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(2020年6月19日凍結)日本語で学ぶアメリカ史 第七章(教材:David M. Kennedy and Lizabeth Cohen, "The American Pageant'' 16th ed.)

注:本プロジェクトは2020年6月19日に凍結しました。以下はそれ以前の文章です。

"The American Pageant" 16版 pp.117-134
第7章「革命への道:1763-1775」

※最初の数節は(7-1-○)と番号を振り分けていますが、ツイート時点でつけていなかったため、ここで追加しています。(7-2-○)と(7-3-○)は既につけていたので、ここでは追加していません。

・序 (7-1-1)
1763年、七年戦争に勝利したイギリスは北米の広大な領土を手にしました。しかし、一万もの軍隊をアメリカに駐屯させるのは非常に金がかかりました。そのためイギリスはアメリカ植民地人にその負荷を担わせる方針に転換。このことがアメリカ人というアイデンティティを生み、革命の遠因となります。
 しかし、独立戦争は不可避ではありませんでした。むしろ入植以来、植民地の本国の経済・軍事・文化の結び付きは強まる一方だったのです。また、革命家達は「イギリス人の権利」を主張するに留まり、イギリスからの分離独立を唱えたのはかなり後になってからでした。しかし、経済を巡る争いから始まった一連の論争は植民地人と本国人の政治的原理に関する相入れない断絶を明らかにしてしまうのでした。 

・革命の深源(7-1-2)
18世紀半ばまでにアメリカ植民地人は二つの観念を生み出します。一つは後世の歴史家が言う「共和主義」でした。古代ギリシア・ローマを範とするこの思想は全市民がすすんで私利私欲を共通善に従わせる社会を公正とみなしました。市民の質、すなわち無私の精神、自足、勇敢さ、市政参加により、共和主義社会の安定性や権威の強さは決まることになります。この定義から、共和主義は貴族制と君主制を否定しました。
 二つ目の観念は「急進派ホイッグ」というイギリスの政治評論家から生まれました。これは議会の選出代議員よりも君主の恣意的権力の方が自由の脅威とする立場でした。急進派ホイッグは大臣達の叙任権(patronage)や賄賂を腐敗だと非難し、市民にはこの腐敗に注意せよ、闘争の末勝ち取った自由を剥ぎ取らんとする陰謀を常に警戒せよと説きました。急進派ホイッグをよく読んでいた植民地人は共和主義思想も併せて、自己の権利に対する脅威に敏感になっていたのです。
 植民地の生活も重要です。領主がおらず、財産所有と政治参加が比較的容易だったこと。植民地人は本国の官憲に邪魔されず自前でやってきたこと。こうした生活に慣れていた植民地人が本国から厳しい統制を通告されて衝撃を受けたのは当然だったでしょう。

・重商主義と植民地の不満(7-1-3)
アメリカ植民地のうちイギリス政府が作ったのはジョージアだけでした。にも関わらず、政府は「重商主義」を唱えて植民地支配を正当化しました。重商主義者は富こそ力であり、金銀が国庫にどれだけあるかでひいては軍事、政治の力も決まると考えました。ここでは輸出を増やし輸入を減らすことが目指されますが、植民地は原材料を輸入せずとも得る手段として、また製品の輸出先として機能し、有益でした。
 イギリスは植民地人を大なり小なり小作人扱いしていました。タバコ、砂糖、帆など本国が必要とする製品を供給し、羊毛製衣類やビーヴァー帽は作らない。イギリスからだけ工業製品を購入する。自給自足だの独自の政府だのとんでもない、という具合です。
 時折、議会は重商主義体制を制御する法案を制定しました。典型例が1650年航海法です。オランダ船のアメリカへの輸送事業を邪魔するため、この法律はアメリカに出入りする商船をイギリス(及びアメリカ)船に限定しました。その後も、アメリカ向けのヨーロッパ製品はまずイギリスを通す法案ができ、ここで関税が取られイギリス人は中抜きができました。他にも、アメリカ商人は「列挙された」商品、とりわけタバコをイギリスだけに販売せよ、他国の方が高く売れる場合も例外でないとする法律もできました。
 植民地では通貨不足も発生しました。植民地人は本国に売るよりも多く買っており、差分を硬貨で補ったからです。西領・仏領西インド諸島との違法貿易で得た現金があっても不十分でした。日常的な支払ではバターや釘、羽毛などさえ使われました。
 植民地人は紙幣の発行で対応しましたがまもなく価値が下落し、いよいよ通貨問題が深刻化します。イギリス商人や債権者に押され、イギリス議会は植民地の立法府が紙幣を発行したり破産法を制定したりするのを禁じました。アメリカではイギリスが自国の商業利害のため自分達が犠牲にされていると不満が生まれてきました。
 王室にも植民地議会の立法を無効化する権限がありました。8563個の立法のうち469個が無効化されました。1割にも満たない実例数ではありますが、植民地人はこの権限自体に憤ったのでした。

・重商主義のメリットとデメリット(7-1-4)
こう見るとイギリス重商主義は自分勝手で抑圧的に思われますが、実のところ1763年まで航海諸法が耐えがたい負担になることはありませんでした。厳しく実施されなかったからです。アメリカ商人は規制の抜け道を見つけ、ジョン・ハンコックのように密輸で財をなす者も出ました。
 重商主義は恩恵もありました。イギリス政府は本国の競合勢力による反対にも関わらず、船の部品を製造した植民地人に寛大な報酬を与えました。ヴァジニアのタバコ産業はイギリス市場を独占し、本国の製造者を一掃しました。また、世界有数の海軍を誇るイギリス軍に守ってもらえる、それも一銭たりとも負担せずにーそんな恩恵もあったのです。
 それでも重商主義は植民地人にとって負担でした。企業精神は奪い取られ、本国仲介業者や債権者への依存状態も生まれました。そもそも重商主義は屈辱的に思われました。アメリカは永遠に経済的な成人になることを許されないからです。つまり、イギリスという親はアメリカという子が大人になるのを認められなかったのでした。

・印紙法騒動(7-1-5)
七年戦争の勝利でイギリスは世界屈指の巨大な帝国になりましたが、負債も1億4千万ポンドと凄まじく、その半分近くがアメリカ植民地の防衛に費やされました。それがイギリス政府にアメリカ植民地との関係を再編させました。
 1763年、ジョージ・グレンヴィル首相は航海諸法の厳格な実施を海軍に命じ、植民地人の怒りを買いました。翌年にはいわゆる「砂糖法」が制定され、王室のため植民地に課税する法律を議会が初めて通したことになりました。とりわけ西インド諸島から輸入した外国産砂糖への関税上昇が注目されます。植民地人の激しい抗議を受けて関税率は下げられ、一時不満は収まりました。ところが1765年、「宿営法」の制定で不満が再燃します。特定の植民地にイギリス駐在軍への食料と宿営地を供するよう命じたからです。
 そして同年、最も嫌われた「印紙法」が制定されます。新設した軍隊を賄うのが目的でした。同法は印紙、つまり紙への印章の捺印を命じました。この印章は納税済という意味です。同法は商業文書や法律文書-ゲーム用カード、パンフレット、新聞、公文書、積荷目録、結婚証明書-に加え、およそ50品目にわたる商品の販売書類に印章を捺印するよう規定していました。
 グレンヴィルは印紙法を合理的で正当と考えていました。イギリスではすでになじみ深い税目で、アメリカ植民地人にも自身の防衛費を払うよう頼んでいるだけだったからです。実際、イギリスでは既に二世代に渡ってアメリカよりも重い印紙税を耐え忍んでいました。
 それでもアメリカ人には宿営法も印紙法もグレンヴィルによる攻撃と映りました。ただ金を取られるだけでなく、アメリカで当然視されてきた、本国から離れていることで得られた自由を攻撃しているようにも見えたのです。こうして、植民地議会の中には宿営法に従わないところや、要求量に到底満たない供給しか行わないところも現れました。
 グレンヴィルの立法は植民地人のイギリス人としての基本的権利を侵害しているとみなされました。砂糖法も印紙法も違反者を「海事裁判所」で裁くと規定し、ここでは陪審が認められないことから非常に嫌われていました。無罪を立証できない限り有罪とされる裁判で、立証責任は被告人側にありました。陪審制と「疑わしきは罰せず」の原則はイギリス人なら誰でも得られる古くからの特権でした。当然、アメリカ植民地人も。
 そもそも、フランス軍を追い払い、ポンティアック戦争(1763-65)でインディアン諸部族にも勝利したのに、今更アメリカにイギリス軍が必要なのかという疑問もありました。もしや反抗的な植民地人を服従させるのが真の目的ではないか?アメリカ植民地人は急進ホイッグの影響もあってあらゆる権威を疑うようになっていました。歴史的に享受してきた自由を守ろうと、彼らは激しく印紙法を非難したのでした。
 そこから「代表なくして課税なし」という標語が生まれます。ただし、印紙法に最も激昂した港町や東部低地帯の町は、僻地の開拓者についてその代表性を拒んでいたという皮肉もありましたが。それはともかく、植民地人はこの原則を声高に掲げます。
 アメリカでは「立法」と「課税」が分けて考えられていました。この考えではイギリス議会にイギリス帝国全体の問題に関する立法権を譲歩します。例えば貿易規制などです。しかし、アメリカ植民地人が代表されていないイギリス議会がアメリカに課税する権利はないと断固拒否しました。課税できるのは自分達が選出した植民地議会だけだと。遠く離れたイギリス本国が課税するのは一種の強奪であり、神聖なる財産権の侵害だとされました。
 グレンヴィル首相はこうした主張を馬鹿げていると一蹴します。彼曰くイギリス議会の権限は至高にして不可分であり、ともかくアメリカ植民地人も代表されているのでした。この代表理論を「実質的代表」といい、イギリス議会の議員は全イギリス臣民を代表しているのであるから、イギリス議会の議員に投票したことがないアメリカ植民地人も代表されているとされました。
 アメリカ人にはたまったものではありません。なお、実のところ、本当にイギリス議会でアメリカ植民地人が代表されるのは悪手でもありました。イギリス下院に送れる代表数はたかが知れており、であれば正当に重い課税を実現されかねなかったからです。
 ともあれ代表なくして課税なしという論理は至高のものとして主張されました。これに対しイギリスは「立法」と「課税」の権限が可分なことはないと回答します。そうなるとアメリカ植民地人はイギリス議会の権威そのものを一切否定し、自身の政治的独立を考えるしかなくなります。こうした論理の連鎖が革命へと繋がっていきました。

・印紙法の強制的撤回(7-1-6)
植民地人の不満は様々な形をとりました。中でも顕著な例が1765年の「印紙法会議」で、9つの植民地から27人の代表がニューヨークに派遣されてきました。この会議は植民地人の権利と不満について声明を発し、国王と議会に印紙法の撤回を求めました。
 印紙法会議は本国に無視され、アメリカでも注目されませんでした。しかし、アメリカの各植民地の間に存在した猜疑心を融解することにもなりました。植民地間の団結への重大な一歩だったのです。
 より影響があったのがイギリス製品の「輸入拒否協定」が急速に広まったことでした。自家製の羊毛下着が流行りとされ、ラム肉が控えられました。この協定はアメリカ植民地が共通の行動をとるという、最初の自発的団結となりました。傍観していた人々も大勢がボイコットに参加するようになりました。
 時には暴力沙汰もありました。「自由の息子達」や「自由の娘達」として知られる熱心な人々が「自由と財産を守れ、印章は拒否せよ」と叫び、輸入拒否協定に従わない者にこれを強制しました。熱々のタールを塗り付け、羽毛で覆わせるのです。彼らは不人気な官職者の家に押しかけて金を没収し、印紙法の執行役人を模した人形を自由の柱に括り付け縛り首にしたのでした。
 こうして徴税システムが回らなくなりました。印紙法が実施されるまさに当日、執行役人は全員辞めさせられ、誰も印紙を売ろうとはしませんでした。公然と法律が無効化されたのです。
 イギリスは痛手を被りました。当時アメリカはイギリスの輸出品の約4分の1を購入しており、イギリスの海運業の半分がアメリカ貿易関係でした。輸入拒否協定はイギリスに打撃を与え、失業者が大勢出ました。こうして本国でも印紙法の撤廃が盛んに唱えられました。
 議会は荒れに荒れ、ようやく1766年に印紙法の撤廃を決定しました。ニューヨークでは喜びから国王ジョージ3世の像が建てられました。しかし、議会は「宣言法」も制定し、「いかなる場合であれ」植民地を「縛る」権利があると再確認しました。こうして原理原則のレベルからイギリスとアメリカは後に引けなくなりました。

・タウンゼンド茶税とボストン「虐殺」
イギリスではチャールズ・タウンゼンドが内閣の支配権を握りました。彼は1767年、「タウンゼンド諸法」を通します。ガラス、白鉛、紙、塗料、茶への輸入関税が注目されます。彼は内税と外税という区別を設け、アメリカの港でも支払可能な間接的関税に仕立て上げました。これは印紙法と異なる点です。しかし、植民地人にとってはどんな税金だろうと代表なき課税は敵でした。とりわけ茶税が嫌われました。100万人が一日に2回飲んでいたと言われているからです。

タウンゼンド

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 タウンゼンド諸法は集めた税金を、国王に仕える総督や判事の給与に使うとしていました。これは本国にとっては長く放置されていた問題でした。しかし、植民地人は彼らの財布を今まで握っていたので、タウンゼンドはこの権限も奪う気だとみなしました。そして、1767年ニューヨーク植民地議会は宿営法に背いたとして停止させられました。
 輸入拒否協定が再び盛り上がりましたが、前回より効果は弱くなっていました。印紙法よりは軽く、間接税だったのであまり脅威とみなされませんでした。また、茶の密輸がとりわけマサチューセッツで盛んとなっていたのも一因でした。これが安かったのです。

輸入拒否協定を掲載する新聞、1768

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 イギリスは法と秩序の崩壊を見てとり、1768年ボストンに2連隊を送りました。彼らは当然ながら植民地人に嫌われました。そして1770年3月5日、町人約60名がイギリス軍兵士10人に雪玉を投げつけました。イギリス製品ボイコットに従わない商人への抗議運動が十日前にあり、その時11歳の少年が射殺されたので町民に怒りが溢れていました。恐らく命令もない状態で兵士達は発泡を開始、11人を死傷させました。これが「ボストン虐殺」と呼ばれる事件です。死者の一人が当時「ムラート」とみなされた人物で、この町民達を導く存在でした。どちらにも非があるということで、その後の裁判で虐殺の罪に問われた兵士は二人だけでした。ちなみにこの時兵士を弁護したのが将来の大統領ジョン・アダムズです。

ボストン虐殺版画、1770

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ジョン・アダムズ

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ボストン虐殺裁判記録、1807(画像からリンク)

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・連絡委員会の煽動
1770年、ジョージ3世は自身の権力を高めようと、周囲をイエスマンで固めました。その筆頭が首相のノース卿でした。

ジョージ3世

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ノース卿

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 タウンンゼンド諸法は徴税に失敗し反乱の機運を高めただけでした。一年の税収はわずか295ポンドだったところ、植民地駐在軍は17万ポンドもの支出でした。輸入拒否協定は本国製造業者を苦しめていました。ノース卿内閣は諸方面の圧力からタウンンゼンド諸法を撤廃しました。しかし、最も忌々しい茶税はイギリス議会の植民地に対する課税権を示すため残されました。
 様々な出来事が植民地人の怒りを買いました。例えば航海諸法を執行する役人が倍増されました。ジョン・アダムズの従兄弟でボストンの技師、サミュエル・アダムズのプロパガンダも人々を煽りました。政治一辺倒な男で、友人達が適切な衣服を買ってやらねばならない有様でした。ですが植民地の権利には非常に敏感で、彼は「訓練された暴徒」に強く訴えかける力がありました。

サミュエル・アダムズ

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 彼はマサチューセッツに「連絡委員会」を設立しました。1772年ボストンに最初の委員会を設すると、まもなく80もの委員会が同様にマサチューセッツ内で設立されました。主な目的はイギリスに抗議し続ける士気の維持でした。
 次は植民地間の連絡が課題になりました。1773年、ヴァジニア下院議会は常設連絡委員会を設置。まもなく全植民地が中央委員会を置き、植民地間の思想と情報が交換されました。こうした組織が第一回アメリカ大陸会議へと発展していきました。

・暗雲たちこめるボストン
 意外にも、1773年までに反乱の機運は弱まってきました。輸入拒否協定は弱体化していました。また、茶税を課された茶をしぶしぶ飲む植民地人が増えつつありました。その方が密輸茶どころか本国の茶よりも安くついたからです。

茶密輸風刺画(画像リンクあり)

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 しかしこの年、情勢は変化します。その頃、1700万ポンドもの茶を余らせていたイギリス東インド会社は破産の危機にありました。そうなればイギリス政府は大きな税収源を失ってしまいます。そこで政府は同社にアメリカの茶事業の独占権を与えました。今や東インド会社は茶税を課された茶より更に安価な茶を販売可能になりました。ところがアメリカ植民地人は喜ぶどころか怒り出します。安い茶を餌に、忌々しい茶税を心から受け入れさせようと策略を仕掛けているに違いないと。
 もしイギリスが法を額面通りに実施すれば、衝突は不可避でした。そして運命の分かれ道、イギリスは法の執行に踏み切りました。こうして植民地側も怒りが燃え上がりました。フィラデルフィアとニューヨークでは茶の積まれた船をそのままイギリスに追い返しました。チャールストンでは脅された地元商人が運送を拒絶したため、役人が関税不払の名目で茶を押収しました。
 ボストンではイギリス側も抵抗しました。マサチューセッツ総督トマス・ハッティンソンは印紙法の際に抗議者に家を焼かれたことがありましたが、今回は尻込みしませんでした。彼は茶税を正しくないと認めたものの、それ以上に植民地人が法を破る権利はないと主張しました。彼は東インド会社の船に対し、積荷を下ろすまで出航を禁じました。植民地人は当然反発します、また、ハッティンソンの政敵が彼の私的な書簡を暴露したのも反感を高めました。「いわゆるイギリス人の自由を縮小すること」が植民地の法と秩序の維持に必要だと書かれていたのです。
 1773年12月16日、約100人のボストン住民がインディアンに扮して船に侵入、342箱もの茶を海に投げ捨てました。これが有名な「ボストン茶会」事件です。大勢の野次馬がその様子を見て喜びました。茶は貧富を問わず広く消費されており、植民地人が集結できるシンボルでした。

ボストン茶会事件平板画、1846

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 東海岸の人々は上下共に賛同しました。ボストン住民は茶葉を団結して燃やしました。一方保守派は私有財産の破壊で法律違反だと非難しました。ハッティンソン総督はアメリカ植民地に嫌気がさして帰国、二度とアメリカに戻りませんでした。イギリス政府は無礼な植民地人をしばき上げる以外に考えを持っていませんでした。この時点でいくらか自治権を与えていれば独立を防げたかもしれないのですが、イギリスも既に態度が硬化していました。もはや事態は悪化する一方でした。

ハッティンソン

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ハッティンソン宅炎上(画像リンクあり)

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・議会、「耐え難き諸法」を制定す
イギリス議会はボストン茶会事件に対し、火に油を注ぐ措置をとります。1774年、議会はマサチューセッツ全般を、とりわけボストンを懲罰する一連の法案を大多数の賛成で通しました。
 中でも劇的なのがボストン港法でした。同法は茶会事件で損害された財産が賠償され秩序が回復されるまで、同港の封鎖を命じました。このように「耐え難き諸法」(アメリカでの呼称)はマサチューセッツ植民地の勅許を受けた権利を多く剥奪しました。以前までと異なり、任務中に植民地人を殺害した役人は本国で裁かれることになり、疑り深い植民地人は無罪放免にするためだと考えました。とりわけ新宿営法はボストン住民を憤らせました。地元当局にイギリス軍が私宅だろうとどこでも駐屯できる権限を与えたからです。
 同年、さらに「ケベック法」が制定されました。本来「耐え難き諸法」と無関係な法律でしたが、アメリカ植民地人にはイギリスの制裁に映っていました。この法律はカナダに住む6万人ものフランス系住民をどう統治するかという長年の議論に対する回答であり、それ自体は優れたものでした。フランス系住民はカトリック信仰を許され、彼らの慣習や制度の存続も認められました。その慣習・制度の中に代表制議会や民事陪審制はありませんでした。また、ケベックの境界が南に拡大し、オハイオ川で再規定されました。

ケベック法文書

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英領北米植民地地図、1777。上辺部緑がケベック領

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 これはアメリカ植民地人にとっては恐るべきことでした。「耐え難き諸法」は個別に狙い撃ちする内容でしたが、ケベック法はアメリカ植民地の多くに影響し得るものでした。非代表制議会と非陪審制が慣習の住民は危険な先例に映りました。土地投機にも影響がありました。ケベックの境界再編により、アレゲニー山脈より先の広大な土地がなくなったからです。また、境界再編はカトリック勢力の拡大にも見えました。

・流血
イギリス抵抗派はマサチューセッツの事態に同情していました。確かに茶会事件は間違っていたかもしれないが、この懲罰もやり過ぎではないか。ボストン港法の実施日には植民地の各地で半旗が掲げられました。遥々サウスキャロライナから米を運送して応援する者もいました。
 「耐え難き諸法」への反応としては1774年の「第一回大陸会議」の召集が最も目覚ましいものでした。フィラデルフィアにて植民地の不満を訴える方法を検討するのが目的でした。ジョージア以外の12の植民地が計55人の代表を送りました。その中にはサミュエル・アダムズ、ジョン・アダムズ、ジョージ・ワシントン、パトリック・ヘンリーがいました。この場は植民地間の対立を緩和する効果もありました。
 第一回大陸会議は1774年9月5日から12月26日まで開催されました。立法機関というより諮問機関であり、だから議会(congress)というより会議(convention)でした。ここではジョン・アダムズが大活躍。彼は参加者を雄弁に説得し、穏健派の自治権案を辛うじて否決させるに至りました。この会議は権利宣言など重大な声明書を発し、他の植民地、国王、イギリス人に訴えかけました。

第一回大陸会議開催地

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 第一回大陸会議の最も重要な点は「同盟」(Association)の設立でした。これは輸入拒否協定よりも更に急進的な、完全なるイギリス製品のボイコットを呼びかけました。輸入しないだけでなく、輸出、消費もしないというのです。ただし、独立はまだ主張しておらず、あくまでイギリス議会による悪辣な課税を撤回し、元の関係に戻りたいということでした。聞き入れて貰えるならそれでよし。そうでなければ、1775年5月に再結集することになっていました。

「同盟」文書複製

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 1775年4月、ボストンのイギリス司令官は近郊の「レキシントンとコンコード」に軍隊を派遣しました。植民地の火薬庫の確保と、「反乱」の首謀者サミュエル・アダムズとジョン・ハンコックの捕縛が目的でした。レキシントンでは現地の「ミニットマン」が即時解散を拒絶すると発砲され、8名の植民地人が死亡。これは戦闘というより「レキシントン虐殺」と言うべき代物でした。イギリス軍はコンコードに進軍し、ここで植民地人によって後退を強いられました。イギリス軍は困惑したままボストンへと撤退。約300人の被害を出し、その内70人ほどが死亡。いよいよ戦争の始まりでした。

ハンコック

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レキシントンの戦い

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コンコードの戦いの開始地点、オールドノースブリッジ

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・イギリス帝国の強さと弱点
アメリカ植民地人は無謀にもイギリス帝国に戦いを挑みました。人口を見ると、イギリス本国が750万人に対し、アメリカ植民地は250万人。資金と海軍力は圧倒的にイギリスが優位でした。
 イギリス軍は約5万人の職業軍人がおり、アメリカには数だけの素人同然な民兵がいました。また、ジョージ3世は独自に外国の傭兵を雇うことができました。約3万人のドイツ人傭兵、通称ヘッセ人が投入されたのです。イギリスはアメリカの忠誠派5万人も数に入れ、多数のインディアンもあてにしていました。後者はあまり信頼できないものの、植民地を広く脅かす存在でした。ある士官に言わせれば「熟練の羊飼い」では手に負えないような問題はこの戦争で起きないだろうとのことでした。

独立戦争時のイギリス軍絵画、1909

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 しかし、イギリス軍は見た目ほど強くありませんでした。アイルランドはイギリスの火薬庫だったので、ここを疎かにはできませんでした。フランスは七年戦争の仕返しを狙っていました。ウィリアム・ピットがいた時代と異なり、内閣は無能でした。国王は頑なになっていました。
 イギリス本国人の多くは同胞殺しを躊躇しました。首相のノース卿がトーリー派だったので、ホイッグ派は公然とアメリカ民兵の勝利を喜びました。ただし最初だけですが。また、ホイッグ派の多くはアメリカの戦いを自由の戦いとみなしました。国王が勝てば本国も暴君統治になるかもしれない。こうした懸念から、少数派ではありましたが、イギリス本国でもアメリカを応援する人々がいました。アメリカ植民地人も、抵抗を続けてホイッグ派が政権を握れば有利な条件で終戦できると見込んでいました。
 アメリカ駐在軍は不利な条件で延々と戦わざるを得ませんでした。将校は二流で、兵士は全隊として有能なものの酷い扱いを受けていました。800箇所も鞭打ちの痕が残っていた事例もありました。食料補給も杜撰でした。七年戦争の時にフランス軍から奪ったビスケットが支給され、これを大砲の弾を落として柔らかくするようなこともありました。
 勝利条件も異なりました。イギリス軍はアメリカ植民地人を屈服させること、植民地人は1763年以前の状態に戻ること。また、本国から3千マイルも離れていることも問題でした。本国で発された命令が数ヶ月後に届いた頃にはよく情勢が変わっていました。
 アメリカは言うまでもなく広大です。また、点としての都市がありませんでした。イギリス軍はどんな規模の街も落としましたが、羽枕を殴るボクサーのように手応えがありませんでした。この間に植民地人は時間を稼ぎました。

・アメリカの強みと弱み
アメリカ革命軍は優秀な指導者に恵まれていました。ジョージ・ワシントンは言うに及ばず。ベンジャミン・フランクリンは一流の外交官でした。公然の革命支援はフランスが最初でした。多くは失業中だった武官がヨーロッパから次々と流れてきました。中でも若きフランス貴族のラファイエット侯爵は有名です。彼は退屈を逃れ、名誉と自由を重んじて渡米し、19歳で植民地軍の少将になりました。これは多分に実家の影響力と政治的コネの産物でしたが、彼の従軍は革命軍にとって貴重でした。

ワシントン

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ラファイエット

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 他にもアメリカに有利な点がありました。植民地人は防衛戦を戦っていました。食料は基本自給できました。大義名分もあったので士気は高くありました。ペルシア戦争やオランダ独立戦争など、もっと厳しい戦いは既に先例がありました。
 しかし、統一性は絶無でした。13植民地自体がバラバラ勝手に動く足ばかりのムカデの如き有り様でした。大陸会議ですら論争が絶えず、戦争が進むにつれ弱体化しました。各植民地は1781年に連合規約を結ぶ前からバラバラに戦っていたのです。
 嫉妬心があちこちで表出しました。各植民地は大陸会議が弱々しい指揮をとろうとするのさえ憤慨しました。軍事指導者の選出でも地域間対立が燃え上がりました。他のアメリカ植民地から来た者よりイギリス本国の士官を好む植民地まであったほどです。
 経済的苦境も不可避でした。硬貨はほぼ尽きていました。大陸会議は反発必至の課税を避け、「大陸」紙幣を大量に印刷しました。しかし、まもなく「大陸紙幣1枚にも満たない」という表現が流行るほど、その価値が暴落しました。ある理髪屋は自店舗全体に大陸紙幣を貼り付けたそうです。また、各植民地で独自の紙幣が発行され、更なる混乱がもたらされました。

大陸紙幣1/3ドル

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 通貨のインフレで物価が跳ね上がりました。前線で戦う兵士の家族が特に打撃を受け、多勢の家長も首が回らなくなりました。一方、債務者はほぼ無価値な紙幣で軽々と借金を返済しました。時に銃口を背後にちらつかせながら。

・数少ない英雄達
軍事的補給は極めて乏しいものでした。多くの家庭や街に銃はありましたが、それでもインディアン、フランス、スペインと戦った際にはイギリス軍頼みでした。イギリス軍の物資がなくなると、今度は防衛側のコストが跳ね上がりました。火薬、大砲などを見つけることはもはや叶いませんでした。フランスとの同盟は軍事的供給も目的の一つでした。
 他にも欠乏が問題になりました。1777-1778年の冬、ペンシルヴァニアの「ヴァリーフォージ」では革命軍が食料のないまま三日間通しで凍えながら進軍しました。南部では作戦中に空腹で気絶する者もいました。また、農業社会だったので工業製品も概して不足しており、とりわけ衣類と靴が足りませんでした。愛国派の兵士はしばしば血染めの雪に覆われました。先のヴァリーフォージでは、2800人の兵士が裸足かほぼ裸でした。羊毛の衣類が切実に必要とされました。軍服はバラバラで、どれもボロボロでした。士官の中には行軍中に羊毛のベッドカバーに身を包んでいる者もいました。

ヴァリーフォージ

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 アメリカの民兵は数こそ多いものの、信頼性に欠けました。健康なアメリカ植民地人男性は恐らく数十万人で、彼らは初歩的な訓練を受けました。しかし、職業軍人たるイギリス軍が進軍してくるのを前に立ち続けることはできませんでした。ワシントン曰く、彼らは「自分の影からも逃げ去る」だろうとのことでした。天然痘が流行したのも打撃となりました。
 女性は革命で活躍しました。多くは農場や事業を代理で行っていました。「非戦闘従軍者」になる女性も多く、料理や裁縫をして代金や食料を得ていました。マサチューセッツでは男装して17カ月間従軍した者もいました。
 数千人いた正規兵は厳しい訓練を受けました。中でもドイツ人男爵フォン=シュトイベンは軍隊の組織化の天才でした。渡米時には一言も英語を話せませんでしたが、それでもすぐ銃剣が牛肉を焼くためのものではないと叩き込みました。こうして彼らはイギリス軍の精鋭以上の実力を身につけました。

シュトイベンの訓練風景

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 黒人も革命に命を捧げました。多くの植民地では当初黒人の従軍を禁じていましたが、戦争の終了間際までに5千人もの黒人が参戦しました。最も多く輩出したのは自由黒人の多い北部地域でした。
 黒人はトレントンやサラトガなど重要な戦いに身を投じました。プリンス・リップルのように英雄となった者もいれば、料理人、案内人、諜報員、運転手、道路建設人として活躍する者もいました。

革命軍黒人兵(左)

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 イギリス軍についた黒人もいました。1775年11月、国王に仕えるヴァジニア総督のダンモア卿はイギリス軍に従軍した全てのヴァジニアの奴隷を自由黒人にすると宣言しました。このことはただちに広まり、ヴァジニアとメリーランドは警備を厳しくしたものの、一カ月で300人の奴隷がダンモア卿の元に馳せ参じました。彼らは「ダンモア卿のエチオピア連隊」と呼ばれました。まもなく多勢の奴隷が逃亡してイギリス軍に入りました。ジェイムズ・マディソンはイギリス軍に逃げようとしていた自身の奴隷を罰しませんでした。イギリスはある程度その約束を守り、1400人の「黒人忠誠派」をノヴァスコシア、ジャマイカ、イギリス本国に避難させました。

ダンモア卿

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 革命軍の士気は不当利得者によって大きく削がれました。彼らは利益のためならイギリス軍に販売を行いました。金で支払ってくれるからです。投機によって価格が暴騰し、衣類の販売で50%から200%の暴利を得たボストン商人もいました。ワシントンは土地などの報酬を掲げたのに、一度に2万人以上の兵士を有したことはありませんでした。しかし、もし士気が高かったなら、もっと兵士が集まり得ました。
 真実は残酷で、アメリカ植民地人のうちごく少数しか無私の精神で独立の大義を掲げていませんでした。彼らこそ戦闘の負担を背負い、敗北のリスクを負った人々でした。独立戦争は、一枚岩で一致団結した戦いなどではなかったのです。

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