見出し画像

2024/06/04 親のせい、自分のせい

少し前にマッチングアプリで出会ったその人は、優しいけど少し影がある人だった。二人で寝てうとうとしながら布団に潜っていると、男の方がなんらかのスイッチが入ったように饒舌に語り出した。
「俺さあ、虐待を受けてたんだよね」
わたしは黙って聞いていた。小さい頃から父親が酒を飲むと暴れがちで、ボコボコにされてきた、人生がめちゃくちゃになった、自分も暴力衝動があるのが怖い……、と言う。それをうんうんと聞いていたが、やがて男はスイッチが切れてしまったのか、そのまま寝た。
台風みたいだなと思いつつ、わたしも寝た。眠る時間が少し遅くなった。夢の中のぼんやりとした心地に身を任せつつ、はっきりしない意識でこう思った。
「この人は、なんで親のせいにするんだろう」

……と思ったことは、そのまま自分にも突き刺さって来る。今では、少なくとも表向きは親と良好な関係を維持しているが、昔はほんとうにいろいろあった。兄弟とはもう昔のように仲良くは出来ないと思う。
メンタルが不安定になったときに親を思い出すこともある。あの時こんなことを言われた、こんなことをされた、逆にこういうことをしてしまった、そういうことがワーっと頭の中に思い浮かんで、そういう時はだいたいSNSに書く。
もちろん書いてどうにかなるわけじゃなくて、しんどい、しんどいと思いながら時間が経過する。家族の関係は加害と被害の繰り返しで、それははっきり目に見えるものじゃなくて、少しずつ腐食していくものなんだと思う。
自分がいい娘であれば、こうはならなかったんだろうか?
自分が障害者として生まれなければよかったんだろうか。


何を頑張っても袋小路、自分がアスペルガーである事実からは抜け出せない。もう何をどうしても無駄だ。
働いているときにもう限界が来てしまって、当時のかかりつけ精神科医に「自分が働くと誰かの迷惑になる」とこぼしてしまったことがある。
「なら変わればいい」と精神科医は言った。あれから「変わる」という言葉の意味についてずっと考えている。
あれから死に物狂いで働いてきて、「周りの環境のおかげだ」と思っていたことが「自分が頑張ったからじゃないだろうか」とほんの少しだけ思えるようになった。

親がどう、環境がどう、自分が障害者である以上に、自分は自分じゃないか。
もうこれ以上何かにとらわれなくていい。何かを背負う必要なんてない。
「自分なんてだめだ」と自責感を抱え込みすぎるからしんどくなって、何かのせいにしてしまうんじゃないだろうか。
確かに自分はだめな部分がたくさんあって、環境は選べない。それでも、なんとかここまでやってきた自分を、少しぐらいは讃えてもいんじゃないか。
好きな漫画の台詞に「だめな奴は普通の人よりスタート地点が離れているから、二倍頑張る必要がある。つまり、二倍すごい」という言葉がある。それをたまに思い出す。
だから、「虐待のせいだ」と言う男に、今だったら「あなたはあなたじゃないか。抱え込む必要なんてない」と言うかもしれない。
それを伝える手段は今はないし、言ったところできっと上手くいかないだろう。


すれ違う人々の中で、自分の意志を持ち続けるのは難しい。自責感で心臓がぐらぐらすることは今もある。でも、失敗したとしても、上手くいくように努力した事実は消えない。
これからも苦境は続くし、それを誰かが認めてくれるなんて一切ない。でも、自分さえわかってさえいればそれでいいんじゃないだろうか。