旅のあとがき 2019.11.10 長崎県五島 福江島編
港へ立ち寄る度に船内アナウンスが入って目が覚めた。あまり眠れていなかった。
疲れていたがレンタカーを借りて、たまたま立ち寄った海が、僕の持っている「海」という概念を変えてしまった。
海に流れ込む水に手を浸していると、みるみる体が回復していくのを感じた。
海に入りたい、というよりは海に浸りたい。そんな風に思う海は初めてだった。
圧倒的な海だった。
裸足になって砂浜を歩いたとき、「海が好きだ」と、初めて心の底から思った。
あの海を離れて、一週間。 【五島の歴史はこちらを参照ください】
あの日、海の見える教会の階段を上がると、シスターとすれ違った。
彼女の鳴らす鐘の音が、風に煽られて小さな海沿いの街に響き渡った。
行き詰まりを感じていた僕は「何かにすがりたい」と、そう思った。
無条件に受け入れてくれる「何か」。
生きる「目的」ではなく、生きていく「許し」のようなものが、必要な時があるのだ。
そこに、神や仏がいたら、心が動いてしまう。
それは、人の弱さであり、尊さ、可愛さ、なのかもしれない。
統治にそれを利用したのが、天使だろうが悪魔であろうが、そんなこと関係なく、それで救われる人がいる、、という、ただそれだけなのだ。
神聖な教会の雰囲気に息を飲みながら、歌などやめてしまってもいいと思った。
このままこの島で、海を見ながら暮らした方が幸せなのではと思った。
今でもそう思っている。
そうしないのは、あの島で生きていくだけの財産が僕には無いということ。
あの島で生きていく為の現実的なものが整う状況では無いという、ただそれだけのことだ。
でも、そこまでの導きが「歌」であったということを思うと、結局僕は、どこへ行っても歌うのだろう。
何もかもが都会よりもおおらかに見えるその島でも、日没のあっけなさは、都会のそれと同じだった。
港には働く男と女がいて、カラスばかりでカモメの姿は無く、野良猫は痩せていた。
商店に入ると、昔の実家のスーパーの匂いがした。
世界遺産という看板を掲げた僕のふるさとのように、活気と停滞、島の物と外資が混在しているが、僕はそれが嫌いでは無い。
血は巡るものだ。
世界は混血であり、宗教もまた、混じり合って進化を遂げてきた。
それぞれの都合によって塗り替えられる歴史、、、僕か綴る手記にだって、時に配慮という顔をした隠蔽が潜んでいる。
島に点在する教会を巡ると、染み付いた悲しみのようなものを感じるが、その悲しみを肯定するために存在し続けている祈りのようなものもまた、僕には映った。
今でも、昔のように、隠れて祈っている人たちもいるのだという。
あの鐘を鳴らす年老いたシスターの、僕は何も知らないけれど、その横顔が僕の胸を打ったのはなぜだろう。
島の北へ行くと、海が厳しい顔をして、白いしぶきを上げていた。
そこにもまた、小さな教会があり、同じようで少し違った寂しさがあった。
喜びは一人でも抱えきれるが、悲しみはきっと、無理だと思う。
だから、人にはそれが必要なんだろう。
たくさんのことを知ることも必要だが、それよりも、たった一つのことを理解していればいい。
碧すぎる海を見ていると、そんな気持ちになった。
あの海に、また、帰りたい。
2019.11.20
田尾フラットに集ってくれたみなさん、桑田さん、有川さん、ありがとうございました!
今度はもっともっと、ゆっくり、伺います。
かな〜〜〜〜り、良い時間でした!!
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