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ノストラダムスに関する考察③-ノストラダムスの実像及びその時代(前編)-

 ノストラダムスに関する考察。1回目と2回目は五島勉によって歪められたノストラダムス像の問題とその結果新々宗教、とりわけオウム真理教に与えた問題点について考察して参りました(※1)。今回からはノストラダムスが実際はどういう人だったのか、ノストラダムスの大予言がヒットした時代背景などを踏まえてノストラダムスについて考察して参りたいと思います。今週はジェイムズ・ランディのノストラダムス批判及びそれに対する私の見解について述べて参ります。

ジェイムズ・ランディのノストラダムス批判

 ノストラダムスの大予言は五島勉のみならず、世界中のオカルトファンやマニアの間で一種の崇拝という形で評価されている。そのためかオカルトに対する批判的考察をする場合、ノストラダムスの「解釈」者のみならずノストラダムス自身についても批判、反発がなされる傾向がある。

 例えばジェイムズ・ランディは、フランス在住の下級貴族、匿名の聖職者の予言に関する相談(本書では予言と書いてあるが、内容的にはトラブルにまつわる人生相談の様相のほうが強い(※2))へのノストラダムスの対応が不親切であるとしている。また、ノストラダムスが敬虔なカトリックでありながらプロテスタントの考え方に共感することについて、

ノストラダムスは、二枚舌と詭弁を使っていた(※3)。

と評する。関連して、宗教裁判にかけられる可能性があったノストラダムスが無事だったのも、アンリ2世の王妃カトリーヌ・ド・メディシスのお気に入りであったからであり、権力の庇護があったからとの見解を示している(※4)。

 ユリウス・カエサル・スカリゲルから酷評されたことについては「ノストラダムス、スカリゲル先生にこき下ろされる」と冷笑的なタイトルがつけられ(注.これは日本版のオリジナル)、ノストラダムスが占星術に興味を持っていたことが原因だったとの見解を示している(※5)。また、ノストラダムスの代表作の一つ「ジャムと化粧品論」についても

はじめジャムと化粧品の専門家として世に出た。(※6)

と評している。 

 このジェイムズ・ランディのノストラダムス評からすると、ノストラダムスがノストラダムスの大予言「解釈」者同様の世間を惑わした人物であるかのような印象を与えるが、果たしてそうなのだろうか。確かにノストラダムスの大予言の内容や相談に対する回答はどうにでも取れるような内容にはなっており、その意味では予言に対して誠実であったとは言えないだろう。ただ、当時のルネサンス後期における予言書の位置づけ、知識層の思考形態といったことを併せて考察をしないと正しい評価はできないとも私は考える。

16世紀ヨーロッパは「野蛮」な時代か

 ランディはノストラダムスが生きた時代について

十六世紀の世界は、現代の基準からすれば野蛮で恐ろしげな場所(※7)

と評している。しかし、16世紀は後期ルネサンス-フランスにおいては16世紀が北方ルネサンスの最盛期-、宗教改革が始まった時代である。

 ルネサンスは、中世のキリスト教カトリックヒエラルキーに基づく社会から、古代ギリシャ・ローマの芸術、文化の再発見を通して多様性や個人の主体性を模索した。宗教改革は、当時のカトリックにおける旧態依然としたキリスト教観及びそれに基づく支配に対して、既成の価値観に縛られない新たな信仰を模索する動きとそれによる旧体制からの打破を試みる動きである。その意味では混沌とした時代ではあったものの新しい時代への芽生えという意味では決して野蛮の一言で片づけられるような時代とは言えないだろう。むしろ現代から見て野蛮という物の見方は、時代を一つの価値観からだけで見るナイーブな見方と言えるのではないか。(※8)

 ランディがノストラダムスの大予言の問題点を、自身が携わってきたオカルトや超能力の問題点を批判、暴露する活動の観点から批判したことについては妥当であると考える。ただ、ルネサンスという時代背景を踏まえたノストラダムス評について適切かについては疑問が残る。ランディ自身は前書きP17において、著作にあたっては中世の研究家から誤りを指摘訂正を受けたことを述べている。しかし、ノストラダムスがその時代に影響を受けた一人の教養人として、自由な知識、精神を求める一環として、カトリックのヒエラルキーに囚われない発想、思考があったことなどへの無理解などからすると、研究家の誤りをきちんと理解していたのかと言わざるを得ない。

 私は、ノストラダムスの人物像を考察するにはルネサンス時代のヨーロッパ、ノストラダムスの詩の背景などに関しての研究家、専門家からの視点が必要であると考える。以上の観点から、次回以降、16世紀フランス及びヨーロッパ社会がどういった社会なのかという観点からノストラダムスの人物像及びその時代について考察して参りたい。

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 いかがだったでしょうか。次回はノストラダムス現象が起こる理由とその結果として起きるリスクについて考察して参りたいと思います。(次週は別のテーマを投稿する予定です)

皆が集まっているイラスト1

私、宴は終わったがは、皆様の叱咤激励なくしてコラム・エッセーはないと考えています。どうかよろしくご支援のほどお願い申し上げます。

(※1)

(※2) ジェイムズ・ランディ著 皆上龍太郎監修 望月美英子訳「ノストラダムスの大誤解」P98~P100 太田出版

 原題は"THE MASK OF NOSTRADAMUS" 。
 日本語版の訳はアンリ2世王妃カトリーヌ・ド・メディシスを女王と誤訳している(P53表題など)ほか、フランスの一地域ギュイエンヌをギニアと誤訳するなど、(下記リンク先参照)基本的なところでの誤訳が目立っている。また間違いではないが、イタリアのシチリア島の英語表記”Sicily”をそのまま英語読みに近いシシリーと訳すなど(P58)不適切な訳もみられ、翻訳者がヨーロッパの地理、文化を理解していない可能性がある。

(※3) ランディ「前掲」P109

(※4) ランディ「前掲」P89~P98

 ランディは、ノストラダムスは権力の庇護があったために安泰であったかのような表現をしているが、竹下節子は、国王アンリ2世から招待された際は、異端審問による罠ではないかという疑いと恐怖があったのではないかとの見解を示している。(竹下節子「ノストラダムスの生涯」P106 朝日新聞社)

(※5) ランディ「前掲」P38~P41

注)ランディは、これについてスカリゲルが純粋にまじめなインテリだったからとしているが、当時の医学においては占星術を身につけることは必須であった。(樺山紘一・高田勇・村上陽一郎編 伊藤和行著「ノストラダムスと医学のルネサンス」P236~P238 )ランディ自身も同著のP114~P115において当時は占星術が医学の中で教えられていたことに言及をしているが、同箇所ではスカリゲルが占星術に批判的だったというランディ自身の推察に関する言及はない。

 また、竹下節子は、ノストラダムスとスカリゲルの不仲についてはノストラダムスが時代の寵児となったことへの嫉妬があったのではないかとの見解を示しており、(竹下節子「ノストラダムスの生涯」P70)不仲の背景についての見解は分かれている。

(※6) ランディ「前掲」P47

 「化粧品とジャム論」の内容と時代的背景については、(樺山紘一・高田勇・村上陽一郎編 伊藤和行著「ノストラダムスと医学のルネサンス」P240~P244)に詳しい。

(※7) ランディ「前掲」P89

 16世紀の世界とあるが、ヨーロッパ圏外である中近東、極東はもちろんアフリカ、アメリカ大陸諸国についてランディが意識しているかは本文だけでは確認できない。

(※8) 「野蛮」という概念は「文明」と対比する意味で使われた言葉であり、ヨーロッパ列強がアジア、アフリカ諸国を野蛮とみなしてヨーロッパ社会にふさわしい形で文明化するという名の下に植民地化し、隷属化することを正当化するものであった。また、「野蛮」という概念自体が前近代と異なり近代は「野蛮」を克服したことを前提とする極めて主観性の強い概念であるが、第1次大戦における生物化学兵器の使用、第2次大戦におけるゲルニカ爆撃、重慶爆撃、広島・長崎の原爆など民間人に多大な犠牲を強いた戦争が起きたのは20世紀の前半である。

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