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2024/05/23 わたしが小説を書き始めたきっかけ

今は「階田発春」と名乗っているが、昔のペンネームは「増井つづく」だった。
「増井」は「麻酔」のもじりで、麻酔が続く、つまり自分の文章は毒にも薬にもならなくても、痛みを和らげるための麻酔になりますように、という気持ちをこめて名付けた名前だった。
人によって文章を書くきっかけは様々だろうけど、わたしの場合は小学生三年生のとき、『ハリーポッター』シリーズのハリーとハーマイオニーがもし結婚して女の子が産まれたら、そんな物語を書いた。つまり、二次創作がわたしのきっかけだったのだ。
昔からわたしは典型的な妄想しがちの少女だった。それは裏を返すと、現実で上手くやることが出来なかったからで、その痛みをごまかすために妄想に逃げていた。
その生きづらさに「発達障害」と名前がつくのはずっと後のことだ。


二十代になってメンタルが異常の方向に振り切れてしまったわたしは、「家族を殺すか」「自分を殺すか」という瀬戸際まで落ちて、実家を出て障害者のグループホームに入居することになった。
そこは支援者が入居している障害者に対してたびたび怒るような場所だったが、わたしはそこしか住む場所しかなかったので、メンタルがぼろぼろになりながら必死に耐えた。満了期間になって逃げるように退去して、他の障害者福祉を頼みの綱にして生活保護を受給した。
生活保護が認可される二週間までは圧倒的に金銭が不足していたが、区役所からの支援物資は5日分のクラッカーだけだったのはよく覚えている。


振り返って思うのは、誰かの税金で暮らす行為に耐えられる人は、おそらくあまりいないということだ。ちょうどコロナ禍だったこともあり、福祉施設の通所以外しばらく引きこもる日々が続いた。そうしていくと、もとから異常だったメンタルが更にどん底まで落ちていった。
とにかく生きていたかった。このままだと、自分は本当に死んでしまうんじゃないかと思った。なにか、痛みを紛らわせるものが欲しかった。でも、あんなに読書が好きだったのに、気がつけばまったく読めない。
ならば、自分が読める文章は自分が書くしかない。
現実の痛みをごまかすために、死に物狂いで文章を書いて、ネットに投稿した。こんなのは文章じゃない、小説じゃないと原稿用紙を引き裂かんほどの苦しみを感じながら、それでもひたすら無我夢中に書き進めた。それしかできることがなかった。そうして読者が増えた。それだけが自分の救いだった。


十年前に小説を書いてから今、振り返って思うことは、自分に特筆すべき才能はないということだ。ただ、もし才能があるとするならば、それは泥水をすするような生存力に依るものだろう。一歩間違えれば死に至る人生の中で、きっと分岐を間違えたら死ぬ可能性はいくらでもあった。今だって苦しい中働いていて、その気になれば自分はまた死を選ぶ、そういう自覚がある。
たまに、わたしは創作活動をしている『普通の人たち』が羨ましくなる。わたしには最初から生活がなかった。暮らしがなかった。人生がなかった。人権、という言葉があるけれど、おそらく、わたしという存在には最初から基本的人権が用意されていなかったのだろう。そう思うときがある。
もし、今書いている創作物に思いを馳せることがあるならば、どうかわたしに希望を見せて欲しい。少数派が多数派をひっくり返すなんてありえない。わたしのような弱者なら尚更だ。ただ、もし少しでも可能性があるならば、それは自分のように苦しむ人たちに少しでも、心の居場所を与えるものであってくれないだろうか。

今も苦しい中必死に働いていて、何度も諦めそうになるけれど、すがりつくように創作活動をしている。何かを変えて欲しい。それが何かはわからない。これから何が変わるか知るためにも、もう少し書き続けていくしかないのだろう。