祈りの領域

「勝負は時の運」とか「運も実力のうち」なんて言葉がある。

世の中、うまくいくか、いかないかが「運」によって決まることは少なくない。

日頃から一生懸命にトレーニングを積んでいても、泊まったホテルで食中毒が出てしまったり、レース当日にヤンキーに絡まれてしまったら、一巻の終わりみたいなところがある。

天候やメンバーなどに恵まれないことだってあるだろうし、走っている最中に不意に転倒に巻き込まれたり、交通事故に巻き込まれたりすることだってある。

とにかく、自分ではどうしようもない要素がたくさんあるのだ。

「運」というのは、確率や理論などを簡単に超越してしまう。だから、確率論ではとても説明できないようなミラクルというのが実際には起こってくる。

もしかしたら、「運がよかった」というのは、日頃から運を引き寄せるような努力をしていたのかもしれないし、知らないうちに徳を積んでいたのかもしれない。

こればかりは、誰にも分からない。

ただ、勝負が「時の運」で決まることがあるとすれば、「運」を引き寄せる力を無視することはできない。

では、どうすればいいのか。

もうこれは、一生懸命にやれることをやって、あとは祈るくらいしかない。

私たちの身の回りを見てみると、結構いろんなところに神社がある。

他にも、お寺があって、教会があって、神棚があって、仏壇があって、お墓がある。

家の中を見ても、人形があったり、お面があったり、置物があったり、ぬいぐるみがあったりする。

それなのに、どうして私はこんな置物とひとつ屋根の下で暮らしているのだろうと思う人はほとんどいないだろう。

そういう意味では、私たちは祈る環境に囲まれて生きていると言っても過言ではない。

もしかしたら、これは「祈ることが大事なんだぞ」という宇宙からのメッセージなのかもしれない。

人はこの「祈り」という非論理的なコミュニケーションによって、自らの精神状態を保とうとしてきた。

願いを叶えるためではなくて、自らの精神的安定のためにやっているのだ。

そして、勝負所で必要になってくるのは、平常心であったり、冷静な判断力だったりする。

精神的に余裕が無ければ、高いパフォーマンスは発揮できない。

ゆえに、高いパフォーマンスを発揮するためにも、祈りは必要なんだと思う。


日本は、言うまでもなく祈りの国である。不思議な国だと思う。

なぜかと言うと、この国の暴走族は、交通安全のお守りを付けて暴走をするのだ。

これはとても非論理的で、暴走するのであれば、お守りなんかに頼るなよと言いたいし、お守りを付けるのであれば、もう少しゆっくり走ってくれよと言いたくなる。

ところが、日本の暴走族は、お守りを付けて、暴走して、初日の出を見に行くのだ。

こんな国に生まれて良かったと思う。

また、「祈り」というコミュニケーションは、音楽を聴いているときにも感じることがある。

なぜ、私たちは歌を歌うのか、そして聴くのか。

音楽というのは、コミュニケーションの1つの手段だと思う。

そうだとしたら、歌手は、誰に向けて歌っているのか、誰が聴いているのかということが1つのポイントになってくる。

どんな歌でも、歌詞を読めば、誰に向けて書いたものなのかは、なんとなく分かると思う。

ただ、その歌を実際に歌っている歌手は、その特定の誰かに向かって歌っているわけではない。

ライブでも音楽番組でも、歌手は不特定多数の人たちに向けて歌っているように見える。

そして、ファンや大勢の人たちが聞いているように思える。

でも、そうとは限らない。

街を歩いていたら、BGMで音楽が流れてくることがある。もちろん、それは録音したものだ。

誰に向かって歌っているのか、誰が聴いているのかを考えてみる。

そうすると、歌手は目に見えない相手に向かって歌っているということに気付く。

こうなると、山や空や海に向かって歌っているようなものだ。

それは、裏を返せば、山や空や海が聴いているようなものだ。

もっと言えば、歌手は自分自身に向かって歌っているようにも思えてくる。

自分で、自分の声に耳を傾けているようにも思える。

そういう意味で、音楽は「祈り」に近いものなのではないかと思う。

そして、そういう視点で音楽を聴いていると、浜崎あゆみにしても、安室奈美恵にしても「祈り」のように聞こえてくる。

「祈り」というのは、誰に向けて言っているのか、誰が聞いているのかが曖昧だと思う。

逆に言えば、曖昧だからいいのかもしれない。

自分で自分の心に耳を傾けるからだ。

ただ、ここ数年で祈る人というのは少なくなってきたのかもしれない。

人は、物事に正解があると思うと祈らなくなる。

学問が発達してきて、理論が確立されてくると、どんなことにも正解があると思うようになり、祈らなくなる。

トレーニングにも正解があると言う人が出てくる。

正解がないものにまで、正解があるみたいなこと言うのだ。

こういうトレーニングをしなければいけない。ああいうトレーニングをしなければいけない。

速く走れるようになるか、ならないかよりも、走ってる本人が楽しいか、楽しくないかの方がよっぽど重要だと私は思う。

走ってる本人が、そこそこ精神的に安定してたら、どんなトレーニングしてもいいのだから。

トップアスリートたちが付けているネックレスにしても、貼っている魔法のテープにしても、「祈り」の延長線上にあるものだと思う。

勝負事には正解がない。

祈らないと苦しくなる。
何かを信じることが大事なのだ。

だから、ツラいときは祈ればいい。

お守りを買ってきて、付けて走ればいい。

そうすることで、運も引き寄せることができるかもしれない。


ただ、「勝負は時の運」とはいうものの、ひとつだけはっきり言えることがある。

これは、私のチームメイトが教えてくれたのだが、

偶然に勝つことはあっても、偶然に負けることはない。

失敗の裏には、必ず足りなかったものがあるはずなのだ。

勝った負けたで一喜一憂する必要はない。

そこから何を学びとるのかの方がよっぽど重要だと思う。

いただいたサポートは、アイシングの財源にしたいと思います。