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サングラスをかけたライオン 2/5


第2章 手掛かりを求めて


1.地下室の引き出し

 既に日は高く昇り、大地は熱気と強烈な日差しに包まれていた。トザエモは口笛をならしてアルヌマーニクを呼んだ。
「ひゃっ、何だい! 君は、象を飼っているのか?」
 アルヌマーニクがのっそりやって来るのを見ると、私立探偵は肝をつぶした。
トザエモは憐れむような顔つきで彼の方を見て、
「アルヌマーニクよ」
と言った。それから、
「あたしの相棒なの」
と付け加えた。私立探偵は、てっきりアルヌマーニクというのはオウムか何かだと思っていた、とか何とか、口の中でぶつぶつ言った。
 それから、彼らは黙りこくって森の中を進んでいった。
「君、こんな森の奥に、たった一人で住んでるのかい?」
と、しばらくして、私立探偵が言った。
「淋しくない?」
「一人じゃないわ。アルヌマーニクがいるもの」
と、トザエモは答えた。
「あんた、さっきから質問ばかりしてるのね。自分は一体、どこから来たのさ?」
「どこから来たって!」
 私立探偵はとたんに不機嫌になって、言い捨てた。
「およそ思いつく中で、いちばんひどいところからさ。あんなとこの話は、もう二度としないでくれ!」
 それから、彼らは再び黙って歩き続けた。沼岸に来ると、私立探偵が言った。
「何だい、橋もないのか! 靴がぬれちまうじゃないか」
「靴なんか、必要ないわ。捨てちゃいなさいよ」
と、トザエモは親切に助言したが、私立探偵はそれを脱ぐと、捨てないで、片方ずつ灌木の枝にぶらさげた。

 うちに着くと、トザエモは私立探偵を後ろに従えて、こわごわ地下室へ下りていった。
「うわっ、クモの巣がいっぱい張ってるよ・・・気をつけて」
 二人して渾身の力を込めてうんうん言いながら押すと、重たい扉はギイッと音をたててようやく開いた。地下室の中は真っ暗で、埃とかびの匂いが鼻を突く。
「入って左っ側にたんすがあるはずなんだけど・・・何しろここへ来たのは、ずっと前、かくれんぼをしたとき以来だから・・・」
 トザエモはどうやら、埃に埋もれた小さい藤だんすを見つけることができた。
 引き出しの中を探ってみたが、色んなものがごちゃごちゃ入っていて訳が分からない。仕方がないから引き出しごと抜き取って、ひとまず地上へ戻ることにした。
 陽の光のまぶしさに顔をしかめながら検証にかかる。
 ぜんまいの部品。栓抜き。麻ひもの束。ドライバー。きれいな絵のついた紅茶の缶から。・・・一個ずつ確かめながら草の上に放り出していく。
 そのうちにトザエモは、何か中身の詰まった丸い缶を発見する。固いふたを苦労して開けてみると、中には黄色いどろっとしたものがいっぱい入っている。用心深く匂いを嗅いでみて、「あっ、これは軟膏だ」と彼女は気づく。薬草のツンと来る匂い。そう、これに違いない。

「これは一体、どういう意味だい?」
 私立探偵は、それを見ると、当惑して言った。けれど、トザエモの目には、今やすべてが全く明瞭だった。
「これ、アルヌマーニクにつけてやれってことよ!」
と言うなり、ぱっと立ち上がって外へとびだしていった。
「さて、事態がこみ入ってきたぞ」
 私立探偵は独り言を言って考えこんだ。
「あの象がけがをしたことを、あの子の母親が知っていた───ということは、何を意味するのだろう?」
 けれども、結論に至ることができなかったので、彼はあきらめて、とりあえず手に入る資料をあたってみることにした。

2.緋色の研究

 トザエモが戻ってみると、私立探偵は本棚から中のものを手当たり次第にひっぱり出しているところだった。
「ひとのうちのものを勝手に散らかさないでよ!」
と、トザエモが文句をつけると、私立探偵は弁解した。
「証拠物件を調査しているんだよ。何か手がかりが見つかるかもしれないと思ってさ」
 トザエモは黙って本棚を眺めていたが、つと進み出て、一冊の本を手に取った。<シャーロック・ホームズ全集1 緋色の研究>とあった。
「今まで全然気をつけて見たことなかったけど、こんな本あったのね。きっと父さんが読んでたんだわ」
「君のお父さんはどうしてるんだい?」
と、私立探偵が尋ねた。
「父さんも家出したの。私が生まれてすぐくらい、だから顔は覚えてないけど。母さんが言うには、孤独と自由を愛する人だったんだって。結婚して次の春を迎えるともう我慢できなくなって、つばめのあとを追っかけて飛び出していってしまったんだって」
「なるほど」
「この本を読んだら、父さんや母さんが今どうしてるか、分かると思う?」
 私立探偵はうなずいた。
「もしかしたらね」
「じゃ、そうしてみるわ」
 トザエモはそう言うと、<緋色の研究>を抱えて二階へ昇っていった。床にあぐらをかいてすわり、声を出して熱心に読み始めたが、正直なところ、難しくて何の話なのやら、さっぱり分からなかった。
 アフガン戦線。ロンドンの大学だか、研究室だかで、変な実験をやって喜んでいる男の話。
 こんなのが、今の自分の問題と一体どんな関係があるんだろう? こんなのをがんばって読んでみたところで、本当に何か分かるんだろうか?

 夕方近く、巣に帰る鳥たちの声が聞こえる頃になって、おもてで、
「トザエモ!」
と呼ぶ声がした。急いで下りていくと、戸口にミス・ラフレシアが立っていた。
「取り込んでるだろうと思って、夕飯を作ってきたよ」
と言って、ほうろうびきの小鍋をトザエモの手に押しつけた。
「わあ、ありがとう。でもおばさん、忙しいんじゃなかったの?」
「忙しいとも。だからさっさと帰らせてもらうよ」
 ミス・ラフレシアが手を振って、帰りかけると、
「コナン・ドイルって知ってる?」
と、トザエモが唐突に尋ねた。
「コナン何だって?」
「シャーロック・ホームズを書いた人よ。絶対、読んでみるといいわ」
 ミス・ラフレシアは面食らって、首をふりふり、口の中で何かつぶやいた。それから、頭に咲かせた花を揺らしながら、スカートをつまんで沼をじゃぶじゃぶ渡って帰っていった。
 トザエモが家に入って、
「となりのおばさんが夕飯を持ってきてくれたんだけど、いらない?」
と尋ねると、私立探偵は、
「今、熱中しててそれどころじゃないんだ」
と言って断った。
 トザエモは小鍋にじかにさじをつっこんで、ひきわり小麦のお粥を少し食べ、台所に行って、ベーコンの塊から一切れ切り取って食べた。それからまた二階へ戻ると、<緋色の研究>の続きに読みふけった。
 日が暮れるとまた階下に降りていって、私立探偵に、今晩自分の家に泊まるかどうか尋ねた。
「いや、足指亭に泊めてもらうよ。ありがとう」
と、私立探偵は答えた。
「それより、ごらんよ。君のお母さんが書いた日記を見つけたんだ。このかちっとした文体といい、文字の大きさといい、貼り紙の字にそっくりじゃないか。これで、確かにあれを書いたのはお母さんだということを証明できる」
「そんなこと、前から言ってるじゃないの。私は見た瞬間に分かったわ。何たって、私のお母さんなんですもの」

 彼が「参考資料」として例の貼り紙と、本棚で見つけた二、三冊の書物を携え、送っていくという申し出を断って、月明かりの沼地を渡って帰ってしまってから、トザエモはランプにあかりを灯した。そして、発見された埃だらけの日記帳を手に取り、つくづくと眺めた。「19××年8月16日-」とだけ、表紙には書かれていた。
「プライバシーは尊重しなくちゃいけないからな。僕は一ページめの最初のところを少し見ただけだ」
と私立探偵は言っていた。
「これを読めば、事の真相がすっかり分かるはずね」
とトザエモは思った。
「でも、やっぱりプライバシーは守ってあげなきゃ。読みたいけど、謎がすっかり解けるまで、我慢するわ」
 トザエモは、日記帳を本棚に大切に戻した。それからランプを下げて二階に昇ってゆき、<緋色の研究>を読み続けた。ロンドンで起こった殺人事件。ホームズの調査と推理、ショパンのバイオリン・ソロについての話。ページの余白に、らんぼうな走り書きで、「ショパンがバイオリンだなんて、そんなばかな!」とあるのを見て、トザエモはどきどきした。父さんの字だ。トザエモのほとんど知らない父さんの姿を、彼女はその文字ごしに想像してみようとした。ショパンて何だろう? 楽器の名前かな?
 ずいぶん遅くなってからようやくベッドに入ったが、しばらく眠れなかった。色んな場面が次々に頭に浮かんだ。<緋色の研究>を読んでいる父さん。そのわきで、一心に日記帳に何かを書きつけている母さん。異境の地をさすらっている父さん。トザエモの寝ている間にそっとドアに貼り紙している母さん。それから、いつの日か母さんとめぐり会う場面まで。・・・
 彼女の記憶の中では、母さんはいつもその見事なオレンジ色の髪をよく梳いて、後ろにまっすぐ伸ばしていた。日光を受けるとそれは美しく輝いて、見とれてしまうくらいだった。笑うととてもすてきな顔になった。トザエモの髪も母さん譲りのオレンジだが、あれほどすばらしくはない。
 トザエモは夜中に起き上がって、窓から濃い色をした夜空を眺めた。遠くで夜の鳥たちがうるさく鳴き交わしていた。密林がざわめいていた。時折、何かのうなり声が低く伝わってきた。
「あのライオンかもしれない。涙のあとが見えないようにサングラスをかけてたっていう・・・」
と思った。
 ぞくっと身震いを覚えて、トザエモは思わず身をのり出し、相棒がいつもの場所で寝ているかどうかを確かめた。相棒はちゃんとそこで寝ていた。大きな岩山みたいにうずくまって、弓なりに伸びた牙だけが闇に浮き出ていた。
 トザエモは安心して再びベッドにもぐりこんだ。しばらく落ちつかなげに寝返りを打っていたが、やがて浅い眠りに落ちた。

3.トーテムポール

 翌朝、トザエモは私立探偵に会うために再び足指亭に向かった。けれど、その前にちょっと寄り道して、土手の洞穴に住んでいるマーレーのところに寄った。
 マーレーは女薬剤師だ。一体いくつくらいになるのか、想像もつかないほど年をとっている。洞穴の壁をくりぬいた棚には、ありとあらゆる種類の薬のびん、干した薬草、木の皮なんかがぎっしり詰まっている。
 トザエモは、あの軟膏がここで調合されたものかどうか知りたいと思ったのだ。それはすごい効き目だった。傷は傷には違いなかったが、痛々しく裂けた肉のところは一晩でほとんどくっついていた。
 マーレーは、トザエモの持ってきた軟膏をよくよく調べて言った。
「主な原料は、銀色パイプの草の根っこ、レポミアの葉、その辺だね。色々入っているが、あたしのところでこんなのを作った覚えはないねえ」
 トザエモはちょっとがっかりして、マーレーのところを後にした。

 足指亭には、今日もひまな連中が集まって、談笑したり一杯やったりしている。そんな中で、私立探偵はひとり離れて座り、何か一心に考え事をしているようすだった。
「何ぼんやりしているのよ。パイプでもなくしたの?」
 目の前でトザエモに元気よくどなられて、私立探偵はやっと我に返った。かと思うと、いきなり、
「すまないが、君の象くんをちょっと見せてくれないか」
と言い出した。
「探偵やめて、動物学者でも始めたの?」
 トザエモが冷やかすと、私立探偵は首を振った。
「重大なことなんだ。ひょっとしたら、貴重な手がかりが得られるかもしれない」
 私立探偵はアルヌマーニクの傷をよくよく調べてから、唐突にチョッキのポケットから鋭いナイフを取り出した。そしてそれをブランデーでさっと一ふきすると、トザエモがとめる間もなく、閉じかけた傷口に突き立てた。
 そのとたん、アルヌマーニクは壊れたラッパみたいな、とてつもない悲鳴を上げた。
「よしよし、すぐ終わるからな。ちょっと待ってろよ・・・そら!」
 私立探偵はなだめつつ、傷口の奥の方から何かをかき出した。黒い、かたいかけらのようなものだった。彼はそれを手のひらに乗せて、トザエモに見せた。
「何だか分かるかい?」
 トザエモは戸惑いながら首を振った。
「鉄砲のたまだよ! もうちょっとしていたら、中に入り込んで取れなくなるところだった」
 私立探偵はすっかり興奮していた。
「アルヌマーニクは・・・鉄砲で撃たれたの?」
 トザエモが恐る恐る聞くと、私立探偵はまじめな顔でうなずいた。
「これで分かってきたぞ。考えてみろよ、君が今までに知っている人のうちで、鉄砲を持ってる奴と言ったら誰だ? それに、最近この辺りに狩りをしに来たのは?」
「大統領・・・ね?」
「そうとも。それがたった今確証された一つの点だ。それに、もう一つある」
 私立探偵は、ポケットから例の貼り紙をひっぱり出した。
「きのうの晩、これを詳しく調べたんだ。この紙をよく見てごらん。非常に薄くて、なめらかだろう。普通の店では、こんな紙は売っていない。決定的な証拠は、これだ」
 私立探偵は、紙を陽にかざした。下の右はじに、ある形がくっきりと浮き出て見えた───四つの翼を持ったトーテム・ポール。

「これが何だか、知ってるだろ?」
 トザエモはうなずいた。これこそは誉れある国家の紋章だった。
「この紋章を使うことを許されているのは、国じゅうでたったの二人だけだ。つまり、王様と大統領だ。以上の二つのことから、何が言えるか?」
 私立探偵は、トザエモの顔をじっと見ながら続けた。
「君のお母さんは、大統領と何らかの関係があるに違いない、ということだ。だからこそ大統領が君の象を撃ったのを知ることができたし、その対処の仕方を君に知らせるのに、───自分で意識していたかどうかはともかく───手近にあった、国家の紋章入りの上質紙を使うことができたんだ。・・・とすると、お母さんが近くにいるという当初の見解は、間違っていたことになるぞ。何しろ、大統領の家は、遠くだからな」
 私立探偵は考えに沈んだ。

 トザエモの頭に、とびぬけてりっぱなお屋敷が立ち並ぶ大きな通りの景色が浮かんできた。そこが、大統領の住む町だ。
 その町のことは、うわさに聞いて知っていた。ここから東へ向かってずっと行ったところに深い谷間が口を開けていて、そこから先は密林また密林、道なき道を三日三晩も歩き続けて、ようやくそれがとぎれたところに、あの名高い都が始まっているのだった。トザエモの想像の中で、大統領の家は青と緑の瀬戸物でできていて、窓枠とベランダの手すりには金がかぶせてあった。・・・そんな人と、母さん、何の関係があるんだろう?
「聞き込み調査をしたら、何か分かるかもしれないな」
と、私立探偵は言った。
「明日また来てくれよ。何事も時間をかけることが大切だからね」

4.旅人

 足指亭を出たあと、トザエモはゲシー老人のところにぶらっと寄った。彼はヤシの葉でふいた小さな小屋に住んでいる。トザエモが行くと、彼は例の貼り紙の話を知っていた。不思議なことじゃない。この辺りは朝から晩まで暑くって誰も働く気がしないから、うわさ話ばかりしているのだ。
「何だかよく分からなくなっちゃった」
と、膝を抱えて座り込みながら、トザエモはぼやいた。
「本当に母さんのこと、知りたいんだかどうか」
「お前さん、それでもお母さんのいどころが分かったら、どうするね?」
と、ゲシー老人は尋ねた。
「もちろん、連れ戻しに行くわ」
「なぜだね?」
「なぜって・・・あんまり、無責任じゃない。子供を放ったらかして、勝手気ままな暮らしをしているなんてさ。ふつう、家出したら、後悔して帰ってくるもんなのにさ。そうでしょ?」
「勝手気ままか───なるほどな。勝手気ままか」
 ゲシーは口の中でつぶやき、長いすの上で目を閉じる。
 そう言われると、確信がゆらいでくる。何とはなしに、自分がまちがっているような気がしてくる。一体、母さんが本当に勝手気ままに暮らしてきたってほんとうだろうか。実は、トザエモが勝手にそう思い込んできただけだとしたら?
 実際には、帰るに帰れなくて大変な苦労をしているのだとしたら? 母さんが勝手だと思ってきたから、トザエモは自分も好きなように暮らしてきた。けれど、───もしそうじゃないとしたら?

 カデンツァの噴水に立ち寄ると、先客が来ていた。
 やせて背の高い旅人がひとり、腰をおろして休んでいる。
 よそ人がこの辺に立ち寄ったり流れついたりするのは珍しいことじゃないから、トザエモも慣れたものだ。近くまで行って、しげしげと観察する。傍らに、ぼろ布で縛って中身がとびださないようにしてある、年季の入った絵の具箱。
「絵を描くの?」
と、トザエモは聞いてみた。
 旅人は、そこではじめてトザエモの方へ目をやって、返事したものかどうか迷っているふうだった。が、やっと答えた。
「ああ、───昔はな」
「今は、描かないの?」
「描けなくなったんだ」
「どうして、描けなくなったの?」
と聞くと、彼はちょっと首をかしげて、
「言っても、分からんよ。苦労を知らない子供には」
と言った。
「あたしが苦労を知らないって、どうして分かるの」
 トザエモは気を悪くして、言い返した。
「あたし、父さんも母さんも家出しちゃって、ずっとこいつと二人きりで暮らしてるのよ」
と言って、アルヌマーニクの足を軽くたたいた。
 旅人は、それを聞いてちょっと考えていたが、
「でも、やっぱり、分からんよ」
と言った。
「そんなら、もう絵も描けないくせに、どうしてその絵の具を捨ててしまわないの?」
と、腹を立てて、トザエモが言うと、旅人は、肩をすくめて黙りこくってしまい、それ以上、もう何を言っても返事しようとしなかった。

「さて、私はこれからどうしたもんだろうな」
 トザエモはアルヌマーニクの背の上に戻ると、独り言を言った。するとアルヌマーニクは、訴えるように高々と鼻を上げてみせた。
「よしよし、分かったよ。今日はいろいろと、疲れたよね。うちへ帰ってひと眠りすることにしよう」
 二人はそれから家に帰ると、夕方までぐっすり眠った。
 けれど、トザエモは月の出るころに起き出して、何か一口つまむものを探しに台所へ降りてゆき、それからまた例の<緋色の研究>を読み進めるのだった。
 相変わらず難しくてよく分からなかったが、一つだけ、トザエモの目を引いたところがあった。
「人生という無色の糸かせには、殺人という真っ赤な糸がまざって巻きこまれている。それを解きほぐして分離し、端から端まで一インチ刻みに明るみへさらけ出してみせるのが、我々の任務なんだ」
「なるほど、これがキーワードなんだな」
と、トザエモは考えた。
「キーワードって、だいたいいつも、本筋とは関係のないところにあるんだ。人生の中にまざって巻きこまれた赤い糸・・・とすると、あたしが抱えている謎のキーワードって、何だろう?」

5.深まる謎

 さらにいくつかのナイチンゲールのささやく夜と、いくつかの太陽の照りつける昼とがやってきた。
 謎の解明は遅々として進まず、足指亭の私立探偵はひたすら聞き込み調査と沈思黙考とに明け暮れていた。
 大地は光をあび、雨を吸いこんで、果てしもなく成長と衰退とをくり返す。みんなは歌をうたい、ジョッキをかたむけ、それぞれ、心のままに生きている。
 一つの、さらにもう一つの情報が入った。トザエモによく似たオレンジ色の髪の女性が、あの日の朝早く村に入るのを見かけたというのと、もう一つは最近この辺にやってきた旅人から聞いたことで、都にある大統領のお屋敷の庭で、やはりオレンジ色の髪の女が彼の猟犬の世話をしているのを見かけたというものだった。総合的に考えて、それが両方ともトザエモの母さんであることはほぼまちがいない。しかし、彼女がなぜ、よりによって大統領の召し使いなんかになったのか、それは依然として謎のままだった。

 一人でもやもやを抱え込んでいるのに嫌気がさすと、トザエモはかんかん日の照りつける中を、てくてく足指亭まで歩いていった。足指亭の午後は、まるで時間が止まったように、ひっそりと静かだ。青い木陰の中にいるようで、暗く、涼しく、気持ちいい。外があんまりまぶしいので、急に入っていくと、目が暗がりに慣れるまでにしばらくかかる。
 ドアを乱暴にバタンと閉めて、トザエモは不機嫌なようすでカウンターの上に両ひじをつき、組んだ腕の上にあごをのせた。
「おや、トザエモ。元気だったかい?」
 白髪の女主人がやってきて、トザエモの前に果物のジュースを置く。トザエモはそれには答えず、カウンターの奥の棚をにらんだまま、
「わーけわかんない」
と言った。
 返事がないのでますます頭にきて、それでもようやく頭を上げて女主人の方へ顔を向けると、再び、
「わーけわかんない」
と言った。
「何が?」
「何もかも。ぜんぶ」
 女主人は鍋つかみで鍋をつかみ、奥へ運んでいった。
「そうかい」
と、戻ってきながら言った。
「何でそう、何もかもわけがわかっていないと気がすまないのかね?」
「だって、今までずっと、何だってちゃんと分かってたもん」
「おやおや、そうなのかい」
 女主人は、壁の釘からふきんを外しながら言った。
「そりゃあ、大変だね」
 トザエモは目の前に置かれたジュースのきれいな色をながめ、汗をかきはじめたグラスの表面にてのひらをあてて、その冷たい感触を楽しんだ。結局のところ、それはいつもの居心地よい足指亭だった。ただ、この胸のもやもやさえ何とかなってくれたら!
 そうやってしばらくくさっていて、トザエモはまた、一人でとぼとぼ歩いて帰った。
 途中でちょっと立ちどまって、道の上に落ちた、まっ黒なやせっぽっちの影を眺めた。ためしに両腕を水平に持ち上げてみると、小さな影も同じようにした。
 それから手旗信号みたいに、二本の腕を色んな向きに動かしてみた。次には両脚をだんだんに開いていって、限界までいき、さいごにぴょんと一跳びしてもとの姿勢に戻った。
 そのとたん、道の向こうからだれかが、
「よう!」
と声をかけてきた。
 まぶしさに顔をしかめながらよくよく見ると、浅黒い人影が手を振っている。いつか足指亭で居合わせた、あの見慣れない旅がらすだった。
 彼は少々不躾に思えるほど、ひとなつこく笑いかけた。
「よう、母ちゃん、見つかったか?」
 トザエモはふくれっ面をして、答えなかった。
「そのうち、見つけるさ。大丈夫、心配ない」
「何であんたにそんなこと言えるの?」
 旅がらすは、ただ笑って、黙っていた。
 他人なんて、大して助けにならないな、と、トザエモは考えた。

<第3章につづく>


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