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ペンの暴力-事件記事に実名報道は必要か ②-飯室勝彦の事件記事姿勢への批判的考察(後編)-

 事件記事における事件関係者(狭義では犯罪事件を指す。このシリーズは特に断りがない場合狭義の意味で用いる。)の実名報道の必然性の是非についてのnote記事です。今回は事件記事に実名報道は必要とする見解を標榜するメディア関係者飯室勝彦元東京新聞編集委員の見解に関する批判的考察の後編です。(※1)

被害者の顔写真掲載の主張

 飯室は被疑者のみならず、被害者に対しても場合によっては顔写真を載せることなどが求められるとして、以下のように述べる。

 被害者の顔写真を掲載することによって犯行の非道さを訴え、犯罪への市民の怒り、警戒心を呼びさまし、さらには事件解決につながる情報発掘の契機となることもある。(※2)

 被害者の顔写真掲載が事件解決につながることがあると主張しているが、その具体的事例を飯室が示していない以上、プライバシーに重大な影響を与えるであろう顔写真を掲載する必要性があるだろうか。私は最低でも被害者、被害者家族が実名、顔写真等プライバシーに関することを許可しない限りは、実名、顔写真等プライバシーに関わる事項を報道するべきではないと考える。もちろん被害者、被害者家族の同意を得る場合には、取材の名の下に記事への掲載許可を求めるよう執拗に要求するなどといった相手に圧力を感じさせることがあってはならないことは言うまでもない。

 また、被害者ないし家族が同意をした場合でも被害者及び被害者家族のプライバシーの侵害に反してはならず、同意を免責と考えるべきではない。顔写真は被害者、被害者家族が積極的に使うことを望んでいることが客観的に明らかである場合を除き、原則不使用とするべきだろう。私は(※2)の見解には、事件について被害者の顔を掲載すべきとの主張には、読者に対して冷静に考えることよりも、読者の情緒に訴えるための手段としての意味合いが強く出ていると考える。かつてのワイドショーの事件報道に見られる扇情的で無責任な報道姿勢の問題性を考えれば、被害者のプライバシーに踏み込む手段の要素が強い被害者の顔写真は使うべきではない。さらに、飯室の見解は犯罪に至った背景に何があり、その原因を探ることで事件を減らすという発想を欠いており、その観点からも事件解決と再発防止に被害者の顔写真を使うことが効果的であるという見解には同意できない。

人権=水戸黄門印籠論

 タイトルを飯室の人権観に対する軽薄さの表れと呆れるnote読者の方も多いのではないだろうか。ただ、飯室は明石書店から出版された「新版 報道される側の人権」で飯室のパート部分のタイトルを「「印籠」としての人権ではなく」としている(※3)。その中で飯室は人権を次のように評している。

 「人権」という一つの権利があるわけではない。意味内容も重みも異なるさまざまな権利の総称であり、それぞれの関係は多重構造である。多くの場合、事件と事件にかかわることがらも複雑な多重構造になっており、すべての「人権」が常に「報道」の上位概念というわけでもない。「人権」という言葉だけですべて分かったようなつもりでいたり、旧来の二項対立式思考に基づく取材、報道では真実をとらえきれず、絶対譲れない人権をも守り通すこともできない。(※4)

 その上で、飯室は弁護士や研究者が「人権と報道」の問題提起がなされたことで記者が平伏するようになった(※5)とした上で、場面ごとに柔軟に対応する「センス」こそが大切であると主張する(※6)。また、警察は被疑者にとっては弾圧者でも被害者にとっては保護者であるとし、すべてに万能な報道マニュアルなどが作れないため、場面、場面で具体的な思考を積み重ねることでジャーナリストとしての「センス」を磨くことが大切であると結論づける(※7)。

 飯室が人権を「人権」としているのは報道によって被害を受けた人たちに対する批判的見解を指摘する人に対する当てつけの要素があることは否めない。また、飯室が言う「センス」自体が取材による経験を重ねることができるとされる抽象的で具体性に欠けるものである。報道の加熱化によって起こる被疑者、被害者及び彼らの家族はもちろん関係者に対して生じるプライバシーの侵害や報道関係者の社会常識に欠けた取材という名の迷惑行為などから、報道に対する批判が出てくるのだが、そうした指摘に飯室は答えていない。

 以上、飯室の実名報道主義とその背景にある取材姿勢に対して批判的に考察してきた。結論からすると、飯室の実名報道主義は、既存メディアに都合のいい取材体制の主張でしかないと考える。実名報道はプライバシーの問題以外に、メディアの客体である読者、視聴者に対して情緒に訴える手段としての要素が強く、冷静な考察がしにくいという問題もある。実名報道主義に拘泥するのではなく、匿名報道主義への転換を通じて、メディアの側に事件に対する報道のあり方自身を自省することが求められてはいないだろうか。

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 いかがだったでしょうか。次回は学者で実名報道主義者である田島泰彦元上智大学教授の見解を紹介した後で、田島元教授とともにそれらへの判的見解もご紹介する予定です。(来週は別の記事を掲載する予定です)

皆が集まっているイラスト1

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(※1) 前編は以下の通り

(※2) メディアと人権を考える会編「徹底討論 犯罪報道と人権」「第4章 歩み始めた改革の道」P107~P108 現代書館

(※3) 飯室勝彦・田島泰彦・渡邊眞次編 飯室勝彦「新版 報道される側の人権」「印籠としての人権ではなく」P131~P147 明石書店

(※4) 飯室勝彦・田島泰彦・渡邊眞次編 飯室「前掲」P131

(※5) 飯室勝彦・田島泰彦・渡邊眞次編 飯室「前掲」P132

(※6) 飯室勝彦・田島泰彦・渡邊眞次編 飯室「前掲」P137~P139

(※7) 飯室勝彦・田島泰彦・渡邊眞次編 飯室「前掲」P147


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