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「乳幼児美術」の文脈

アーティストやんツーさんが、赤ちゃん向けのおもちゃ「センサリーボード」に見出した美術作品としての可能性とは。

・本来の価値や機能が無化している(もの派)
・あらゆる日用品のコラージュである(コンバイン・ペインティング)
・「モノを選び、並べる」という現代的な創造性(レディメイド)

そしてなおかつ、乳幼児が触って遊べる玩具であること。赤ちゃんは、ペットボトルやお菓子の空き箱、鍋やおたまなどを転がしたり叩いて音を鳴らしたりかじったりして遊びます。赤ちゃんの前では本来の価値や機能が無化し、触って楽しむものとしての別の価値を帯びていきます。そこに赤ちゃんとアーティストのまなざしが重なるところがあるというのが「乳幼児美術」のコンセプト。

乳幼児美術の先行事例をさぐる

触って遊べる玩具であり、美術作品である、という難しいバランスを成立しているものは、他にどんな事例があるのでしょうか。

マルセル・デュシャン、ロバート・ラウシェンバーグ、もの派などの固有名が登場しましたが、彼らの作品は赤ちゃんの玩具ではありません。美術館では「お手を触れないでください」と言われてしまいそう。

触れていじくりまわして良い作品と考えると、いくつか思い浮かぶものがあります。

まず思い浮かんだのは、2010年に東京都現代美術館で行われた「こどものにわ」がありそうです。通常触れられない美術館の作品に、いっぱい触れてみよう!というコンセプトで立ち上げられた展覧会。

とくに、出田郷さんの「reflection」は、スポットライトが埋め込まれ、そこに被せられた樹脂製の網の上を歩くと、天井に映る光の形が変化するというもの。知覚し、遊ぶことができ、同時にインスタレーション作品でもあります。東京都現代美術館では、このあとも「オバケとパンツとお星さま」「ワンダフルワールド」「ここは誰の場所?」など、子どもを来場対象者とした展覧会が多く企画されています。

子どもに限定せずに考えると思い浮かぶのが、イサム・ノグチのパブリックアート。彫刻作品であり、公園の遊具である。公園全体を設計した「モエレ沼公園」は有名です。

共通する事例では、荒川修作+マドリン・ギンズ「養老天命反転地」。こちらも公園という建前でつくられた、身体で知覚し、意味を味わう美術作品ということです。ぼくはまだ行ったことないのですが。

近年の作品では、内藤礼「母型」/西沢立衛「豊島美術館」もあるかなぁ。内藤礼の「母型」という作品のためだけにつくられた美術館。水滴のような形をした空間のなかでは、180個の床から地下水がゆっくりわきだし、一定の量の水がたまると、撥水加工された床面を水が動いていくという作品です。知覚する場であり、その時間に身を委ねる美術作品でもある。

これはどれも有名なものばかりですが、もっとほりさげて「乳幼児美術」の前の文脈として位置付けられそうなものってなんだろう、と美術に詳しい人たちと飲み会をしたら楽しそうですね。

知覚のコラージュの特異点

ぼくは、これらの文脈とやんツーさんの「知覚のコラージュ」の差異として、これが参加者を集めたワークショップであったことが重要なのかなと思います。

やんツーさんのこれまでの作品との共通点を考えてみると、例えば「SENSELESS DRAWING BOT」では、「作家(仕組みを作る人)ーロボット(作家のプログラムのもと実行する機械)ーキャンバスとロボの運動の相互作用(生成される絵画)」という関係がありますが、これが今回、「ワークショップをするアーティストー制作する親ー生成される赤ちゃんの知覚」という関係になっていると言えるかもなと思いました。

さらに面白いのは、参加対象者が、親もしくは親になる予定の人であったこと。我が子の玩具であり美術作品をつくる。親のまなざしと、作家のまなざしの両方をもって作品をつくっていく。その矛盾と葛藤が作品に宿っているのも感じます。

そんなわけで、やんツーさんの乳幼児美術/知覚のコラージュから目が離せません。なんと、京都精華大学の学生さんたちと一緒に「インタラクティブ版」を作っているようですよ!面白そう!

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