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渡辺和子さんの生涯(前編)ー「強く、しなやかに—回想・渡辺和子」より

 今年の2月26日、二・二六事件の被害者である渡辺錠太郎を取り上げましたが(※1)、渡辺錠太郎のみならず、シスターとして、また教育者としての人生を送った渡辺錠太郎の次女渡辺和子さんについて調べたいという思いもありました。キリスト教教育の学校であるノートルダム清心女学院の学長として携わっていた渡辺和子さんを、一キリスト者として信仰のあり方という観点から探りたいという想いからです。

 私はキリスト教徒ではありますが、人間関係が面倒くさい、煩わしいと感じ、嫌なことがあるとすぐに逃げたい、楽して生活をしたいと思うなどおよそ信仰生活と呼ばれるものからほど遠い日常を送っています。そもそも、キリスト者として日々聖書に向き合い、聖書の教えに忠実な僕(しもべ)として信仰生活を送っていますといった類を営業スマイルの表情で強調したがるキリスト教徒や聖職者(※2)に、私はある種のうさんくささと不信感を感じずにはいられないのです。

 そんな私ですが、山陽新聞社・渡辺和子編著「強く、しなやかに—回想・渡辺和子」を読んだとき、自分はキリスト者として全然ふさわしくない日常生活を送っているな、と反省まではいかないまでも恥ずかしい気持ちになりました。和子さん自身、いろいろ悩み、葛藤しながらもその弱さから逃げずに悩み、葛藤を正面から受け止め前向きな人生を送っており、信仰生活における理想の生き方はこういうものなのだなと感じさせられました。

 ただ、渡辺和子さんの生き方は信仰生活に留まらず、人としての生き方を示す意味でも素晴らしいと感じ、今回取り上げることとしました。また、秋山ちえ子さんを取り上げた際、社会で活躍する女性を著したことについて女性の方を中心に評価するコメントをいただいたこともあり、社会で活躍する女性という一面にも言及できればと思っております。前編の今回は渡辺和子さんの戦前である少女時代を中心にご紹介します。

両親の愛情に注がれて育った渡辺和子さん

 「渡辺錠太郎について」でも少し触れましたが、渡辺和子さんはご家族の愛情をたっぷり注がれて育ってきたようです。和子さんの小学校時代には父親である渡辺錠太郎の膝の上で論語を読み聞かせてもらったり、錠太郎が書斎にいたときに笑顔でそっとお菓子をくれたりするなど父親の愛情にたっぷり接してきた幼児期を送ったと語っています。(※3)

 母親である渡辺すゞは和子さんをきちんとしつけようという思いが強く、和子さんが少女の頃は母親にはあまり馴染めなかったようです。そんな中、家族で食卓を囲んでいるときに錠太郎が「お母さまだって、おいしいものが嫌いではないんだよ」と、すゞが自分たちの分を子どもたちに分けていたことを諭すように子どもたちに語りかけることで、母親への感謝の気持ちを感じたと語っています。(※4)父親錠太郎、母親すゞとも違う形ではありますが、しつけと愛情をもって和子さんを育ててきたと感じさせられます。

洗礼に至るまで

 渡辺和子さんは1939年、フランス系のカトリック学校雙葉高等女学校(現雙葉中学校・高等学校)に進学します。この進学が和子さんにとっての始めてのキリスト教との出会いと言えるでしょう。ただ、雙葉女学校に入学したのは、当時雙葉女学校がお嬢様学校として知られていたために、勝気な和子さんを心配した母すゞが入学させたためで、入学当初はキリスト教にはまったく興味がなかったそうです。(※5)

 そんな和子さんが洗礼を受けたいと思ったきっかけは、自身の中にある傲慢さ、冷淡さ、利己主義的な性格に対する葛藤、受験で失敗したことでプライドが傷ついたことなどそうした閉塞感に、謙虚で心の温かい人に生まれ変わりたいという思いからキリスト教の洗礼を受けたとのことでした。それを和子さんは次のように語っています。

「とにかく謙虚で心の温かい人に生まれ変わりたいと思いました。それは純粋な信仰心というものではなく、まことに身勝手な自我欲からの変身願望でした」(※6)

自分自身の内面を素直に認め、それをはっきりと語るところに和子さんの人柄を感じさせられます。ただ、洗礼によって人格や性格が変わったわけではなく、にわか仕込みの信仰だったのではないかと葛藤をしていたと語っており(※7)、人としての弱さを認識していた様子もうかがえます。

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 いかがだったでしょうか。次回後編では、戦後の修道院生活、ノートルダム女子大学長に至るまでおよびそこでの和子さん自身の信仰生活についてご紹介します。

皆が集まっているイラスト1

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(※1)

(※2) これに加え焼香、墓参の類はノンクリスチャンである異教徒(キリスト教以外の宗教)の風習だからクリスチャンはするべきではないと強調するキリスト教徒もいます。聖書を原理主義的に解釈をする傾向があるキリスト教教派は少なくなく、この原理主義的な解釈がキリスト教に対する日本社会での誤解を生んでいるのではないかと危惧しています。

(※3) 山陽新聞社・渡辺和子編著「強く、しなやかに—回想・渡辺和子」P26~P27

(※4) 山陽新聞社・渡辺和子編著「前掲」P38~P39

(※5) 山陽新聞社・渡辺和子編著「前掲」P41~P42

(※6) 山陽新聞社・渡辺和子編著「前掲」P50

(※7) 山陽新聞社・渡辺和子編著「前掲」P54

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