映画『魔界転生』鑑賞のための予備知識

 現世最強の剣士・柳生十兵衛が生き返った過去の伝説的剣豪たちと決闘を繰り広げる。
 長大な原作『魔界転生』のストーリーを簡潔に要約するとこのようになるだろう。
 深作欣二監督の映画版『魔界転生』はこの基本線を守りつつ、2時間映画の枠内に収まるように原作の人物、設定を大胆に整理した。原作で森宗意軒、由比正雪のふたりが担っていた黒幕の役割を天草四郎ひとりに統合し、転生衆は7人から6人に減員したうえメンバーも変更された。原作のドラマ部分を削り、十兵衛VS宮本武蔵、柳生但馬守、天草四郎の剣術アクションに注力した映画に仕立てている。
 しかしただでさえ文庫版上下巻1000ページを超える原作を大幅に圧縮した上、背景説明を省略しているので原作未読の観客にはわかりにくい部分も多くある。また、過去の作品や歴史からキャラクターを引用するオールスター作品の特性として、元ネタを知らなければ意図が伝わらない場面もあるだろう。公開当時と現代では観客の「元ネタ知ってる度」にも差があると思われる(もちろん私も平成生まれなので当時の意図はわからないところが多々ある)。
 この記事の目的は、知っているとすんなり映画に入れる程度の、最低限の背景、人物、原作知識を解説することだ。

制作背景


 映画『魔界転生』は角川春樹プロデュースの大作映画、いわゆる角川映画の一作として制作された。
 原作小説『忍法魔界転生』(映画化に伴い『魔界転生』に再改題)は、山田風太郎の「忍法帖」シリーズの一作で、『おぼろ忍法帖』という題で1964〜1965年に新聞連載、1967年に単行本化された作品である。
 主人公柳生十兵衛役に千葉真一、天草四郎役に沢田研二の配役は最初から決まった状態で、脚本は当て書きで書かれた。柳生但馬守役の若山富三郎は千葉真一のアクションの師にあたり、十兵衛VS但馬守の勝負は役柄だけでなく俳優としての師弟対決にもなっている。
 撮影は東映京都撮影所で行われ、終盤の炎上する江戸城内のシーンは合成ではなく撮影所内に建てられたセットを実際に燃やして撮影された。

登場人物


 映画ではダイジェスト的に描かれるのみだが、原作小説ではダンテの神曲にならった「地獄篇」に冒頭から170ページ以上を費やして転生衆の仲間集めとそれぞれの人物の背景が語られる。「なぜ、生前名声をほしいままにしたはずの大剣士が、現世に未練を遺した者を復活させる魔界転生の術を受け入れたか」が語られるこのパートを理解すると、『魔界転生』のドラマを理解しやすくなるはずだ。

天草四郎(沢田研二)

 島原の乱(1637〜1638年)で原城に立て籠もる一揆軍を指導したキリシタン。島原一揆勢は幕府軍の総大将板倉重昌を戦死させるなど奮闘するが、交代して指揮をとった老中松平伊豆守に敗れて虐殺された。
 映画中盤で四郎が「島原信徒の恨みを知れ」と松平伊豆守を襲撃するのはこの史実を踏まえてのこと。
 原作では交合中の女人の髪で作った髪の環を放ち、触れる者を切断する忍法「髪切丸」を、映画では殺された島原信徒の髪を束ねた鞭「髪切丸」を操る。

細川ガラシャ(佳那晃子)

 戦国大名細川忠興の正室でキリシタン。俗名お玉。物語開始時点で故人。関が原の戦い(1600年)において西軍の人質にとられるが、夫忠興が東軍に加わったため殺される。その際、自殺を禁じたカトリックの教えに従い、家臣の槍にかかって殉教したとされる。
 人格高潔な聖人ほど魔道に堕ちたとき強くなるという作中の法則に従い、生前抑圧されていた愛欲をむき出しにして将軍家綱を籠絡する。
 映画にのみ登場する人物。

宮本武蔵(緒形拳)

 佐々木小次郎との巌流島(舟島)の決闘で著名な江戸時代初期の大剣豪。小次郎との決闘に勝利した後は仕官先を求めて諸国を放浪、島原の乱にも小笠原家の軍監として立ち合った。兵法の奥義を記した『五輪書』を遺し、1645年没。
 原作・映画ともに自身の代名詞である二刀流と、小次郎との決闘で用いたとされる櫂を削った木刀で十兵衛の前に立ちはだかる。
 戦前ベストセラーになった吉川英治『宮本武蔵』により、武蔵といえば「剣の修行を通して精神を高めた求道的な人物」*1というイメージが定着した。戦後書かれた武蔵が登場する時代小説の多くがこの武蔵像に挑戦するものであり、山田風太郎が『魔界転生』を構想した動機の何分の1かも、吉川的武蔵をパロディ化することにあったのは間違いない。世間に見捨てられ寂しく剣を磨く武蔵の姿を「孤影、惨たり、「それから」の武蔵」*2と表現した原作の一文にあらわれているのは、悟り切った求道者武蔵などつまらない、最強の剣士は最強らしくバチクソに暴れさせたいという作者の欲望である。

宝蔵院胤瞬(室田日出男)

 大和国宝蔵院の僧侶で宝蔵院流槍術の達人。同時代の宮本武蔵らと並ぶ武芸者として有名で、大衆文芸の世界のヒーローの一人。柳生の里にほど近い宝蔵院の僧ゆえに、柳生親子と面識ある人物として描かれることも多い。
 原作では生涯童貞を貫きながら7日に1度夢精する精力絶倫の怪僧で、その周期が満ちたとき槍の冴えも最高潮に達する能力の持ち主だったが、転生した天草四郎に敗れ、より強くなるために転生を受け入れる。
 映画で突然女性への煩悩を恥じて自害するのは、この好色の設定の一部を受け継いでいるためだと思われる。「山風忍法帖といえばエログロ」というパブリックイメージを一手に担った結果、化物じみたキャラクターに変貌してしまった。

伊賀の霧丸(真田広之)

 甲賀玄十郎率いる甲賀組に里を滅ぼされ復讐のために転生した伊賀忍者の青年。映画にのみ登場。
 忍法帖シリーズの第一作『甲賀忍法帖』が象徴するように、山田風太郎の忍法帖といえば伊賀・甲賀の忍者が奇想天外な忍術で戦うものという当時の観客のイメージに添うようなかたちで組み込まれたオリジナルキャラクター。

柳生但馬守(若山富三郎)

 柳生新陰流の伝承者で十兵衛の父。将軍家御指南役と大目付の要職を兼ねる政治家でもある。フィクションではアウトローな息子に対し、剣術を出世の道具にした父として対照的に描かれることも多い。
 原作では謹厳実直な奉公に終止してひとりの武芸者として生を送れなかった悔いにより、映画では息子十兵衛と一介の剣士として勝負してみたいという望みにより転生を遂げる。
 父殺しならぬ一度死んだ父による息子殺しという前代未聞の葛藤は、物語の見どころの一つになっている。

柳生十兵衛(千葉真一)

 柳生但馬守の嫡男で隻眼の剣士。3代将軍家光の不興を買って父により追放され、10年以上の謹慎生活を送る。この10年間の空白が後世の創作者の想像を生み、柳生の名剣士として数々の物語に登場するヒーローとなった。
『魔界転生』では原作、映画ともに魔界の仲間に加えるべき最後の一名として転生衆からつけ狙われることになる。

時代背景


 映画の舞台になる時代は「地獄篇」を除いて江戸幕府4代将軍徳川家綱の治世にあたり、この時代に起きた歴史上の事件が作中のモチーフになっている。

佐倉義民伝説

 天草四郎が第二の島原の乱を起こすべく民衆を扇動する地として、下総国佐倉が舞台になっている。佐倉では実際に重税に耐えかねた農民が年貢減免を領主に直訴する運動があり、結果年貢減免は実現されたものの直訴を行った佐倉惣五郎らは処刑されたという逸話がある。歌舞伎の演目などで江戸時代後期以降有名になった、この佐倉惣五郎の義民伝説が映画の一揆の描写の下敷きになっている。

明暦の大火

 映画終盤に江戸城と江戸の町を焼き尽くした大火事は1657年に江戸市街の大半を焼失させた明暦の大火を想起させる。明暦の大火は失火の原因から振袖火事と呼ばれるが、作中の大火はお玉の方の打掛に火がついたことが原因になった。

転生の仕組み


 映画では天草四郎が生前の剣士や成仏できない魂に働きかけることで復活の奇蹟が起きているが、原作では死者を蘇らせる「忍法魔界転生」には細かな発動条件や対象者が設定されている。
 原作の「忍法魔界転生」は日本の忍術と西洋の魔術を組合せて編み出された秘技で、黒幕の森宗意軒のみが使うことができる。対象者は現世に深刻な不平不満を抱き、かつ絶大な気力を備えた人物に限られる。その人物が死に際に腹の底から惚れた女と交わることで、女の胎内で全盛期の実力を備えた新たな自分に転生し、一月後、「殻」を破って再誕することができる。ただし人格は元の人間とは変質した魔性の者となってしまう。さらに条件としてあらかじめ女の子宮に切り落とした宗意軒の指を仕込んでおく必要があり、転生できる人間の数は十人に限られる。
 この制限により、転生衆は十兵衛を最後の一人に加えようと勧誘をかけることになり、一騎打ちのルールがおのずと整うかたちになっている。
 映画では細かな条件が語られないが、現世に深刻な不平不満を抱いた人物が死に際に望むことで転生できる、という設定は引き継がれているように思われる。

おわりに


 歴史上の事件や過去の作品へのオマージュを作中に取り入れるのは山田風太郎の得意とするところであり、パロディやオマージュを物語と一体化させる非凡な構成力こそ風太郎の真骨頂だ。
 原作『魔界転生』でも、十兵衛と転生衆が対決する地獄巡りの旅を西国三十三所巡礼になぞらえ、道成寺では十兵衛を謡曲『道成寺』のごとく鐘の中にこもった敵と対峙させ、荒木又右衛門(映画未登場)とは荒木の有名な仇討ち伝説の舞台「鍵屋の辻」で雌雄を決し、宮本武蔵との決戦は武蔵が小次郎を討った島と同名の舟島で再現される。しかもそのどれもが物語の流れの中で無理なく自然に転換していくのである。
 映画も同じように史実やジャンルの伝統に即した舞台設定がされているが、状況説明が丁寧になされないので、楽しむためにはいくらかの予備知識が必要になるだろう。

〈注釈〉

*1 末國善己「山田風太郎が受け継いだもの、作ったもの」(『文藝別冊 我らの山田風太郎』2021年、河出書房新社)、p117。末國は同論考で吉川『宮本武蔵』を「殺生を悔い、恋人のお通とはプラトニックな恋愛を貫く武蔵が、迷い苦しみながら精神の修養を続ける展開を通して、青春小説としても、教養小説としても楽しめる物語」と評し、一方「豪剣を振うのが「本領」なのに人を存分に斬れなかった六十二年の人生を悔いる」『魔界転生』は「武蔵を剣の修行を通して精神を高めた剣豪とした吉川『宮本武蔵』の設定を裏返している」とし、「武蔵が人斬りができなかった後半生に忸怩たる想いを感じたとされているところは、安吾の『青春論』も彷彿させる」と語っている。

*2 山田風太郎『魔界転生 上 山田風太郎ベストコレクション』2011年、角川書店、p13。


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