見出し画像

#3 何か変わろうとしている。

まもなく図工の先生になって丸8年を迎えようとしています。

小学校卒業以来、約20年ぶりに「図画工作」に再会し、アートに対する固定概念がボロボロ崩れて、なんて面白い世界で、価値のあるもので、これからの未来をつくる上でなんて意味のある学びなんだ!!と感動しています。それは8年経っても変わりません。

8年間、僕は同じ授業はほとんどしたことがありません。それだけ題材やアイデアは無限にあるような気がするし、僕はその世界をまだまだ知りません。そういう意味では、僕にとって新しい授業をずっと探し続けられそうだし、まだまだ果てはなさそうです。

これまではその授業のテーマ、題材探しが楽しかったのです。「これも授業になるのでは?」「あれも授業になるのでは?」他の教員の実践や、大人向けの研修ワークや、カードゲームや、はたまた何気ない日常の瞬間や、我が子と読む絵本の中にも授業のヒントが転がっています。「あ!これは授業になる!」とピン!と来る瞬間はいつも胸が高鳴ります。宝物を見つけたような気分です。

ここ数年は、題材探しよりも、一緒に授業をつくる仲間探しが楽しくなりました。
輪が広がり繋がり、話をしたい、話を聞きたい人とたくさんたくさん出会えます。最初から授業をつくるつもりで話をするわけじゃありません。雑談、余談を重ねる中に、「あれ、それ授業になっちゃいそうですね!」と。「やりましょう!一緒にやりましょー!!」とタッグを組む瞬間はいつも心踊ります。アイデアを重ねて、ブラッシュアップして、授業が生まれます。

最近はその出会いから起こる「何か」をつくることへの楽しさに心が向いています。
「学校の授業」じゃなくてもいい。それは空間。それは仕組み。それはチームや、サービス。まだ誰も知らない何かを創造する、全く違う分野の人たちと共創する、という楽しさや喜びを味わってしまいました。授業というと、子どもが受け手になりがちですが、共創の相手は子どもたちであるケースも多くなってきました。「学校」や「授業」という枠には収まらないケースにだって、胸が高鳴ることが増えてきました。

これまでにいた枠から出ちゃえば、自分は“まっさら”です。“先生”だなんて、どうか呼ばないで欲しい。そうして再びゼロから見知らぬ世界を進んで行きたい、いえ、すでにそうした世界を進んでいるのだと思います。

「なんとなく」は今この瞬間を見ることです。心が向くほうに素直に心が向けられればいい。ここまでよくやってきたんだから、同じところでもうちょいやればいいじゃない。と違う方から声が聞こえます。けれども、なんとなく、そうじゃないと思っちゃったんだからしょうがない。何か変わろうとしているんです。

8年間で少しずつ重ねてきた鎧、具体的には図工の先生という鎧、ICT教育者という鎧、小学校の先生という鎧。これらは自分を強く大きく見せる鎧のようで、自分を縛る呪いのようでもあるのかもしれません。ちょっと重くなってきたので、それらの鎧を1枚1枚、一旦よいしょと外してみて、そこから見える景色を「なんとなく」眺めたいのです。今までちょっと頑張ってきたから、鎧の重さに耐えれる分だけ素な自分もたくましくなったはず。そんな素の自分で、なんとなく世界を眺めれば、なんとなく次の行き先が見えてくるはずなんだと思っています。