見出し画像

「その場での旅」をつくる 林央子『つくる理由』と私の暮らし

今日からいくつかの記事を通じて、年末に読みかえした林央子著『つくる理由 暮らしからはじまる、ファッションとアート』をめぐって、自分の生活にむすびつけながら感想を描き出してみたいと思います。

いつ終わるかもわからないまま、思うままにキーボードを叩いてみました。

今回の記事は、一般に公開します。

「始まりの感覚をつかむため 青木陵子」を読む


コロナ禍であろうとなかろうと、子どもとの暮らしはいつもぼくに葛藤を引き起こす。


「子育てをしていると自分の時間がない」と愚痴をこぼしたくなる。これはぼくだけでなく、子を育てる知人からもよく聞く。この「自分の時間」とは、自分一人で自由に、読書や映画、美術鑑賞などに耽溺する時間のことを指すのだろう。「個人」として、繭の中で「孤独」であることを愉しむ時間。


子どもと共に暮らすこと、あるいは家族と共にケアをしあいながら暮らすことは、そのような自分を他から独立した「個人」として捉える生き方を手放し、他者との関係に葛藤し、他者に翻弄されることを前提に生きていくことを意味する。「孤独」とは別の、ひとりになれない、つながれてしまう時間のなかで生きてゆく。


たとえば、子ども2人を連れて公園に行く。自分の時間にアクセスしようと、必死にtwitterのタイムラインを漁っている自分の浅ましさに辟易する。スマホから手を離してぼんやりしてみると、子どもたちは思い思いに公園を散策している。子どもたち2人を視界に入れながら、どちらと関わるでもなく、たまにボールを蹴ったり、落ちている木の棒をもらったり、土をほってチョコレートに見立てたものを食べるふりをしたりする。


そんなぼーっとした時間のなかに揺蕩っていると、遊んでいるのか遊ばされているのか、自分が人間なのか遊具の一種なのかわからなくなっていく。自他の境界がほつれていって、自分もこの公園も子どもたちも一つの流れのなかにつながっていき、終わらない踊りのなかにいるような気持ちにもなる。以前参加した、コンタクトインプロビゼーションのエチュードを思い出す。力まず、自然に発生する流れに逆らわず、終わらない戯れの中に揺蕩う。


あるいは、かつて代官山のUNITで、ミニマルテクノを聴きながらフロアで体を揺すっていたころに感じた、音に同期し、空間に溶けてなくなるような感覚を、まったく別の仕方で、別の速度で、テクノとは異なる不規則なリズムで味わっているような気分になる。


こうした時間の感覚の中で、自分から何かがほつれ開かれていくのを感じる。子どもとの見立て遊びや不規則な身体運動は、神事や神話のようでもある。そう、子どもの感覚というのはいつも少しだけ、ときに大きくトリップしているのだろう。力まず、我を忘れて、流れるように戯れていると、こうした神話的な時間の中に軽やかにトリップしているような気がするのだ。まるでそこに、見えない魔法陣が描かれ、そこに別の場所を立ち表すような。


その時間が心地いいと感じられるころに、お昼ご飯の時間になる。連れ戻されるような感覚を味わいながら、どこか安心した気持ちになって、子どもたちに「帰るよ」と呼びかける。もちろん素直には戻ってこない。彼らをこちら側の世界に連れ戻そうと、ギシギシとしてやりとりの末に帰路につく。


「何時に何をする」と定められた時刻に身体を合わせようとするとうまく合わない時がある。正確に時を刻む時間と、終わらない戯れの中に揺蕩う時間は、相容れない。ただ、その二つの時間をつなぐ穴は、きっと遊びや踊り、あるいは何かをつくる身振りのなかにあるのだろう。


ぼくは高校生ぐらいのころから、世界には見えない穴が空いていて、その向こう側の世界と繋がっているのだというイメージをもつようになっていた。


コンビニに行けば商品が所狭しと並んでいて、そのパッケージの向こう側には、商品を買わせようとする力学が蠢く世界がひろがっている。クラブも一つの穴だった。ある空間に人を閉じ込め、音と光に同期して自他の境界が溶けていく、この快楽のための穴に入っていく。コンビニで物を買うことも、クラブで踊ることも、無目的な消費であり、同期し、没入の快楽の穴のなかに入り込んでは抜けていく。快楽の強度こそあれ、摂取して出ていくプロセスは同じだった。


美術館も、映画館も、別の世界と繋がる穴だった。だがそこにあるのは他者に用意された快楽で、お金を払い、眺めることで自分と同期していく。twitterにそれっぽい感想を書いて、単なる消費から抵抗しているように見せかけて、それでもそれはぼくにとって他者に用意された快楽を摂取しているにすぎなかった。美術や映画も、「それを見た」という経験を装いたかったに過ぎないのかもしれない。


どうしたら自らの意志と力で穴の向こうに行けるのだろうか。用意された穴に入るのではなく、自ら魔法陣を描き、舞い、世界に穴を開け、別の世界を立ち表す作法とは何か。


ぼくが子どもとアーティストとのワークショップを企画するときにも、この穴をイメージしていた。アーティストのつくる身振りが子どもたちに憑り、その身振りのなかで穴の向こうに移動していくプロセスだ。


林央子さんの著書『つくる理由』のなかでは、アーティストたちのつくることに向かう生活のありようや身振り、手つき、そこに伴う思考が描かれる。アーティストとは、つくる身振りのなかで穴の向こうに移って行ける、そんな人たちなのではないかということだ。


ヴァルター・ベンヤミンは、読書のことを「その場での旅」だと言った。


この本に登場するアーティストの青木陵子さんは「何もすることがないとき、植物を描いていると、すーっと別の世界にはいっていけるんです」と言った。


「青木さんが描くときは、ボールペン、細いペン、色鉛筆、蛍光ペンなど身近な文房具を使う。(中略)アトリエにはいろいろな紙をストックしていて、出歩くときはノートをもつようにしているという。いつでも、楽に描けるように。そのノートも、マス目も何もない真っ白な紙だと「力が入ってしまう」ため、線が入っている方が「構えないから好き」。」

日常のなかにすぐ手に取れる道具があり、その道具を使って、その場での旅をする。


この青木さんの身振りは、作品を見ているとじんわりと体に染み込んでくる。線が踊り、素材と素材が戯れ、遊んでいるのがわかる。その遊びに、見ているぼくも巻き込まれる。線を追う目が、素材の質感を想像する身体が、たとえじっと鑑賞していたとしても、想像のなかで踊り始めるのがわかる。


この描き、素材と戯れ、その場での旅が始まる感覚は、もしかしてぼくも知っているのではないだろうか。ぼくと子どもたちも、公園のなかで土を穿ったりボールを蹴ったりして、すーっと別の世界に入っていき、その場での旅をしているのかもしれない。


そう感じるなら、「子どもと遊ぶ」ということを、単なる時間潰しではなく、その場限りで「つくる」身振りであると読み替えることができないか。アーティストと、子どもやぼくが日常している身振りのなかに、うっすらとつながりを見出すことができるのではないか。「可処分時間」という言い方があるが、この言い方に従えば、子どものケアに自分の時間が処分されていくと考えるということなのだろうか。それはなんと悲しいのだろう。スマホを見るぼくは、可処分時間の世界で時間を消費しているにすぎない。


ただ、子どもたちの遊びの世界に誘われるなかに、青木さんの作品に巻き込まれるときに生まれる、戯れや踊りの感覚が芽生えていくことを、実は知っていた。


そして、この『つくる理由』には、青木さんをふくむ9組のアーティストの身振りが描かれている。9通りの「つくる」身振りに、それぞれに触発された記録をつくりだしてみたい。


(つづく)

ここから先は

0字
マガジンの売り上げは、アートワークショップの企画や、子育てをする保護者やケアワーカーがアートを楽しむための場づくりの活動費(書籍購入、リサーチ費など)に使わせていただきます。

アートの探索

¥500 / 月

このマガジンは、アートエデュケーターの臼井隆志が、子育てのことや仕事の中で気づいたこと、読んだ本や見た展覧会などの感想を徒然なるままに書い…

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。いただいたサポートは、赤ちゃんの発達や子育てについてのリサーチのための費用に使わせていただきます。