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大きな違い。

ちょっと真面目な話。
先日、若くしてこの世を去ったパパに逢った。

まだまだ乳飲み子の兄弟が居る。
それだけでも心苦しくて、胸が詰まる思いだったが、
遺された家族の姿を見ると居た堪れなくてとても辛かった。

人の別れは必然で、それを悲しむのは当然やし
気が済むまで悲しむと良いと思う。

さて。
突然の訃報を聞いて、お家に駆けつけたところ
えらく痩せ細った故人に逢った。
別人かと思ったよ。

最期は病気に臥していたと聞いたが
後半は痛みが強かったのだろう、痛み止めでぼーっとしているようで
ご遺体が安置されている部屋の隣で
虚ろな目をして戸の前に立ち尽くしていた。
まだ自分の状況に気づいてないな、こりゃ。

私個人的な感想だけど
ご病気などで痛みが強い場合の、痛み止め?と言うか
そういう投薬治療を長らく受けてきた人は
肉体を離れた後も、朦朧とというか
しばらくボーーーとしていることが多いように思う。
それが、アカンとか良いとかそういう問題じゃなくて。
ご高齢の人は多少ボーーっとしても、回復が早い。
あくまでも個人的な意見です。笑

生前、彼は赤ちゃんの頃から知っていたので
名前を呼びかけてるうちにちょっとずつしっかりしてきた様子。
と同時に、自分の状況を理解したようだ。
一瞬、死を認識した絶望の闇が伝わってきた。

後悔や遣り残したこと、悔しさや、寂しさ、絶望、
それらをごちゃ混ぜにした
漆黒の闇がこちらにも押し寄せた。
そりゃあ、そうだろう。

でも、君には行くべきところがあるんだよ。
よく見て。


「〇〇くん、向こうに明るい光が見えるやろ?
 今は気が済むまでこっちにおったらええけど、
 気が済んだら、光の中に入ってくんやで。
 あっちにあるやろ?  それやで、それ。」

「向こうに行っても、こっちの家族や子供たちには会えるからな。
 とりあえずは一回光に入るんやでーーー。」

多少ボーーっとしているものの、ウンウンと頷いている。
姿はまだ、病気で痩せこけたままだ。
これもちゃんと意識を取り戻したら、一番良い時期の溌剌とした姿に戻るだろう。
 
いちおう、ちゃんと行先は伝わったようなのでひと安心。

翌日のお通夜の時には、ふっくらとした元気な姿を取り戻していたし、
さらにその翌日のお葬式の頃には、光の入り口が随分近づいていて
本人がもうそこへ入ろうとしていることも分かった。

嗚咽を漏らして泣く彼のお母さんに
彼は「おかん、そんな泣くなや」と頻りに声をかけてるけど
お母さんに届くはずもなく。

お母さんと彼の連れ合いさんにとったら
この涙も必要なのでそっと見守るだけにした。

「言えたら言うとくわな」と彼に伝えて。
今のところ、まだその機会はないけど。

なんで、今こんな話を書いたかと言うと。

自分が肉体を離れた後
どうなるのか、
知っているのと知らないのとでは本当に大きく違うのだ。

説明が難しいのだけど
正確には「思っているようになる。」

例えば、死んだ後は「無」になると思っていたとしよう。
でも肉体を離れても魂(意識とも言えるかな)はあるので
自分を認識はできるのね。
そこで、「無」になると思っていると行く先があっても見えない。
分からない。
当然、混乱してしまうので、
人によっては自分自身を「無」に閉じ込めてしまうこともあるし
周りの人の助けで道を見つける人もあるけど、やっぱり時間がかかるのね。

闇に留まる人も、いる。


自分が肉体を離れたら、
次の場所がある(光という人ももいれば、天国や、あの世とも)のを知っていたら
「行こう」と自発的に思える。
それで次の道が見える。
人によっては瞬間的に移行できる。

そこは制限のない、軽やかな世界だ。

そもそも、「肉体は器でしかなくて魂が本体」
死は器を脱ぐことに過ぎない。
これを周知して欲しいな、とキネも私も切に思う。

生き抜く知恵はもちろん
死ぬ智慧も伝えて欲しい。

今回の彼のように、
たまたま関われて行く先を説明できるのは
ごくごく稀なのだから。


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