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渡辺錠太郎について-なぜ二・二六事件で暗殺されたのか-

 86年前の1936年の今日二・二六事件が起きた。この日、渡辺錠太郎は高橋是清、斎藤実とともに青年将校らによって暗殺された。渡辺は、高橋、斎藤と異なり首相経験者ではなく政府高官も経験をしていないためか、あまり注目を浴びていない。むしろキリスト教信者、とりわけカトリック信者にとってはノートルダム清心学園の元理事長でシスターの渡辺和子の父親といったほうがわかりやすいかもしれない。

 今回挙げた写真は渡辺錠太郎と和子の写真である。錠太郎は笑顔で映っているためか軍人というよりも父親の顔という雰囲気があり、和子のほうも父親に甘えるように寄り添っており、父娘の仲睦まじい瞬間を映した微笑ましい一光景という感じである。実際和子は錠太郎を父親として慕い、錠太郎も53歳のときに生まれた和子に愛情を注いでいたようである。(※1)錠太郎の家族としての人となりは和子の著作を通した方がわかるかもしれないが、今回は二・二六事件における渡辺錠太郎についてなので別の機会に述べられたらと思う。

渡辺錠太郎は平和主義者だったのか

 よく、渡辺は第一次大戦後のヨーロッパの惨憺たる状況を見て、戦争をするものではない、と新聞記者や自身の家族に語っていたというエピソードがある。(※2)しかし、これらのエピソードの根拠は岩倉渡邉大将顕彰会が編さんした「郷土の偉人 渡邉丈太郎」(以下「郷土の偉人」)からの引用、身内である和子の証言に基づくものである。

 前者についてだが、引用者である岩下秀一郎は、「郷土の偉人」の編纂者が当該場面を目撃したことには言及しているが、新聞記者やその関係者の証言については言及していない。(※3)後者については和子の母親であるすず、姉政子が渡辺がそのように語っていたとする伝聞であり、身内の間でのプライベートという前提の可能性がある。以上からすると、仮に渡辺が戦争を望ましくないと考えていたとしても、軍人を辞めることで不戦の態度を示したわけではなく、まして公の場で元軍人として不戦を積極的に主張をしたわけでもないことを考慮すると、戦争の否定は心情面に留まっていたとする方が自然だろう。

 むしろ渡辺自身は毒ガスが第一次大戦中に使われていたことや、第一次大戦後に条約でBC兵器の禁止が規定された後も毒ガスの研究開発が各国で行われているとして、油断はできないと主張している。(※4)また、渡辺は台湾軍司令官の在任中に台湾先住民の蜂起である霧社事件において軍司令官として軍を出動し鎮圧しているが、鎮圧の際に渡辺は陸軍大臣宇垣一成に毒ガスの使用を要請している。(※5)国際関係を考慮した-人道上の問題ではない-陸軍中央は毒ガスの使用を許可しなかったのであるが、台湾軍は青酸ガスを使ったとの指摘がある。(※6)毒ガスの使用を要請したという点だけでも問題であるが、実際に使用をしたのであれば非人道的であり極めて重大である。

 ただし、毒ガス使用の責めは渡辺や軍だけが負うべきものではない。私はnote「山田昭次著『植民地支配・戦争・戦後の責任』の中から『満州の日本人農業移民と中国人・朝鮮人』を読む」において、山田が「植民地支配・戦争・戦後の責任」の中で軍事教練の教官が毒ガスを中国で使っていると話していても自分は中国人、韓国人を人と思っていなかったので何も動揺することはなかったと書いたことを紹介した。(※7)おそらく当時の日本は差別、偏見が現在以上に強かったため、よほど人道上の問題を意識しない限り、自民族以外の民族に毒ガスを使うことを自然なものと受け取っていたのではないだろうか。また、戦後を生きる私たちは絶対に非人道的な兵器を使わない、差別や偏見を抱いていないと断言できるだろうか。私たち一人ひとりが自らを戒め、省みるという行為なくして、渡辺、軍を批判するのは他人事感に満ちた独善でしかないだろう。

クーデター・下剋上の拒絶

 今まで、渡辺の過ちの部分について述べてきた。では、渡辺には過ちしかなかったのだろうか。

 渡辺が皇道派はもちろん宇垣一成など政治的思惑で動く軍人と違ったのは、軍人は政治に関与するべきではないという姿勢が最後まで一貫していたということだろう。日本の軍国主義化、ファシズム化を目指した桜会のメンバー橋本欣五郎はクーデター未遂事件三月事件以後も満州での軍事行動と併せて国内でクーデターを起こすことを試みようと、関東軍司令官菱刈隆、朝鮮軍司令官林銑十郎、そして当時台湾軍司令官であった渡辺を料亭に招き説得を試みた。そのうち林は賛同し、菱刈は曖昧な態度を取ったものの渡辺は天皇の命令以外で軍人は行動するべきではないとして断固としてこれを拒否した。(※8)渡辺は「上官の命令は朕が命令と心得よ」の軍人勅諭について軍人が勝手に自らの都合で行動をするべきではないという本来の趣旨通りに解し、天皇の名の下に軍人は武力によって社会、政治を変えてもいいという風潮がまん延していた当時の軍部の時流に流されなかったと言えよう。

 また、渡辺は名古屋偕行社での第三師団将校に対して行った訓示で、天皇機関説を否定した国体明徴声明に共感する軍人を念頭に、軍人が政治にかかわろうとする姿勢を批判した。そのことが皇道派を中心とした将校の反発を買い、二・二六事件で暗殺された一因となったのではないかというのは多くの歴史家が指摘しているところである。

 私個人は一部で言われているように渡辺をリベラル、進歩というスタンスであるとする意見には同意しない。ただし、軍の政治的中立を最後まで貫き、軍部によるファシズム、軍国主義化の潮流と一線を画した軍人であった点は評価できると考えている。

結論は出せない

 以上、渡辺の功罪について述べてきた。渡辺についての文献は資料が少なく、渡辺自身を追うというよりも渡辺が関わってきた事件などから断片的に拾い上げるという作業をすることで渡辺を評価する形になった。こうしてみると渡辺を評価するのは難しいし、すぐに結論が出せるものでもないと感じた次第である。

 渡辺は子どもの頃から本を読み、現役の軍人の時代においても給料を丸善からの本の購入に充てており、学者将軍と揶揄されたこともあるくらいの読書家であった。そういう意味で少ない文献からnoteを書いた私を渡辺からすれば、評価になっていないと一喝したくなるだろうとは思う。今回のnoteはスケッチ段階でしかない。読者の皆さまからご意見、ご批判があればぜひお寄せいただきたい。

皆が集まっているイラスト1

私、宴は終わったがは、皆様の叱咤激励なくしてコラム・エッセーはないと考えています。どうかよろしくご支援のほどお願い申し上げます。

(※1) 岩井秀一郎「渡辺錠太郎伝」P16~P19 小学館

(※2) 岩井「前掲」P101~P103

(※3) 岩井「前掲」P102

(※4) 岩井「前掲」P146~P148

これについて岩井は、他国がBC兵器を研究開発をしている以上日本だけがBC兵器を放棄することは意味がないというのが渡辺の本意と解している。

(※5) 吉見義明「毒ガス戦と日本軍」P28 岩波書店
春山明哲「霧社事件と毒ガス作戦 (台湾)」(秦郁彦 佐瀬昌盛 常石敬一 監修『世界戦争犯罪事典』P64) 文藝春秋

(※6) 吉見「前掲」P28~P31
春山明哲「前掲」 P64~P66

(※5)、(※6)とも根拠は「霧社事件関係陸軍大臣官房書類綴」『台湾霧社事件関係資料』による。
なお、中川浩一・和歌森民男編著「霧社事件 台湾高砂族の蜂起」三省堂でも毒ガス使用を指摘する文献があったとして次のように述べている。

霧社事件にあたっては、飛行機からの爆弾と焼夷弾の投下、通常弾のほか催涙ガス弾を使った砲撃を山砲によって実施したとの報告が、公文書に収められているのだが、イペリット系毒ガスを用いたとの説が流布されてきた。台湾側ではそれを定説とし、「霧社山胞抗日起義紀念碑」にも、その記載がある。日本側でも、霧社事件を批判的に記述する文にはかならず毒ガス使用についての言及があるが、確証をにぎりえないために、筆者の場合には、毒ガス使用を指摘する文献があると書くにとどめておく。
     中川浩一・和歌森民男編著「霧社事件 台湾高砂族の蜂起」P120

(※7)

(※8) 高宮太平「軍国太平記」P138 中公文庫


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