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窓越しの世界が教えたくれたこと

窓越しの世界が誰にも見られない物だとしたら。

時には、感情に支配されて、誰かをなじったり、傷つけるような、攻めるような言葉もあっただろうか?

また、もっと固有名詞を記録したり、嬉しいことをそのまま書いていたかも知れない。

その方が読者の心をくすぐりそうな事も知っているけれど、なかなか出来ない。

、、、僕にとって、歌や文字の表現というものは、一体なんなのだろうか?と、ふと思う。

吐く息を追いかけて掴むような、、そんな気持ちを、これまで何度考えただろうか。

それらしい言葉が見つかるほどに、言い訳がましかったり、こじつけに感じられた。
結局、同じ答えにたどり着くのだけれど、それに自信を持ち続けることが如何に簡単で、難しいのかを、この20年繰り返しているので、よく知っているつもりだ。

いよいよ「もう全てやめてしまってもいいのでは?」
そんなことが数日に一度は頭をよぎる。

今朝、2019年1月を読み返すと、チェンマイで瞑想したことを思い出した。忘れていた感覚が蘇って、腑に落ちることがあった。

僕だけに限ったことじゃないだろうけど、曲を生み出したり、言葉を紡ぐ時というのは、とても神聖な時間。

それは、わかりやすく言えば、「神」とか、「おてんとさま」とか、そんな存在と対峙する姿勢と似ているのだと思う。(ブッダは「神」ではないけれど)

あと、大げさに言えば、僕の歌や言葉に触れる人たちのことを考えると、、それは僕にとっての「神」や「おてんとさま」「ブッダ」と、まるで同じ立場のような気もする。

その存在があるから、僕は少し、しゃんとする。
歌はもちろん、窓越しの世界も、一つの作品という意識があるから、様々を削ぎ落として、自分の言葉にできることだけを選び落としている。

それに、現実の世界では、あらゆる欲を刺激する物に支配されてしまうから、せめて歌や、言葉で、自分を確かめているのかもしれない。

でも、それが人の役に立つのか??

そう問われたら、自信がなかったけれど。
好きで始めたことだし、様々な理由で続けてくることができた。

最近、この窓越しの世界・総集編のアーカイブ公開が終わったら、全部やめちゃおうかな、歌も、もういいかな、、とか頭に過ぎることがあった。

でも、今日、窓越しの世界を見返して思い出した気持ちが、僕の気持ちをとても軽いものにしてくれた。

あの日チェンマイで、父のいる寺の本堂に入った瞬間、

なぜか、救われる気持ちがした。

ただ、そこには聖域があって、

その空気に触れるだけで、救われた。

だから、

僕は、僕の聖域を、これからもただ、守って、置いておくだけで良いのだと思った。

僕の歌や、言葉に触れた誰かが、

あの日、僕が感じたような、救いを、

感じてくれたら、

それだけで、僕はきっと嬉しいのだ。

だから、僕はこれからも、ただただ、聖域を生み続ければいい。

そして、僕の聖域が、誰かの聖域を思い出すきっかけになればいい。

結局、ファーストアルバムのブックレットで書いていることと、何も変わらないってことに、、

ここにきて気がつくのだ。





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