これは聖書なんかじゃない

アーバンギャルド水玉自伝を読みながら、そう思った。

たしかに、非常に聖書的な形式ではある。アーバンギャルドの誕生とその軌跡をそれぞれ異なるメンバーの目線から振り返る水玉自伝。同じキリストの誕生と奇跡の数々をそれぞれ異なる使徒の目線から記録した4つの福音書みたいに、アーバンギャルドにおけるビフォア・クライストとアンノ・ドミニを辿る。個人的には、脚注が文字通り各ページの足元に添えられている点も、聖書的なイメージを強くした。

ただ、読み進めていくにあたって、これは聖書ではなくて、むしろ手紙のような、それも、しばらく会っていない友人に「あれからこんなことがあったよ」と優しく伝える手紙のような、そんな風に水玉自伝が書かれているように見えた。

打ち明け話が距離を縮めるなんていうことがあるけれど、(距離間の問題ではなく)この水玉自伝は、アーバンギャルドとファンの関係性をひとつ違うレイヤーに連れていく。知らなかったことを知れば、当然そこには新しい感情が生まれるし、そこで改めて大きくなったり、確かめられる気持ちもある。逆にある種のショックもあるはず。シンプルに、自分は大好きなアーバンギャルドのことを何も知らなかった…と、そんなこと当たり前なのに、勝手におこがましくも悲しくなったりもした。

テキストという形式は、読み進める、という明らかに自発的な行動を伴うので、そこには責任が伴う。読んだが最後、逃れられない共犯関係みたいに、同じ秘密を共有してしまう。たとえば、受け手の意図に関わらず、相対で何かを言われたり、あるいは噂みたいに漏れ聞こえてきたり、いわば「そんなこと聞きたくなかった」が、限りなく起こり得ないコミュニケーションのかたち。読み進めるのは怖いし、傷つくこともあるけど、それでも読者は意思をもって読み進める。一文字一文字、言葉が線になって頭のなかで意味を結んでいくたびに、アーバンギャルドと自分の世界はそれ以前とは異なるものに変わっていくし、おのずと、同時にアーバンギャルドへの自分の向き合い方を考えることを強いられる。

そういうことから、これは記録としての聖書ではなくて、コミュニケーション、アーバンギャルドから届けられた手紙なんだ、と思った。

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わたしの水玉自伝、ということなので、自分のことを少しだけ。

自分とアーバンギャルドの出会いは2010年の5月。

高校生だった自分は体育祭の準備か何かを抜け出して、代官山UNITで開催された「アーバンギャルドの五月病総会」に行った。対バンはキノコホテルとバニラビーンズだった。ライブハウスに行ったことは何回かあったけれど、そのころのアーバンギャルドへの印象は、YouTubeでしか見たことのないアングラなバンド、そのもの。真面目な男子高校生は、開演前に交換してもらったジンジャーエールを片手に、内心の緊張を見破られないように平静を装っていたのを今でも憶えている。このとき一緒に観にいった友人は先日結婚式を挙げた。10年も経てば変わることもたくさんあるし、自分は今も地下ライブハウスに通う。UNITのドリンクチケットは、その頃も今も変わらず缶バッジだった。

話を戻すと、ステージバックに映写されたモノクロの「前衛都市」に、会場の血の丸フラッグ、コンドームを投げつけるパフォーマンスには、こんな世界があるのかと圧倒された。なんだかよくわからないままで、東横線に揺られて帰った。

圧倒された。圧倒はされたものの、そんな圧倒も含めて他のいろいろな価値観や常識を大きく変えた震災を経て、学生になった自分は、一度アーバンギャルドから離れた生活を送っていた。ライブに通うわけでもなく、その後2013年にふとライブに再び通い始めるようになるまでの間、自伝に書かれているようなバンドの内側で起こっていたことはもちろん知らなかったし、バンドの表面的な動きすらほとんどフォローしていなかった。ただ、楽曲だけはずっと聴いていたし、好きだった。

再びライブに通うようになったきっかけはあまり覚えていない。メジャー契約満了のタイミングにあたる時期で、自伝によれば、バンドとしてはその後の衝突の前の緊張状態にあった頃になると思う。たしかに、メンバー脱退にかかる不穏な空気は、直前までのバンドの状態を知らない自分でも何か感じるものがあったのを記憶している。

そのツアーだったと思うけれど、複雑な気持ちが入り混じったようにやけにかなしく見えた、ももいろクロニクルがとても印象的だった。

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水玉自伝を読んで、すごく新鮮に思ったのは、当時から今に至るまで自分が見てきたアーバンギャルドは、自分が思っている以上に不確実なものであったということ。完成された世界を、自分はただ享受して楽しんでいると思っていたけれど、その基盤自体が自分が思っているよりも不安定で、不確かなものをなんとか繋ぎ止めてきた結果だったということ。そんなこと全然思いもしなかった。

当たり前のように発表されるツアーや新譜も、もしかしたらリーダーの強引さと焦りからくる先走り、付き合わされるメンバーとその実力のうえに成り立っていて、前に進めば進むほど、メンバーそれぞれが、アーバンギャルドが傷ついてきたということを知った。そんなことも知らずにバンドの前進に歓び、ただ楽しんでいた自分を少し恥じたりもしたけれど、それを水玉自伝を通してファンに打ち明けてくれた、と解釈した。

でも極端な話。言葉を選ばなければ、バンドの内情など関係ないのだとも思う。

内情が確実に表現やアウトプットに影響することはあっても、その表現がもたらす結果やファンの心の動きまでは、きっとバンドがコントロールできる範疇ではないかもしれない。もちろん、いろいろな局面で離れてしまったファンも少なくないだろうし、現実的な話、トータルの差し引きがどうなのかはわからないけれど、楽曲そのものがもつ魅力や世界に引き寄せられて、なんだかよくわからないながらも、少なくとも自分はアーバンギャルドに会いに戻ってきたから。そこにタイミングなんて関係なかったし、それからその後もずっと、こうしてアーバンギャルドを応援できているから。

たしかに、自分がこうだと思っていたこと、信じていたことが、事実そうではなかったり、裏側でなにが起こっていたかがわかればショックもあるだろうし、もしかしたら今後その事実や楽曲への向き合い方にも多少なりとも影響はあるかもしれない。

ただ、自分はそれは違うと思っていて、裏側のことなんて何にも知らずにその曲に初めて出会ったとき、受け止めたときに感じたことやその受け止め方は、紛れもない事実だ。それがひとつのアーバンギャルドであることにも間違いは絶対にないと思う。むしろ「わたしとアーバンギャルド」って、そういうことだろうと思う。

舞台の裏側を知らなかったとしても、知らなかったからこそだとしても、事実として作品や楽曲に出会って救われた人もいる。バンド自身がこれまでの過去に対して複雑な気持ちを抱えながら前に進んでいくのは仕方のないことだと思うけど、その過去がなければその救いもなかったということ。

自分は、一度アーバンギャルドから離れていたけど、こうして戻ってこられたのは、メンバーがそのときそのときに正解かどうかはわからないながらも、必死にこのバンドを続けよう(もしかしたら、それは自分のやりたいことができると一度は信じたこの場所をなくしたくないということでもあったかもしれないけど)、と常に傷つきながらも前に進んできてくれてからだと、強く思う。

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この自伝は、今なら、こうして歩んできた今のアーバンギャルドとファンであれば、こんな過去もきっと愛してくれるよねと信じて、アーバンギャルドが出してくれた手紙なんだと、自分は思ったので。

少し打ち明けてくれた今だからこそ、もしも、おこがましくもファンの方から、この自伝の返事が書けるとするなら、ファンがきっとそうするように、アーバンギャルドもその過去をまるっと愛してくれたらいいな。と送りたい。この過去はなかったことになんてならないから。


なんて嘘です。          

薄着

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