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イケメン理論

世の中の男性は、大きく2つのタイプに分けることができる。

「イケメン」と「そうでない人(=非イケメン)」である。

ランナーがより速く走れるようになりたいと思うように、男性なら少しでもカッコよくなりたいと思うものだ。

それは、RPGゲームで冒険を有利に進めるために、少しでも強い武器を手に入れようとするのと同じで、人生を楽しく有意義なものにしたければ、イケメンを目指すに越したことは無い。

幼稚園児から、小学生、中学生、高校生、大学生、社会人になっても、中年になっても、ひょっとすると老人に至るまで、男はずっと「モテたい」というとんでもなく太いテーマと格闘している。

そんなことからも、男性の美の追求における終着点は「イケメン」と言っても過言ではないのかもしれない。

中には、イケメンになることがそんなに大事なことなのかと反論する人もいるかもしれない。

しかし、そういう人に限って、外見を磨く努力をせずに、中身を見て欲しいと言うのだが、それは奢りと甘えである。

もし、スーパーマーケットでほこりだらけの商品が売られていたとして、「この商品はとても良いものですので、ぜひ買ってください」と言われたとしても、「じゃあ買ってみよう」とはならないし、多くの人が「ナメてんのか?商売する気あるのか?」と思うだろう。

やはり、現状を打破するためには、イケメンになるしかないのだ。

イケメンの定義

では、「イケメン」とはどのような状態を示すのだろうか。

これが結構難しい。

それは、一般的に世の中で使われている「イケメン」という言葉そのものが曖昧であり、「イケメン」の定義は、人によっても、国や地域によっても、時代や年齢層、価値観によっても異なるからだ。

しかし、「イケメン」の定義が分からなければ、イケメンを目指すこともできないし、当然イケメンにもなれない。

広辞苑でのイケメン

私は、昔から「分からないことは辞書で調べなさい」と言われて育ってきたので、何かわからないことがあったときは辞書をひくことにしている。

そこで、広辞苑を引いてみたところ、「いけ面」という単語を発見したのだが、そこには次のように書かれていた。

〜いけ面〜
(「いけている」の略「いけ」と、顔を表す「面」とをあわせた俗語か。多く片仮名で書く) 男性の顔かたちがすぐれていること。また、そのような男性。

<参照:広辞苑(第六版)岩波書店 >

これを読んで、多くの人はこう思ったのではないだろうか。

「あれ?イケメンって”イケているメンズ”の略じゃないの?」

そう、「イケメン」の「メン」は「メンズ」の略ではなく、広辞苑では「面」が由来とされているのだ。

これには私も驚いた。

しかし、よくよく広辞苑を読むと、「顔を表す「面」とをあわせた俗語か。」と書かれている。

ここで重要なのは「俗語か?」という部分だ。

これは、「イケメン」の定義は不明確な部分が多く、NHKがプロジェクトXで「日本一の辞書」と崇めた広辞苑でさえも語源や定義が分からないということであり、それと同時に「メン」の解釈が広がったということでもある。

イケメンタル

もし、イケメンの「メン」が「メンズ」「面」であるとするならば、イケメンかどうかは日頃の努力ではなく、生まれ持った顔立ち、つまり先天的な要素によって決まってしまうということである。

これだと、非イケメンはどう頑張ってもイケメンになれないわけだが、ごく稀に、見た目が普通なのにイケメンと呼ばれるケースがある。

それが、「メンタル」を由来としたイケメン(=イケメンタル)である。

イケメンタルは、初対面の相手に会ったときに「この人、イケメンじゃないな」と思われてしまう前に「髪の毛がキレイ」とか「ネイルがキレイ」などと相手が喜ぶことを言って、好感度を一気に高めてしまうのだ。

人は自分を褒めてくれる対象を悪く評価することに抵抗が生じやすい。
その結果、イケメンと見做されるのである。
瞬発力と洞察力、そして抜群のセンスがあれば、誰でもイケメンになれる可能性があるということだ。

イケメン(いけ面)のタイプ分け

イケメンには、イケメンタルのような解釈もあるが、やはり主力と言われるイケメンは、いわゆる「いけ面」だろう。
しかし、そんな「いけ面」にも複数の種類が存在する。それについてまとめてみたい。

フルタイム型イケメン

時代や流行に関係なく、どの時代においてもどの世代からも「イケメン」と呼ばれるイケメン、それが「フルタイム型のイケメン」である。

例えば、30年前くらい前のアイドルの写真を見たとき、それが現代においてもカッコイイと評価されるのが、このフルタイム型イケメンである。

しかしながら、フルタイム型イケメンは先天的な要素が大半を占めており、日頃の努力でどうにかなるものではない。

リアルタイム型イケメン

その時代の流行やスタイルにより、一時的にイケメンとみなされるのが「リアルタイム型のイケメン」である。

イケメンには「流行のサイクル」のようなものがあるのではないかという説がある。ファッションに流行のサイクルがあるのと同じで、イケメンにも時代のサイクルがあったとしてもおかしなことではない。

テレビで昔のなつかし映像が流れたとき、「当時はこれがカッコイイって言われていたのにな」というのがリアルタイム型イケメンの典型例である。

また、男性の顔のタイプの表現方法として、塩顔、ソース顔、しょうゆ顔という言葉があるが、これもリアルタイム型イケメンを表現していると言ってもいいだろう。

ちなみに、最近※のトレンドは塩顔である。
(※この記事は、2018年に書いたものをリメイクしている。)

つまり、現在における「リアルタイム型イケメン」は塩顔の傾向が強いということになる。

では、具体的には「塩顔」というのは、どのような男子か。

芸能人で例えるなら、星野源が代表格であり、アスリートなら羽生結弦が代表格と言えるだろう。

ニッチなイケメン

どのような状態がイケメンなのか、どこからどこまでがイケメンなのかと言う基準はどこにもない。ただ、世の中に「イケメン」と呼ばれるメンズがいることは確かであり、周りの人たちがイケメンと言えば、そのメンズはイケメンなのである。

これは、集団の中である一定の割合の支持を得られれば、その人は「イケメン」であるということを意味しているのではないだろうか。

つまり、100人の集団を対象にアンケートを実施して、一定数の人がイケメンだと見做せば、その人はイケメンということになる。

<イケメンの基準(例)>
100人中60人以上 → そこそこイケメン
100人中70人以上 → イケメン
100人中80人以上 → 超イケメン
100人中90人以上 → キングオブイケメン

この基準を見ると、100人中60人がイケメンだと見做せば、そこそこイケメンということになる。

では、10人ならどうだろうか。

100人中10人がイケメンだと見做す人というのは、逆に言えば100人中90人はイケメンではないと見做しているので、決してイケメンとは言えない。

ただ、集団の10%にウケていることは事実であり、一部の限られた人からは需要があるということになる。

いわゆる、ニッチな需要というものだ。

「ニッチ(niche)」とは、もともとは建築物のくぼみや隙間といった意味の建築用語であり、既存の商品やサービスでは満足できない特定の消費者をターゲットとした商品やサービスのことを指していて、規模は小さくとも一定以上の需要があると言われている。

具体的には、マニア向けのグッズやスポーツカーなどがニッチな商品やサービスの一例である。

つまり、世の中で一般的にイケメンと言われているようなメンズでは満足できない少数派の需要を汲み取ることで、ニッチなイケメンになれるのである。

100人中90人がイケメンではない(=非イケメン)と見做しながらも、残り10人の「私は好きだけどね」という価値観を汲み取っていくことで、特定の集団からイケメンと見做されるチャンスがあるのだ。

市場の規模はそれほど大きくないが、これは非イケメンにとって可能性でしかない。

従来のイケメンたちが参入することができなかったマーケットをターゲットに一発逆転を狙っていくことで、イケメンへの道が開かれるかもしれない。

歌が上手いイケメン

歴史を過去に遡り、平安時代にイケメンと呼ばれたのはどんな人だったのかを考えてみたい。

当時、イケメンと呼ばれていたのは、在原業平(ありわらのなりひら)という人である。

1200年ほど前の人であるが、ちゃんと肖像画も残っている。

彼こそが平安時代のイケメン、つまり日本の元祖イケメンの1人である。

「えっ、誰?」という人のために簡単に説明すると、あの源氏物語にも影響を与えた『伊勢物語』で主人公のモデルとして描かれているのが彼である。

在原業平は、伝説的なイケメンであり、かつ歌人という二大要素を兼ね揃えており、さらに賢くて感受性の高い男で、数々の名歌を残している。

彼がどれだけイケメンだったのかは、平安時代に書かれた男女の和歌を集めた「伊勢物語」を読むとよく分かる。

現代の常識では考えられないが、平安時代の貴族の恋愛は、ほとんどが「和歌」を中心としたものだった。

現代のように自由に男女が出会うことはできず、そもそも女性の顔は常に隠されていて、見ることもできなかった。

気になる異性がいれば、まずは男性が和歌を送り、女性が気に入ったら返事をするという特殊なシステムだったそうだ。

現代で例えると、LINEやメールしかない世界と思ってもらえばいいだろう。

その中でも、現代に語り継がれている名歌が『月やあらぬ』である。

身分の高い女性を好きになってしまった在原業平。
しかし、彼女は結婚相手が決まっていたため、成就することのない恋だった。彼女が姿を消して、彼女が住んでいた建物も取り壊されてしまい、思い出は何もなくなってしまった。

そして、翌年の春になって、建物の跡地にやってきた在原業平が、月が傾くまで横になって、彼女のことを思い出して歌ったのがこの歌である。

〜月やあらぬ 春や昔の春ならぬ わが身ひとつはもとの身にして〜

「伊勢物語 第4段」在原業平

月が見えるのに、もうあのときの月ではなくなってしまった。
春がくるのに、もうあのときの春ではなくなってしまった。
わたしはずっと、あのときのままなのに。

現代に、こんなメッセージが送られてきたら、「なんて素敵な人!!」となるか、「なんだ?このウザイやつは!!」と思われるか、どちらかだろう。

しかし、異性と会うことのないLINEやメールしかない世界だっただどうだろうか。

「なんて素敵な人!!」となる確率が高いような気がしなくもない。

また、在原業平は百人一首でも、元カノに捧げた想い出が描かれている歌を残している。
ある日、身分の高い元カノの屋敷に招かれて何年ぶりかで再会した在原業平、当然気楽に昔話をできるような立場ではない。
彼女に、人には言えない昔の2人の想い出を歌に残してほしいと頼まれて詠んだのがこの歌である。

〜ちはやふる神代もきかず竜田川 からくれなゐに水くくるとは〜

「古今和歌集」在原業平

はるか遠い昔、神々の時代でさえ、こんなことはなかっただろう。奈良の竜田川の流れが、舞い落ちた紅葉で、真っ赤に染まってしまうなんて。

これは、忘れられない元カノへの想いを歌っていると言われている。

神業的なセンスである。

このように、元祖イケメンの在原業平のように洒落たメッセージを送る男になることができれば、間違いなくイケメンと呼ばれるだろう。


「いい人」はイケメンではない

イケメンを目指す上で忘れてはならないのが、「いい人」にならないことである。

A「ねえ、彼の写真見せてよ。」
B「この写真の右の人なんだけど。」
A「え、いい人そう・・・」

これはファミレスにおける女子たちの会話の一例である。

彼氏や男友達の写真を見せ合うことは、女子にとっては年中行事の1つと言っても過言ではない。

やはり、仲のいい友人がどんなメンズとつながっているのかは重要なことである。

しかし、ここで1つ気になることがある。

それが、「いい人そう」というリアクションである。

一見、何の違和感もなく聞こえるが、私に言わせればこれはおかしい。

なぜなら、もし写真に写っているメンズが本当にカッコイイ人ならば、このような反応は起こらないからだ。

では、どうなるか。

「マジ?!超イケメンじゃん!」

と、素直にメンズのルックスを褒めちぎることだろう。

また、超イケメンとまではいかなくても、そこそこのレベルだったら「結構カッコイイね」などと言っておくのが女子たちの会話のルールであり、エチケットである。

つまり「いい人そう」という評価は、残念ながらお世辞を言うレベルにも達していなかったことを意味する。

冷静に考えてみれば、いい人かどうかを顔で判断できるわけがない。

ちょっと残酷だが、女子の評価がそんなに甘いものではないという現実を分かってもらえたことだろう。

カッコイイに代わるシブい

私たち日本人には、カッコイイわけではないけど、いい味を出していたり、落ち着いていたり、粋なものへの愛着と敬意を込めた言葉がある。

それが「シブい」だ。

華やかな美しさではなく、味のある美しさを良しとするこの言葉の懐は広い。

例えば、色なら派手でなく地味、明るくなく暗い、かといって真っ黒のようにくっきりしておらず中間的な色、つまり「きれい」とはいえないどちらかというとうす汚い色だ。

また、若い人のように元気で脂ぎってもいないが、落ちついていて風貌や言動に苦い刺激のある人のことを言ったりもする。

さらに演劇などの世界で、主役級の派手さや明るさはなく、あくまで脇役だが、特徴のない人物を堅実に表現して存在感を示す役者を「シブい」とか「枯れた芸だ」と高評価する。

つまり、人生経験が豊富だったり、業界の事情に詳しい、いわゆる「通(つう)」な人のみが持つ深みや味わいに対しての評価だと言える。

「カッコいい」を目指すことが難しい場合は、「シブい」を目指すことでイケメンを凌ぐことができるかもしれない。

A「ねえ、彼の写真見せてよ」
B「この写真の右の人なんだけど・・・」
A「え、めっちゃシブいじゃん!!」

これは、遠回しに「イケメン」と言っているようなものだろう。

そう、イケメンになるための要件は、「カッコイイ」だけとは限らない。
「シブい」という要件を満たすことで、イケメンとみなされることもあるのを覚えておきたい。

渋柿のようなどうしようもない味に逆転の価値を見出すという日本人独特の感性は、大事にしたいものである。

そして「いい人そうな男」になるくらいなら「悪そうな男」を目指そう。

「速さ」はカッコイイ

イケメンについては多くの課題が残されている。

どんなにオシャレでも、メンタルが素晴らしくても、洒落たメッセージを送ったとしても、イケメンかどうかは見た目や第一印象で決まってしまうことが多い。

やはり、先天的な要素というものは大きいのだ。

では、非イケメンにチャンスは無いのだろうか。

いや、そんなことはない。
私たちランナーにはイケメンになれる可能性が残されている。

それを紹介したい。

マラソンで先頭を走っていると、沿道の人から「速い」、「すごい」、「カッコイイ」と言われることがある。

先頭を走っているので、「速い」とか「すごい」というのは分かるのだが、果たして「カッコイイ」のだろうか。

これについては疑問が残るところだ。

ただ、いつの時代でも、速い乗り物というのは人気である。

小学生に人気のある乗り物の上位に来るのは、スポーツカー、新幹線、飛行機、ジェットコースターである。

この結果から読み取れることは、「速い」は「カッコイイ」に直結するということだ。

逆に、観覧車や気球のようなゆっくりとした乗り物はどうだろうか。
「楽しい」のは間違いないが、「カッコイイ」とされるかどうかは難しい。

つまり、「速く走れる」はイケメンになれる可能性を秘めているのだ。

冷静に考えてみたら、走っていると身体は絞れてくるし、絞れた身体を手に入れると、だんだん自分が好きになってくるものである。
そして、走力もアップして、新陳代謝が活発になり美肌にもなる。

加齢に逆らって肉体は進化してくるし、ストレスも解消され、心身ともに若返ってくる。

そして、「最近痩せたよね」とか「いい身体してるね」と褒められるようになると、自分自身に自信がつく。

その結果、コミュニケーション能力も向上して、異性にも積極的にアプローチできるようになるかもしれない。

そして、モテる。(もし、フラれたとしても絞れた身体があるという安心感が残る。)

それが、更なる自信につながる。
自信がついたら、より高い目標にチャレンジして現状打破。
そして、人間的にも成長を遂げる。
やればできるという想いから、自尊心が高まり、性格も明るくポジティブになっていく。

その結果、ポジティブな性格な人が周囲に集まってきて、気が付けばイケメンになっているのだ。

また、走っているというだけで、自制心が強くて自己管理能力が高いと思われるし、タイムマネジメント能力も高く、栄養管理もしっかりしていて、健康で丈夫そうに思われるので、仕事ができそうだなと思わせることができる。

このように、走ることによって最高の流れに乗ることができる。

そう考えると、もはや走らないという選択肢はないだろう。

最後に

冒頭にも書いた通り、世の中の男性の多くは、年齢を問わず「モテたい」というとんでもなく太いテーマと格闘している。

実際に私も、今までに「モテたい」という男たちにたくさん会ってきたし、私自身も「モテたい」ということにはそれなりにエネルギーを使ってきたと思う。

はっきり言えば、世の中の男性を動かす原動力は「モテたい」なのだ。

「モテたい」からサッカーをやる、
「モテたい」からバスケをやる、
「モテたい」からスポーツカーに乗る、
「モテたい」からバンドをやる、

結局、世の中のほとんどのことは「モテたい」というエネルギーが原動力になっている。

では、どんな男性がモテるのか?

実は「頼りになる人」だと言う。

「頼りになる」と「モテる」は、ほぼ同義である。
地位や才能、誠実、体格、資産、全てが「頼りになる」という結果から逆引きによって見えてくる。

大谷翔平がとてもモテるのは、彼には「頼りになる」全ての要素があるからだ。

「モテたい」からと言って、モテようと頑張ってはいけないのと同じで、「イケメン」になりたいからと言って、「イケメン」を目指してはいけないのだ。

イケメンを目指すのであれば、「頼りになる人」を目指そう。

それが、私からのアドバイスだ。

(※この記事は2018年に書かれたものをリメイクしています。)

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