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うっかりUT-BASEに入った 意識低い系東大生の末路 ~意識が高い人の姿~

はじめまして!UT-BASEの立ち上げ期から最近までSNS部門の長を務めていた、法学部4年の森田シ毎椰(検索避け)と申します。
このnoteにアクセス頂きありがとうございます。ここでは、「意識高い系」の団体だと思われがちなUT-BASEについて、意識が低い東大生という身分から、また、SNS担当者として思うことを書き綴っていきます。

そもそも私は、他のメンバーのように「意識高い」学生団体には所属してませんし、長期インターン等も行っていない、典型的な「意識低い」人です。そんな人から見たUT-BASE像をどうぞお楽しみください。

まずは「意識の高低」って何か、という問題提起からはじめ、そこから生ずる分断、そしてそれは正しいのかを検討した後、SNS担当者としての観念を述べさせていただきます。
せっかくこんな駄文を読みに来ていただいたのですから、皆さんには何かしら楽しめたり、得るものがあったりするnoteを目指そうと思います。長文ですが、是非ともお付き合いください。

意識とは何か?

さて、前置きが長くなってしまいました。まずは「意識の高低」について検討します。

ぶっちゃけてしまうと、私は「意識高い系」をあまり好きにはなれません。ここにいう「意識高い系」とは、知識というアセットをアジェンダやスキームにフル活用し、社会的に崇高なミッション・ビジョン達成のため、また、途中に設けたメルクマールに向けてコミットする、そしてそうでない人をしばしば内心ディスパイズする、ちょっと意識低い人間からすると理解し難い方々のことです。

…と文句たらたらな模様ですが、ふと思うのです。
「あれ、自分の周囲に『意識高い系』って存在しなくね?」
と。

上ではふざけてカタカナ語を多用しましたが、これらは実際問題、重要な概念であったり、コミュニケーションを簡略化するツールとしての用語であったりして、身に着けていて損はないものです。(相手に意味が伝わらないとダメなのですが。)
そして、世間的に「社会的に崇高な活動」とされているものは、これもやはり欠かせないものです。
そして、自らの目標に向けて精一杯頑張るのも理解できます。

ここまでは、私の周囲でもよく観察されます。
他方、それに加えて、「俺/私って凄いでしょ!かっこいいでしょ!みんなも見倣ってね!」という人にはあまり出会いません。

では、「意識高い系」とは幻想・虚構だったのでしょうか

集団内の人間というもの

人間というものは自分が大切な生き物です。自分が傷つきそうになったら、「防衛機制」と呼ばれる心の防御反応が起こります。(気になる人は「教育臨床心理学」や「心理」の講義を履修するか、フロイトの「自我と防衛機制」なんかを読みましょう。)そして、人間は群れる生き物です。

これらがどんな帰結になるかというと、《人間は、自分が所属する集団に自らのアイデンティティを求めるとき、自集団に対する批評は、集団に属する私個人に対する批評であると考える》です(Henri Tajfel and John Turner)。
たしかに、例えばTwitter上でnon-東大生が東大生を批判するツイートをしたら、東大生ツイッタラーは一丸となってそれをいじり倒す、という現象はよく観測されますね。
このように、人間は心理学上、帰属意識を持った集団(「内集団」)については贔屓するようになっているのです。これを内集団バイアス(in-group bias)と言います。

この「内集団」の意識は、外集団(out-group)に対して種々の弊害をもたらします。

〇内集団での独自の文化・倫理観を絶対視する
…集団内の善悪の判断基準や常識が、社会全体で通用すると思い込む。

〇外集団同質性バイアス(外集団同質性効果)
…内集団の人間は、ある外集団Aの中に属するXさんの至極個人的な批判を、そうであるにも関わらず、集団A全体から批判に晒されていると解釈する傾向にある。

〇事実認識の歪曲とダブルスタンダード
…同質の行為でも、内集団が行った場合は好意的に解釈し、外集団が行った場合は悪意的に解釈する。どちらが行ったかによって価値判断や事実判断の基準が異なる。

例 内集団Aと外集団Bがある。Aの構成員である「私」がある日5000兆円を落とし、それをBの構成員が拾った。Aの人は「元々は我々のものだから、私に5000兆円を返せ!」と考える。他方、逆に、私がBの5000兆円を拾った場合には、Aの人は「今、所有権があるのは私だから、この5000兆円は我々のものだ!」(※)という異なった主張を展開する。

※現金の場合、占有の取得はすなわち所有権の取得とされています(最判昭和39年1月24日判決)。また、落とし物を拾って我が物にする行為は遺失物横領罪(占有離脱物横領罪。刑法254条)に該当する可能性があります。また、状況によっては窃盗罪(刑法235条)に該当する場合があります。

加えて、内集団の中でも問題は発生します。それは、同化の強制と排除の問題です。これは国単位でも(そして日本でも)発生していますね。この内集団の中での同化と排除は、内-外の境界線をより際立たせ、対立や上記の弊害を加速させる要因になります。

この集団間バイアスは、人間生活の至る所で発生します。

実例:「まじめ」を巡る対立

それでは、「意識の高低」という文脈では、集団間バイアスはどのように発生しているのでしょうか?

UT-BASEでは立ち上げ当初、いわゆる「意識が高い」学生団体・ゼミを掲載するのみでした。我々は掲載団体の総称として、「まじめな学生団体」という言葉を使っていたのです。ところが、私個人としてはこの用語を好きにはなれませんでしたし、団体内部でも問題提起しました。(が、そのときは他に良い言葉がない、ということで現状維持という結論になります。)
なぜ好きになれなかったのか。それは、「まじめ」という言葉がどうも二項対立的な、優劣をつけるような表現に感じられたからでした。実際、外部からも二三、そういった声が寄せられ、Twitterの担当者としては、そのような対立軸を顕在化指せるような表現は、(炎上リスクの観点でも)承服できませんでした。

つまり、ここでも、「意識高い系」(まじめ)vs そうでない人(普通の人)という集団が形成されてしまうのです。今、UT-BASEを「意識高い系」だとし、それを内集団だとして考えてみましょう。

〇内集団での独自の文化・倫理観を絶対視する
→「意識高い系」の活動に絶対的な価値を見出し、「普通の人」にもそれを押し付ける。あるいは、それに従わない「普通の人」という集団を蔑む。

〇外集団同質性バイアス(外集団同質性効果)
→ある「普通の人」個人に冷笑された場合、「普通の人」という集団全体から攻撃を受けたように錯覚する。

〇事実認識の歪曲とダブルスタンダード
→「意識高い系」の押し付けは「啓蒙活動」として正当化する。「普通の人」からの冷笑は敵視する。そして立場が逆になると真逆の反応をする。

〇同化の強制と排除
→「意識高い系」は自らの存在を礼賛する文化が、「普通の人」は意識高い系をカッコワルイとして冷笑する文化が定着する。その文化からの逸脱は、集団全員で叩く。

「まじめ」(意識)を巡る対立は、一度分断が発生してしまうと、このメカニズムがある限りその溝が埋まることはなさそうです。寧ろ、対立はエベレストの如く高まり、溝はマリアナ海溝に達するが如く深まるばかりでしょう、と北条政子は言っています(言っていません)。

個人的には、この対立はTwitterとFacebookが登場したことで、人々の目に見える形で固定化されたと思います(個人的な感想に過ぎません)。まるでリプセットとロッカンの凍結仮説のように、SNSの登場は両者の対立を回復不可能なまでに深化・固定化してしまったのだと思います。(だからこそ、UT-BASEのSNS部門は…という話を後述します。)
ここから、この対立を克服することは不可能みが深い、という結論が導かれるでしょう。

「意識」の相対化

でもちょっと待ってください。今、意識が高い・低いという基準で集団を分けましたが、その分ける基準は何でしょう?社会的に、現状としては、どうやら2つの集団があるとされています。そして、実際にその2つの集団間で対立が顕在化しています。しかし、その集団や対立の性質はどのようなものなのでしょう?

つまり、「意識高い系は虚構なのか?」という問題です。

世の中には個人として、まさしく「意識高い系」である人間が存在します。例えば、カタカナ語を連発して意思疎通が取れず、自惚れ、他者を見下したような存在です。そのような人間の存在から、我々は意識の高低を分類し、集団を措定ているのではないでしょうか?個人が存在するのは事実だとしても、集団の存在は分からないはずです。
事実、私は冒頭で「意識高い系が」嫌いだ、と述べましたが、ここでの「意識高い系」の定義はそのように振舞う個人から導かれたものな気がしてなりません。

先程、外集団同質性バイアスという現象を紹介しました。個人の行動や性質を、その個人が所属する集団全体に共通するものだと認識してしまう現象です。
意識の高低についても、これと同等の現象が起こっているのではないでしょうか?

要するに、一部の極端な人間の行動を見て、そうでない人まで集団に一括りにしてしまっているのです。そして、その集団内で固有の価値観が形成されていく──
したがって、「意識高い系」という集団は、我々が間主観的(※)に創り出した虚構なのです。そして、その虚構の集団、その先の対立を創り出しているのは、まさに、先程紹介したメカニズムなのです。

※間主観性とコンストラクティビズム
コンストラクティビズム(構成主義)を超簡単に説明すると、「我々が考える『事実』は、実は所与のものではなくて、我々皆がそう思い込むから事実である。その『事実』によって社会は成り立っている。」という考え方。
例えば貨幣。本来、紙切れ自体に価値はないはずです。しかし我々は、”それに「1万円」の価値がある”と全員が信じています。このように、全員がそうだと信じ込むこと(=間主観性)により、社会が成立します。
https://ut-base.info/articles/64

ところが、実社会を見てみると、「意識高い系は~~」「私は意識低いから~~」という言説が実際に存在し、対立が明らかに生じています。実際は虚構なのに、その虚構をめぐって対立が生じているのです。人間って愚かですね。

ここに、意識の高低という、虚構に操られた対立を克服するヒントがあります。
先程は、2つの集団があることを前提に、両者間の和解が困難であることを指摘しました。これによると、対立の問題は解決不能なように見えますが、「そもそも集団なんてはじめから存在しなかった、虚構だった。虚構の集団に対してメカニズムが働き、対立が顕在化している」と主張して集団を崩壊させることで、その対立を解消できるのではないでしょうか?

ここで重要なのは、「意識の高低は絶対的なものでなく、人・状況によって異なるのだ」「極端な例で人を分類してはいけない」ということに人類全員が自覚的になることです。「意識」は絶対ではない。「意識」は相対であり多様なのです。

「意識高い」は【結果】ではなく【プロセス】

よくよく考えてみてください。一般的に、意識高そうな団体だと言われるUT-BASEは、2集団の境界線を明確にしていますか?対立を煽っていますか?自らの「意識の高さ」に驕っていますか?

個人的には、全体としては概ね”No”だと思います。もし”Yes”だと感じられたのであれば、それはUT-BASEの反省点です。是非シェアをお願いします。

なぜNoなのか。
それは、UT-BASEのメンバーは「意識」が相対的・多様であることに自覚的だからです。

出発点として、UT-BASEのメンバーは、興味分野こそは「意識高い系」を志向しているものの、それ自体に優先的に価値を見出しているのではなく、興味分野に向かって頑張る姿というプロセスに価値を見出している人が多いように感じます。

例えば、私はTwitterや質問箱で他愛もないツイートをしたりおふざけをしたりして東大生と「対話」しています。この活動はどう見ても「意識高い系」ではないと思いますが、それでも、UT-BASEのメンバーは、内容はともかく頑張ってSNS運用していることを評価してくれています(ありがたい限りです)。

また例えば、最近だと高校生向けのサイトがオープンする等ありましたが、このような企画に対するUT-BASE内部の反応としては、企画自体を誉めることよりも、企画を着実に進めるメンバーの姿に対しての称賛の声の方が多かったように感じます。

このとき、自身が行っている活動内容には中立的・絶対的な価値しか置かれていません。(「普通の人」の活動と比べて有価値だ、という考えはありません。)したがって、これまでの「意識高い」対「普通」という対立軸は生じていないのです。

私がUT-BASEのメンバーを見ていて思うのは、「目標に向けて頑張る姿」それ自体が「意識高い」ということなのではないか?ということです。
元々、活動内容(=結果)に貴賤はなく(いずれの活動であれ何らかの形で、自分に対する価値や社会的な価値を発揮するはずで)、そこで「意識」という対立軸をわざわざ持ち出す必要はないはずです。
尊いのは、活動の目標に向けて一生懸命取り組む姿勢。このプロセスこそが「意識高い」んだ、ということをUT-BASEを通じて感じています。

うっかりUT-BASEに入った意識低い系東大生の末路

さて、最後にSNS担当者として思うところを書いて締めたいと思います。
これまで散々「意識」を巡る対立構造は虚構だと述べてきましたが、現実世界は残念ながらみんながそれに自覚的とは限らないので、対立が実存します。そして、人々の目にはUT-BASEが「意識高い系」の団体だと写ってしまうでしょう。

私がSNS(もといTwitter)の「中の人」として心掛けてきたのが、その感覚の払拭です。意識が低い私自身が見ても、UT-BASEのやっていることは意識が高いです。Twitterには「意識高い系」を嫌う風潮があるので、これは非常によろしくない状況ですね。
だからこそ、UT-BASEは「意識高い系」だけじゃないぞ!東大生のどんなプロセスでも応援する団体だぞ!というのを示す必要がありました。そして、UT-BASEという組織の一員としては、Twitterを入り口にして「意識高い系」にも温かい目を向けてほしい、という思いもありました。

私は、UT-BASEのTwitterを「意識の高低の懸け橋」だと思っています。相対的な意識のグラデーションをを貫く懸け橋です。
懸け橋ができることで、人は相対的に意識が低い部類と、相対的に高い部類を行き来することができます。誰しもが「意識」について両サイドになりうることで、対立・分断が緩和されるでしょう。(アメリカ的な多元主義のモデルですね。)

そのような信念で、私はTwitterの中の人をやってきたし、質問箱にも大量に答えてきました。これらの活動は、ユーザーの皆さんの顔(声)を見れるということもあり、直接的にやりがいを感じられる楽しい活動です。
結局、私はこれらの活動に惹かれ、それに向けて頑張るようになりました。

…つまり、私はついに意識が高くなってしまったのです。

UT-BASEは東大生の活動の「プロセス」を支える、意識の高い学生団体です。その中で、私も意識が高く活動しています。個々人の活動内容はどんなものでもいいんです。人それぞれに頑張る形があり、それは各々異なっていていいはずです。

長い文章になってしまいましたが、ここまで読んでいただき、ありがとうございました。もしUT-BASEの活動に少しでも興味を持たれた方は是非こちらのリンクから一度お話を聞きにきてください

さて、意識は相対的で十人十色だということを胸に、最後にあの名言で締めましょう。

人には人の、乳酸菌

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