツ地道に書いているし、教室に行ったからと言ってなんなんだ。ちゃんと書いていくことが重要なんだ。
と自分に言い聞かせて、その日はスマホを置いた。教室がなんだ、誰かと群れたからってなんだ、絶対に創作で勝つ、創作で圧倒するのはわたし……、というところまで考えて、ふと我に返った。

向こうは楽しみながら創作をしているのに、自分だけ泥水をすするように執筆しているな。

あれ? みんな、もしかして、あまり「創作で勝つ」「創作で圧倒する」とか、考えてないのか? 楽しんでる?
そこでわたしは、とあるお世話になった方に言われた一言を思い出した。
「責任感が強いのもいいですが、自分の人生を楽しむことも選択肢に入れてくださいね」
え?
楽しむってなに??

思えば昔からわたしは負けず嫌いだった。
小さい頃に親戚の集まりで花札をするとき、負けるたびに勝つまで無理やりやり直させた。小学生のときにいじめられても、「でも勉強では絶対に負けない」と不屈の根性を見せて、中学校卒業のとき上位の偏差値の高校に入学した。ちなみに中学生のときもいじめはあった。
そのあと燃え尽きて、「自分はクズなんだ」と低迷する日々をおくった。今でこそ頻繁に創作活動を行っているものの、うたの日(短歌投稿サイト)だって「首席をとる」「薔薇をとる」と執念を燃やし、公募に落ちる日が続いたときは一週間くらい寝込む。
なんて極端なんだ……。
学校も苦行、労働も苦行、生きていくことが苦しい中で、かろうじて創作活動は「楽しい」と言っていたような気もするけど、それは「ウキウキ」とか「ワクワク」じゃなくて、それをしている時だけ苦痛がすべて消えるから「楽しい」と言っていたんだと思う。自傷行為?

自分は楽しむことができない。
仮に楽しんでいても、どこかで「いいのかな」「間違ってないのか」と懸念がはしる。
知らず知らずのうちに苦痛をかかえているので、その苦痛を帳消ししてくれるものには自分のすべてをつぎ込む。そして、それに関心をもたなくなったときは、冷淡なほど手放すことができるのだ。


SNSやnoteで書いては消していることに、付き合っていた彼氏のことがある。
この人も本当に不器用な人で、どこか影を抱えている人だった。恋愛の過程で優しくしたり、優しくされたりする中で思ったことがある。
そうか、そういうものなんだ。自分の身を削って何かを作ったり、いろんな人から過剰なほどの賞賛をあびなくても、問題なく生きていけるんだ。ぼんやりただそこにいたり、なにかすることで、助けられることがあるんだ。
それに気がついたあと、結局わたしは上手くいかなくて、その関係は三週間で破局した。


今も身を削ってなにかをするたびに、自分の中では「耐える」「努力する」「悲しむ」「怒る」のコマンドしか選ばなかったことに気がつく。
これから「たのしむ」のコマンドをつくることができるだろうか?
多分それは難しいだろう。コマンドを忘れるのは出来ない。ただ、自分の雑草のような生命力をもっと活かせたらこの先面白いだろうな、と思う。
昨日、なんだか疲れてしまって、無意識につかんだうまい棒を三本連続で食べたらおいしかった。
人生のこういうことの繰り返しを続けられるように、また努力していくしかないんだろうか(あ、また頑張ろうとしてる…)。