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ペンの暴力-事件記事に実名報道は必要か ②-飯室勝彦の事件記事姿勢への批判的考察(前編)-

 事件記事における事件関係者(狭義では犯罪事件を指す。このシリーズは特に断りがない場合狭義の意味で用いる)の実名報道の必然性の是非についてのnote記事です。今回は事件記事に実名報道は必要とする見解を標榜するメディア関係者飯室勝彦元東京新聞編集委員の見解に関する批判的考察の前編になります。

犯罪抑止論としての実名報道論

 元東京新聞編集委員の飯室勝彦は実名報道の必要性について、トリカブトによる保険金殺人事件に関する記事の事例を挙げ、東京、朝日、毎日、読売、産経の事件に関連する別件逮捕の記事では、被疑者を殺人事件の犯人であるかのような報道をしないように配慮をしており、実名でも問題はないとの見解を示している(※1)。ただ、飯室が挙げた被疑者に配慮したという事件の事例では見出しのみが挙げられており、記事の中身自体の引用はない。引用した記事の見出しについては日付等が記されておらず、他の関連記事の事例を取り上げていない。また、飯室が挙げた見出しの内容は当該事件の別件逮捕に関するものであるが、見出しでは別件逮捕以外の当該事件の被害者について不審死の形で言及がされているものもあり、飯室が主張する

「このように実名派は、逮捕された○○(注:被疑者)が○○(注:被害者)殺しの犯人であることに間違いないという印象をなるべく薄めようという努力の傾向がみられ、トリカブト事件を詳しく報道した新聞は匿名にして特定の人物と事件を直接結び付けることを防いだ」(※2)

とは言い難い内容になっている。飯室は実名報道を前提に事件報道それ自体は必然性があるとして、以下のように主張する。

 「無罪推定」を金科玉条にして無視したり軽視するのも正しい姿勢ではない。全てがはじめから社会的、政治的事件とわかるわけではないし、社会のいろいろな問題をえぐり出すのに犯罪はしばしば一つの糸口になる。また他人の財産や生命をおびやかす犯罪は社会の基本を崩す危険のある病理現象である。
 それだけに事件報道は、単に読者の「知る興味」に答えるのではなく①情報を市民に伝え、予防、鎮圧に役立つよう市民の行動を呼び起こす、②市民の自衛に役立つ情報を伝える、③社会の側にある問題点を考える契機を提供、その解決を促す、④市民による刑事司法の監視を可能にするーなどの積極的、社会的機能を持っている。(※3)

 ③では事件が起こる社会的背景、④で刑事司法の監視ということを謳ってはいるが、前段、①、②の主張は、実名報道主義を治安維持という社会的制裁の立場から必要であるとの視点から考えていることをうかがい知ることができる。次に飯室が考える①から④の事件報道における積極的、社会的機能についてそれが妥当であるかについて考察したい。

 ①、②は犯罪防止、治安維持の観点から、メディアが積極的に犯罪事件の報道に携わる必要性があり、それに市井の人々も積極的に関わるべきであるという立場である。しかし、これらは本来的に捜査機関が行うべき役割であり、①、②をメディアが行うことは、メディアの側が捜査機関の一部としての役割を果たすと言っているに等しく、捜査機関と一線を画して独立した立場で報道をするという姿勢を否定する危険性を持つ。前回のnote記事で紹介したスウェーデンのプレスオンブズマンであったトシュテン・カーシュはこうした見解について次のように否定する。

 カーシュ氏は、実名報道の犯罪抑止効果について、「それは死刑に犯罪抑止力があるという見解と同様あまり根拠がない。新聞に名前が出るから人殺しをやめようという人は少ない」としたうえで、「実名を平気で出して何もかも書くセンセーショナルな犯罪報道は、なかなか直せない悪癖のようなものだと思う。そういう記者は、書かれる側の人びとの名前や写真を掲載することに慣れ切っているのだと思う。ある市民が犯人かどうかの判断は司法の仕事であり報道機関の仕事ではないことをマスコミ界で確認するべきだ。新聞が実名を書く意味を真剣に考え始めれば、どの国でもスウェーデンの改革の道を歩むのではないか」と述べた。(※4)

 ③についてはそもそも事件報道が全体的に事件とは関係がない被疑者のプライバシーに踏み込んだ内容が多いこと、事実関係をきちんと検証をしていない関係者とされる人物の証言などについて、事実が異なっていると報道後に指摘されるケースがしばしば見られる。事件を報道するに際して社会の問題点を考える契機を読者に促すには、事件のいわゆる「特ダネ」とされるスクープ報道を中心にした加熱報道がなされる状況を止める必要性こそがまず求められるが、飯室はこの点に関する言及をしていない。

 ④についても拘留中の被疑者に対する取材が厳しく制限されているために被疑者の意見が記事に掲載されにくい状況にあること、記事について被疑者の当番弁護士などへの取材内容がほとんど反映されていない状況にあることなどについての言及がない。また、関連して、今回引用をした同じ本の中で飯室は有罪の可能性が低い事例が指摘されても、なぜ有罪を疑うに値する事例があっても記事にできない理由を以下のように語っている。

梓澤(和幸 注:弁護士で引用した本の編者の一人) 逮捕時に無罪を示唆する情報を持っていても、やはり書けないということか。
飯室 裁判官の令状に基づき逮捕したという公的事実が一方にあり、他方で書く側に無罪方向の情報が検証できていないという意識があるから……。それと、警察も検察の当事者の一方に過ぎないという弁護士の意識、主張は正しいが、新聞記者及び一般市民にしてみると、必ずしもそう言いきれない。社会の認識としては、警察は「悪人を逮捕してくれる正義の実現者」という側面がある。(※5)

 ここで問われている冤罪の可能性の問題性について、飯室が裁判官の令状に逆らえないという態度を示していること、新聞記者、一般市民は警察は正義の実現者の側面があると認識していると主張していることから、飯室が警察、検察などの捜査機関の現在のあり方について基本的に肯定的にとらえていることがわかる。こうした見識のメディア関係者が書く事件記事を通して、市民が刑事司法を監視するという意識が芽生えるとは私は考えない。

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 いかがだったでしょうか。次回後編では飯室氏の被疑者の顔写真に対する見解と犯罪報道に対する人権を主張することへの消極的姿勢についての批判的考察をします。

皆が集まっているイラスト1

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(※1) メディアと人権を考える会編「徹底討論 犯罪報道と人権」「第4章 歩み始めた改革の道」P97~P98 現代書館

(※2) メディアと人権を考える会編「前掲」「第4章 歩み始めた改革の道」P98 現代書館

(※3) メディアと人権を考える会編「前掲」「第4章」P99 現代書館

(※4) 浅野健一「新版 犯罪報道の犯罪」「定着する匿名報道主義」 P384 新風舎文庫

前回記事についてはこちらを参照のこと

(※5) メディアと人権を考える会編「前掲」「第5章」P136~P137 現代書館

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