1日3食のぼくらはみんな「障害者」
やまゆり園事件から4年が経過し、先日ALS患者の嘱託殺人事件も起こった。この2つの事件に共通する「障害者」という存在は、自分たちから遠いものと思っている人が多いように思う。でもぼくは、障害という概念はもっと広いという認識が必要だと思う。
仮想の世界を想像してみる
あなたがある仮想の世界に引っ越したことを想像してみて欲しい。その世界の人はみんな、毎日朝の1食しか食べなくてもお腹が減らなかった。だから、職場では昼休みなんてものは設定されていないので、3食食べないといけないあなたはお昼頃からお腹が鳴り続け、集中力が切れてしまう。そんなあなたの仕事の効率は悪く、会社での評判も良くないだろう。
また、あなたは1日何度トイレに行くだろうか。おそらく、5回以上はいくだろう。でも、その世界の人が、トイレは週に1度でいけばいい体質であったとしたら、おそらく、トイレが設置されるのは家の中だけ。職場やショッピングモールには設置されず、あなたのような毎日5回もトイレに行かないといけない障害者のためのトイレを利用することになる。
そしてその世界ではみんな指が6本あったとしたら、指が5本しかないあなたは、市販の手袋もつけられず、キーボードの操作が遅く、握手もうまくできないあなたは障害者となるかもしれない。
そもそも障害者とは
話が周りくどくなってしまったが、ぼくが考える障害というものは
「相対的なもの」で「少数派を指す」
ということである。
法律上「障害者」と定義されていないだけで、たくさんの人がいろいろな障害を持っているのだ。だれにでも苦手なもの得意なもの、できることできないことがある。そのうち、みんなができて自分だけできないものは、障害なのである。ただ、障害者と呼ばれないのは、あくまでも法律上の話だけだ。
何故こんなことを考えたかというと、やまゆり園事件の容疑者が、「障害者は生きる価値がない」という趣旨の発言していたからである。
彼こそ、そんな偏屈した考え方しかできなくなってしまった「障害者」なのだ。
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