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メールによる鑑賞ワークショップ「書簡工房」 ー実施レポート

2020年年末より、メールによる鑑賞ワークショップ「書簡工房」を行いました。

メールワークショップとは何か?どのような方法で行うものなのか?

今回はぼくと参加者のみなさんが試したその手法をご紹介します。

なぜメールでのワークショップなのか?

アートエデュケーション、ワークショップデザインを専門とする臼井隆志の定期購読マガジン「アートの探索」では、「アートの探索遠足」と称して毎月なにかしらのイベントを行なっています。これまではZOOMでの対話型鑑賞ワークを多く行なっていました。

しかし、2020年9月に第二子が生まれ、なかなか土曜日の午前中や午後一番に時間をつくることが難しくなってきました。また、再びcovid-19の感染が拡大するなかで、自宅にいてZOOMでログインする時間が長くなる人が多いだろうと感じていました。

オンラインでの活動が続くと、1時間ごとに画面上に現れる人が変わり、ひとつひとつの場で語られたことが忘れられやすくなっていくように思います。そのような場や時間の感覚を、どうにか変えることはできないか?と考えた結果、時差のあるコミュニケーションを利用することをひらめきました。それがメールでのワークショップです。

メールワークショップの目標

このワークショップの活動の目標は、絵画を鑑賞するだけでなく、鑑賞から受け取ったアーティストのエッセンスを自身の中で咀嚼し、表現することです。

そのなかで、目で見たもの、頭に思い浮かんだものを言葉にするだけでなく、描いてみることで、自分が想像しているものの捉え方をつくりだしていくことを、学びの目標としています。

鑑賞となる作家として、パブロ・ピカソを選びました。言わずとしれた芸術家の代名詞でありながら、その作品の不可思議さは言葉にしがたく、またその手つきも模倣しにくいものがあります。

触発、ディスクリプティング、虚体験といったさまざまな技法を参照し、プログラムをデザインしました。

臼井自身のチャレンジ

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今回のワークショップで、ぼく自身がチャレンジしたかったことは、ファシリテーターという存在を問い直すことでした。

ワークショップ研究の権威である苅宿俊文先生は、ファシリテーターは「黒子」であるべきだとおっしゃっています。15年前に先生に学んだぼくは、その思想をずっと実践してきていました。

しかし、最近劇作家やダンサーとの交流を通じて、アーティストたちのファシリテーションをみていると、鑑賞や創作のなかで参加者のイマジネーションを触発するファシリテーターは「黒子」ではなく、なにかもっと別の存在であるべきなのではないか?と感じるようになったのです。

そこで今回、ぼくは嘘をつくことにしました。一つは「絵をみることができない」という嘘です。そしてもう一つは、「2つの絵を間違えて送ってしまった」という嘘です。

この嘘によって、このワークショップ自体を演劇的な空間にしてみたいと思ったからです。ファシリテーターは黒子ではなく、俳優である。戯曲に則って演じるパフォーマーであることをその存在意義としてみることにチャレンジしました。

メールワークショップの構成

今回行ったワークショップは、4つのフェーズで構成しました。

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まず、一通目ではチェックインとして、参加者一人一人から「あなたが普段癖で行ってしまう表現活動はなんですか?」という問いに答えていただきます。

二通目では、ぼくから鑑賞作品を送ります。ピカソのスケッチやエスキースのなかから2つの作品を選び、どちらか一つを送りました。その作品の内容を比喩表現などを織り交ぜながら客観的に記述してもらうワークをしてもらいます。

三通目、ここがちょっと複雑なのですが、ここで集まったテキストをベースに、ぼくが音声ガイドをつくります。参加者が書いたテキストから単語をランダムに抜粋し、2つの絵にまつわる言葉をマッシュアップし、架空の絵についてぼくが語る音声ガイドです。その音声を聞いて思い浮かぶ絵を書いて送ってもらいます。

四通目では、出揃った絵をみてもらい、展覧会のタイトルを考えていただきました。

一通目:チェックイン

各フェーズを簡単にご紹介します。まず、チェックインのフェーズでは、ラジオのお便りのようにこんなメールを送っていただきました。


ペンネーム:さとうさん

あなたが好きで、どうも癖でやってしまうような「表現活動」はなんですか?  

「違和感」「小さい引っ掛かり」「言葉にしづらいモヤモヤ」を感じた際にnoteに書いています。「?」と思った事を言葉にせずにはいられない癖を自分は持っていると思います。
自分の中で生じた違和感やモヤモヤを自分なりに言葉にして外に吐き出さないと、どこか落ち着きません。
曖昧なモノに対して「分かりたい」「理解したい」欲求があるのかもしれません。

ペンネーム:なおちゃん

あなたが好きで、どうも癖でやってしまうような「表現活動」はなんですか?

毎日日記を書いているのですが、飽きてくるので、たまに変化が欲しくて、今まで読んだ日記、例えば、武田百合子『富士日記』の雰囲気に寄せて、なんちゃってものまねで書いてみる、とかをやります。武田さんはこんなことは書かないだろうなあ〜と思ったらその内容はやめて、その日あったことの中でも彼女が書きそうな(と自分が思う)内容を選ぶ。普段は書かない風景描写を入れ、3食の食事内容や、買ったものと値段(ちくわ100円とか)を詳しく書いたりする。すると、1日が、自分の体感で思ってたのとは全然違う1日として、別の感受性で捉え直されて新鮮で、ちょっと面白かったりします。
色々な日記を仕入れて、なりきる遊びを時々やります〜。
誰に見せるわけでもないけれどやっているので、「癖」となっている表現と言えると思います。

日記のなかで随筆家の書き方を真似をすると、1日の体感が変わるとは、すごい方法ですね。表現することで自分の経験自体を変えてしまう。「色々な日記を仕入れて」いらっしゃるということは、武田百合子さんだけじゃなく、さまざまなひとに「なって」、日常をリフレッシュされているのでしょうか。「なる」人によって変わる感覚ってどんなものなのでしょう。気になります。

こうしたメールに対して、ぼくからは、「表現と言いつつ、0~1を生み出すわけではなく、何かの事柄への反応として表現が生まれていると感じました。そんなわけで、わたしはある事情があってこの絵をみることができないので、この絵についての皆さんの反応を教えて欲しいのです」と、返信します。ここからが二通目、ディスクリプティングのフェーズです。

二通目:ディスクリプティング

ここで、2つの絵のどちらかを参加者に送り、その絵について記述して欲しい、と頼みます。なぜなら私はその絵をみることができないから、と。

ひとつめの絵はこちらです。

もうひとつは、こちらです。

二つとも、シンプルな筆使いのものを選びました。のちに絵を描いてもらうワークをするために、スケッチ的なもののほうがインスピレーションを得やすいだろうと考えたからです。

それぞれの絵に対する参加者のディスクリプションをご紹介します。まず、ひとつめの作品「Sculpture」について。

ペンネーム:さかなさん

紅茶に浸して乾かしたあとのようなうっすらと茶色い紙の上に、墨色でシンプルな線がひかれています。他に色は使われておらず、画面に没入していく感じというより、画面と距離をもって描かれた形を目で追っていく感じで絵を見ていきます。細いペンとインクを使って線がひかれているようです。ところどころ、墨がにじんでじんわり広がって他の部分より濃く感じられるので、線の動きがゆっくりになったり少し止まったりして見えますが、全体として線の太さはすっきりしてて、ペン先の動きにブレや揺らぎ、迷いは感じにくいです。形がはっきりと思い描けたところで素早く手を動かして、しっかりとビジョンを紙に定着させた、しかもその形は紙の中でどの程度のボリュームを構成するかが見えていて全体をコントロールのうえペンを進めたのではないかという気がします。構築的な絵というイメージです。

一方で、ぱっと見て何の形を描こうとしているのかが限定できない、観る側にとっては不確定な線画とも言えます。墨一色で塗りつぶされているようなモノクロの色面もありません。私が一番最初に目に止まった形は、画面を4分割したときに右上側にある2つ並んだ小さい丸です。墨のにじみが他と比べて濃いのと、似たような形が2つ並んでいるのと、どこか「生き物の目」を想像させる配置だからのような気がします。この2つの丸は細長い三角形の中にあって、その三角形の上にはより小さな三角形が乗っていますが、はっきりと単体で形をなしていると言いやすいのはこの2つの円と2つの三角形と画面下側にある台形で、そのほかは線や面が途中で切れたり独特に組み合わせられていたりしてこれはこうだと断定しにくいです。何とでも捉えようのある抽象的で独自の形こそこの作品のオリジナリティで、そこはかとないユーモアを作品の中に漂わせている要因だとも感じます。

「生き物の目」と言いましたが、私の中でその生き物は、最初「猿」だったのが次第に「馬」に代わりそして「鳥」に変化しました。「猿」のとき、「生き物の目」が入った細長い三角形の下にある下が途切れた楕円はその背中に、楕円が乗った台形はそのお尻に、楕円と台形から斜めに伸びた罫線と折れ線はその大きく開かれた両脚に見えました。「馬」のとき、「生き物の目」が入った細長い三角形の斜辺に並行して左側にある縦線から横に伸びた9本の曲線は、風にたなびくたてがみに見えました。人間のように馬が2足歩行する「ボージャック・ホースマン」(Netflixのアニメーション)のビジュアルをなぜだか連想してしまいました。そして「鳥」のとき、「生き物の目」が入った細長い三角形は長い首を回して後ろを振り返った鳥の顔に見えて、「猿」と「馬」ではボディだった楕円と台形は巨大な卵とその受け皿(巣)に見えました。


オリジナルの線と形を心の中で自由につなぎ合わせて絵を描き直すことは、この作品を楽しむ方法のひとつかもしれません。作品から受けるイマジネーションの変化をアニメーションで表現すると、とても面白いものになりそうです。

次に、二つ目の絵、「Head of the Medical Student」について。

ペンネーム:わかめさん

まずひとめ見て、俳優の室井滋さんを思い出しました。
絵には、室井滋さん似の人物がひとり描かれています。

絵のたてよこは4×3くらいで、証明写真のような比率です。
人物が、こちらからみて向かって右を眺めるようなかんじで、からだを斜めに向けています。
なんとなくですが、病院のベッドをすこし起こして、そこに身を預けているように見えました。
見えるのは胸部の下くらいまでで、水色のシャツかニットのようなものを着ています。
白いクッションのようなものがその下、絵の構図でいうと右下に描かれていて、見切れています。
そのクッションと胸部とのあいだに、黄色っぽい色の本が開いて置かれているようです。
本を読んでいるのかいないのか、まなざしからはわかりません。
ぱらぱらめくっている、そんな様子にみえます。

ところで、室井滋さんと思った理由を添えておきます。
この人物に髪の毛は描かれておらず、いわゆる性別はわかりにくいです。
あ、でも頭頂部の左側に、ちょっとだけ黒くそれらしきものがシュッシュッと描かれていました。
ただほぼ坊主に近いようなビジュアルです。

面長で、鼻が長く、小さめの口が特徴的です。目は切れ長で、右目が開いていて左目は閉じている、つまり左目でウィンクしているようにみえます。こういった要素から、室井滋さんを思い出したのだと思います。

ちなみにどうして病院のベッドと感じたかというと、顔の後ろが薄めの紫色でささっと塗られているからです。
塗られているというより、滲んでいるというほうが近い気がします。
その紫の雰囲気が、少し静かな病院の気配を感じさせました。

絵全体に感じた印象としては、「少しほっとする」です。
顔や鼻の輪郭があたたかみのある朱色で描かれているからかもしれないですが、この人物には親しみを感じます。「声はかけたことがないけれど、なんかよさそうな人だなと感じていた同級生」みたいな感じです。

こうした記述が10通ほどあつまります。参加者の方ひとりひとりの感受性を文面からうかがい知ることができて、とても面白く思いました。

この文章を全員に共有することはしませんでした。その代わり、全員分の文章をコラージュした音声を送ります。

文章のなかから、描かれたモチーフ(生き物/人物)についての記述、頭部・表情・胴体の記述、背景の記述、紙や筆致についての記述を抜粋し、コラージュをするように2枚の絵を組み合わせた音声ガイドを作成しました。今度はその音声ガイドを聞いて絵を描いてもらいます。

三通目:ピカソになって声を手がかりに絵を描く

あなたの名前は、パブロ・ピカソ。本当はもっと長い名前だけど、長年この名前で親しまれています。

あなたは、写真のように絵を描くのではなく、様々な角度から見たモチーフを、まるでコラージュするように一つの画面の中に配置していく、不思議な絵を描く作風で、よく知られています。

時は、1944年。第二次世界大戦の戦火が世界中で渦巻く喧騒のなか、あなたは10分ほどの静かな時間を確保し、紙に向かいました。

そこであなたが描いた絵のことを、これから話します。

紙とペン(鉛筆でもクレヨンでも構いません)を用意してください。そして、音声データを通じて、わたしの話を聞いて、思い浮かんだ絵を描いてみてください。

その絵を写真で撮って、メールに添付して送ってください。

これは、三通目にぼくが書いたメールの抜粋です。

音声ガイドのデータは、ここに添付しておきます。

このガイドを聞いて思い浮かんだ絵を絵を描いてもらいます。もしよかったら、書いてみてください。絵を数枚、添付しておきます。

ちあきんぐさん

ぐみさん

リリーさん4

ぱんださん

ここで急に、参加者の存在が手触りをもって伝わってきたことをおぼえています。参加者が実際に手を使って描いたものが送られてくるだけで、その身体性を感じることができるのは興味深いです。

一人一人、絵を描いた時の気分や描いてみた感想などをメールで対話をしました。そのやりとりは他の人には開示せず、あくまで個人間のやりとりにとどめました。

四通目:展覧会のタイトル

そして四通目です。これらの絵を全員にシェアし、鑑賞していただきます。そのうえで「これらの絵がもしも一つの展覧会として開催されるとしたら、どのような展覧会のタイトルをつけるか?」を問いかけました。

展覧会のタイトルとしてあげられたものは以下のとおりです。

Facial Expression
それは見えず、聞こえなかった
異世界に送り込まれても
魂のエコロジー 万人がイメージの作り手である
はじめに言葉ありき
その眼が見るもの、見えぬもの
虚像に焦点を合わす
「想定外」をつくり出す
騒がしさが私を落ち着かせる
個多個多煮展 混ざりあって融けあって

タイトルを並べてみると、一編の詩のように感じられました。作られた絵画のことでありながら、このワークショップでの経験が語られているように見えます。

通常のワークショップで行うような経験のふりかえりは求めず、この詩のような展覧会タイトル案の羅列を送り、ワークショップを締めくくりました。

メールワークショップを終えて

このワークショップの実験は、ぼくにとって非常に面白いものになりました。

時差のあるコミュニケーションのなかで、参加者に1ヶ月間課題を求め、ある種の負荷をかけつづける。そんなことが成立するか?と疑問だったのですが、10数名の参加者の方にお付き合いいただき、なんとか最後までたどり着くことができました。ご参加いただいたみなさま、本当にありがとうございました。こうしてみなさんが実験に参加してくださることで、ぼくは深く学び、新しい技術を培うことができています。

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何より興味深かったのは、ワークショップをする1ヶ月の時間のなかで、一対一のコミュニケーションを深められたことでした。とくに、描いた絵についての質問とその回答は、参加者のなかでおこっていた知覚的・感情的戸惑いを知ることができ、多くのことを学ばせていただきました。

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このような一対一のコミュニケーションが折り重なることで、直接会ったことも顔を合わせたこともない、メールの交換すらしない人々のあいだで、どのような関係性がうまれたのかが気になっています。参加した方がこの期間どんなことを感じられていたのか、振り返って教えていただけたら嬉しいです。

そして、初めに書いた「嘘」についてですが、このワークショップ自体を演劇的なムードの中で進めることができたかどうかは疑問です。ただ、ある種の嘘を活用した空間の作り方の手応えは、どうにか得られたような気がします。

さて、長く書いてしまいました。2月も、新しいメールワークショップを実験したいと思います。テーマは荒川修作+マドリン・H・ギンズの「意味のメカニズム」です。また告知します。

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