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夢とか目標とか幸せとか

「あなたは何を目指しているの?」

と、聞かれることがある。

正直、何を目指しているのかを聞かれても、自分でもうまく答えることができない。

ランナーは、夢や目標を持って、それに向かって取り組んでいる人が多いと思う。

箱根駅伝に出たいとか、
どこかのマラソン大会で優勝したいとか、
5000mを13分台で走りたいとか、
フルマラソンで2時間20分を切りたいとか、

そして、そのためにはどうすればいいのかを考えながら走っているわけだ。

しかし私は、特に何か目指しているものがあるわけではない。

世の中では、夢や目標を持つことが美徳とされているところがあるので、そういうものが無い人は、モチベーションが低いように思われがちだが、決してそういうわけではないと思う。

私の場合、まず「夢とか目標」があるのではなくて、まず「事実」が先にあって、そこに後から「想い」が付いてくるというか、「事実」への解釈が「後付け」で起こっているのに過ぎない。

例えば、10000mの場合は、ずっと昔から28分台を目指してきたわけではなく、2016年の秋に走ったときに、29分03秒で走ることができたので、そのときから28分台が狙えると思うようになったのだ。

一般的な成功するための方法というのは、まず目標を決めるところからスタートすると思う。

そして、そこに向かって逆算して取り組んでいく。

でも、そうではない別の方法があってもいいのではないだろうか。

例えば、イタリアの天文学者のガリレオ・ガリレイは、天体望遠鏡を作って土星の環や木星の衛星を発見したわけだが、彼は土星の環や木星の衛星を見つけるために天体望遠鏡を作ったわけではないと思う。

あれは、天体望遠鏡を作って天体観測をしていたら、たまたま見つけてしまっただけだと思う。

だから、そこに目的は無かったはずだ。
天体望遠鏡はきっと面白いから作ったに違いない。

つまり彼の動機は、「欲望」というのか、「興味」というのか、「好奇心」に近いものだと思う。

そう考えると、夢や目標が無くても、走ることが好きで、自分のタイムを縮めることが面白くて走っているランナーがいてもいいと思う。

もちろん、正統派のスタイルではないので、行き当たりばったりだと批判されることも多いかもしれない。

しかし、「夢や目標」を持つことや、それを達成する義務なんて無いと思う。

チームがあったり、たくさんの人たちに囲まれていたり、期待を背負っていたりすると、目標を持ってそれを達成しないといけない義務みたいなものを背負ったつもりになる。

しかし、それは本来義務ではないはずだ。

なぜなら、そんなことに追われていたら、目標を達成しなければならないと思っていたら、その目標は、「人に見せるためのもの」になってしまう。

そういう「分かりやすくて、見えやすい目標」を追いかけても、それは本当に自分が追い求めているものではないことが多い。

「これができたら凄い」という誰かが作ったフレームに、自分を当て嵌めているだけに過ぎない。 

だから、考え方によっては、夢に向かって突き進むというのは、1つのダメなパターンということにもなる。

何事もないことでも、毎日続けていると、後で振り返ったときに、「ああ、あのとき頑張っていたな」と思えることの方が、よっぽど価値があると思う。

そういうものこそ、目指すべきことなのかもしれない。

これは、「幸せ」も同じで、「幸せ」は未来に対して追い求めるものではなくて、過ごしてきた過去に向かって、それがどうだったかを解釈するのだと思う。

だから、何を目指すか、動機は何かと聞かれたら、「面白そう」とか「自分を喜ばせたい」というような回答になってしまう。
私には、「好きでやっている」という事実しかないからだ。

そして、「好き」で行動できるというのは、良いことだと思う。
なぜなら、「努力」が無くても行動できるのだから。

あとは、それを積み重ねていけばいいし、結果は後から追いついてくる。

ただ、そんなことを言いながらも、無目的にやっているわけではない。
間違いなくどこかいい方向に向かってはいる。
そして、ちゃんと自分の興味がある場所に辿り着く確信もある。

自分の好きなところに、成り行きのように進んでいるように思われるかもしれないけれど、実際には、その時々で成果を出して、それをちゃんと発信しながら、最終的には、辿り着いた場所から、そこに辿り着いた経過をきちんと説明もできると思うし、自分自身のフレームを表現することもできるのだと思う。

ただ、それがどこなのか、何なのか、どういう型なのかが、今の自分にはよく分からないだけだ。

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