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何も語っていない「ノマドランド」について

元教え子だった生徒から「先生はホームレスなの?」と(若干の憐れみと困惑した表情を浮かべながら)聞かれて、主人公のファーンは、「いいえ、ハウスレスよ」と答える、近所のスーパーの会話からこの映画は始まる。

彼女は今は、ヴァンガード(先駆者)と名付けられた、唯一の資産であるバンに暮らしている。夫は、数年前に亡くなり、住んでいたネバダ州のエンパイアは2008年のリーマンショックでその町ごとゴーストタウンと化し、同時にファーンも職と家を失う。

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ノマド=漂流者としての生活の糧を得るために、ファーンはアマゾンの巨大な工場で働く(アマゾン社がそのまま企業名を出しているのには驚いた)。同僚はあるバンドから引用した「ホームは心の中にある」という歌詞を腕にタトゥーをいれて、ファーンたちに見せる。おそらくここで働く労働者の多くは、ファーンと同様にノマドとしての生活を送ってるいるのだろう。そこには明らかにただ一緒に働くもの同士だけではない、不安定な状況でもお互いを助け合うという、明確な仲間意識がある。(工場という特殊な空間で働いた人ならわかると思うが、8時間ひたすら同じ動作をただ繰り返すこと以外に何ら許されることのない、殺伐とした空気に満ちた牢獄内で、この「仲間」という感覚は単純に羨ましい。)



この映画にはしばしば、物理的な建造物としての「ハウス」を持ち、そこに住む人間と、「ハウス」を持たない漂流者として佇む人間との対比がなされている。「ハウス」はここでは安住の地ではあるが、人を拘束し、縛り付けるものとして象徴的に描かれている。ファーンが働くアマゾンの工場は、浮浪せざるを得ない者たちにとっての、一時凌ぎの稼ぎの場として、姉が住んでいるカリフォルニア州の平然と並んだ住宅地や(ファーンが退屈な場所として忌み嫌っていた)、ファーンが住んでいた夫との思い出に溢れたエンパイアの平家建てでさえも、ファーンを過去にしがみつき、囚われさせる場として、「束縛されること」が共通にある。それぞれが「ハウス」に主体的に住んでいる・働いてるというよりはむしろ「取り込まれている」ように感じられてくるのだ。そしてそれこそがファーンをノマドーハウスではなくホームを求めて旅立つーという新たな人生への転機を迎えるきっかけになる。

ノマドたちというのは、経済的な事情でそうならざるを得ない状況に置かれたとしても、最終的には自らハウスを捨て去る選択をした、あるいは選択できた人たちのことだ。ここにホームレスとハウスレスの微妙だが、大きな違いがある。(ファーンが自身をハウスレスと強調したのも、見栄やプライドだけではない、漂流者としての覚悟や誇りを表したかったのだろう)

ただ「ハウス」と「ホーム」は、時に対立する部分も持ちながらも、ハウスを持つ者と、持たざる者との単純な比較を描いてはいない。ハウスを持っているがホームを失っている現代人と、ハウスを持たないが魂の故郷としての「ホーム」をもった、精神的には充実した人生を送るノマドたち、といったような、よくあるようなわかりやすい構図にはなっていない。

というよりこのノマドランドでは、ハウスを持っているかいないかに関わらず、もはやホームを探していくことがいよいよ難しくなりつつあるという、現代ののっぴきならない状況がひしひしと伝わってくる(見ているこちらが悲しくなってくるくらいに)。

全編に漂う、そこはかとないどこかしみじみとした哀しみは、そこにあるんだと思う。だからといって決して絶望的に暗いわけではなく、この哀しみは優しく包んでくれて、それでも生きていく力を私たちに与えてくれる。ネバダ州エンパイアの背後にどっしりと潜んでいる冬の雪山のラスボス感は、厳しい現実とそれでも前を向くファーンの強い意思とが内混ぜになったシンボルのようにそびえ立っており、ファーンがグリーンスリーヴスを鼻歌で交えながらバンを運転するシーンは、荘厳な讃美歌のようにも聴こえてくる。キャンピングカーやトレーラーハウスが集まるなか、「ハッピーニューイヤー」と新年のお祝いを知らせるファーンは、それに応える人もいずに寂しい有り様が描かれるが、同時にそこに携えている線香花火のように、微かな仄かな光だけが見えてくる。あげればキリがない。ヴァンの中での彼女独りの描写が丹念に延々と続いていく。

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この映画の中では唯一「ホーム」を見つけられたノマドがいる。そして「ハウス」に戻った者もいる。

ベテランのノマドである、おばあちゃんのスワンキー(出演者は実際に同名のノマドとして生活している)は人を寄せ付けない神経質な性格だが、ファーンと親しくなっていくと、自分がガンにかかっていて余命も残りわずかであることを告白する。スワンキーは、以前に訪れたことがあり、お気に入りだったとある場所を、もう一度この目で焼き付けたいと最期の旅へと向かう。それは、切り立った岸壁の至る所に、無数のツバメの巣が作られていて、(おそらく雛の餌を与えるために)ツバメたちがあたり一面にいっせいに飛び交うという光景である。生まれてくるものと、死にゆくものとの対峙。ここでファーンに語りかける彼女の姿には、並々ならぬ覚悟を感じもするが、打ち解けた人には猫のように懐いてくる、とても愛らしい一面もあって、そこがとっても可愛らしいのだ。

スワンキーは実際には健康的な、高齢ではあってもかなり体力もあるノマドであり、右手のギプスは撮影時に怪我をしていた本物?のようだが、末期ガンであるという設定は監督・脚本を手がけたクロエ・ジャオによるフィクションである。ホームを見つけられた人が、死期を迎えた者であることは、どこか示唆に富んでいる。それはもうすぐ向こう側にいく死者に残された特権でしかないように。


ファーンはノマドの集会で、初老の男性であるデイブと出会う。デイブもベテランのノマドであり、ファーンにかなり気があることをそれとなく伝えるが、彼女は首を縦には振らず、何度も袖にする。デイブの詳しい背景は描かれない。気ままな流浪生活を送っていたようだが、自身が病気にかかり、生まれてきた孫の子守を息子から頼まれたことが決め手となり、ノマドとしての生活を終える決意をする。そこでもファーンに、できたら一緒に暮らしていかないかと提案するが、彼女はそれには明確な返事はしない。

その後、ファーンは各地を巡るうちに、奇遇にもデイブの家「ハウス」に寄ることになる。(正確には息子夫婦の家なのかもしれないが)家族には温かく迎えられ、息子夫婦からもデイブとは深い仲であることが薄々勘付かれてもいる。素直に喜んでいるデイブに対して、その気持ちを察するも、終始困惑したような表情のファーン。彼女に振り向いてもらいたいがためにデイブは、(幼い孫をあやしているという非常に断りにくい状況を作り出して)、彼女に再三度、事の返事を詰め寄る。だがそこでも彼女は曖昧な顔をしながら、お茶を濁すのであった。

次の日の早朝、誰もがまだ眠りにつく中、彼女はひっそりとデイブの家を出て行く。そのまま無言でヴァンガードを運転しながら、当てもなく各地を彷徨っていく。

彼女には今さら「ハウス」に戻る選択肢などない。そこにはあるのはもはや退屈なライフスタイルである、今までの人生の延長でしかない。

最初のショットに戻る。ファーンは雪が降り注ぐ厳寒のエンパイアにおりたち、かつて夫と共に住んでいた廃屋を眺めている。そこには以前のような生活感は全くなく、備え付けてあった家具や衣装・雑貨類全てを搬出して、夫婦で暮らしたかつての思い出を全て処分する。
ここに来て、ようやく彼女は一切の過去を清算し、踏ん切りをつける=ノマドとして生きていくことへの決意を新たにする。
故障から回復した新生「ヴァンガード」に乗り込み、雪で霞がかった寒々しいエンパイアを後にする。その背後にはあの雪山があいもかわらずどっしりと構えている。
ファーンの門出を見守っているのか、あるいは厳しい現実への船出を予兆しているのか、それはわからない。


(フランシスマクドーマンドが口を窄めたり、カッと相手をにらめつけたり、困り顔をしている時の顔が、どうかすると晩年の祖母に似ていて、とても切ない気持ちになる。
認知症に罹っていた祖母は、いい年して実家にいる自分を、家から通学している大学生と勘違いしていたようだった。というより、そういう風に「誘導操作していた」と言った方が正しいかもしれない。
あの世で会えたら、祖母に謝りたい。)




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