祖母と、プライマル・スクリームを聴く(牛島兄)
母方の祖母が亡くなった。享年93歳。
死因は、人間の最も幸福な終わり方といわれる老衰。
苦しむことなく 、ゆっくりと祖母は家のベッドで眠るようにその生涯を終えた。
家族葬が行われ、ひ孫(姉の子供)が涙ぐみながら素敵なお別れの言葉をかけた(彼は非常に利発な子で、子供のころの僕にそっくりだ)。
戦争や、息子の死や、つらいこともいっぱいあっただろうが、これ以上ない幸せな人生だったのではないかと思う。
亡くなる5日前あたりから、もう持たないだろうといわれ、僕ら家族にゆっくりとお別れする時間があったのは、僕らにとってとても幸福なことだった。
母からLINEがあったその日、仕事が終わって実家にまっすぐ向かって会ったときは祖母は目を開いて、こっちを見ているのは分かった。
弟と一緒に声をかけていたら、不思議そうな顔をしていた。ずっと痴呆ぎみだった祖母は、しばらく前から僕と弟の区別がつかなくなっていて、なんで同じ人間が2人いるのだろう?と思っていたのかもしれない。
その日は水も飲んだし、もしかしたらもうしばらく大丈夫かも。と少し楽観的なムードで実家を後にした。
亡くなる前日の日曜日に会いに行ったときは、もう目も閉じていて、呼吸だけしている状態だった。
でも母によれば耳は聞こえているという。枕元にラジオが置いてあって、音楽が流れていた。
「ゆっくりお別れしなさい。」と、母が部屋に僕と祖母の2人きりにしてくれた。
しかし、あまりこういう経験がないもので、なんと言ったらいいのかわからない。
もちろん祖母のことは好きだったけど、僕はおぼあちゃんっ子とまで言えるほどの孫ではなかった。
かける言葉に困って、「今日も暑いね」なんて天気の話をしたあと、僕は来る途中にツイッターで見かけたニュースを口にした。
「おばあちゃん、僕が一番好きな『ノーザン・ソウル』ってジャンルの音楽があるんだけど、こないだその中で一番珍しいレコードが10万ポンドの値段がついたんだって。日本円だと1300万円だよ。レコード1枚で。ありえなくない?」
もちろん返事はない。
何をやっているんだ俺は。と思いながら、僕は不思議な、既視感に似た感覚を覚えていた。
だんだんそれは、既視感ではなく、本当に体験したことを思い出していることがわかってきた。そういえばこういうことは前にもあったぞ、というか、こういうことが常にあった時があったよな・・・
と、急に僕は、激しく思い出しはじめた。
福岡に住んでいた16歳の時だった。
高校に入学して、親の仕事の都合でしばらく一人暮らしをしていた時期があった。珍しい境遇だったといえるだろう。
学校から歩いて5分くらいの単身赴任者向けのマンションに住み、親の目を気にする必要なく来る日も来る日も部屋でロックを聴いていて全然勉強をせず、成績は落ちる一方だった。
毎週末、日曜日の昼は自転車で20分くらいの距離の母の実家に行き、祖母がとってくれた出前のピザを食べて、祖母と話をした。
大学の教授だった祖父は、引退したあとも自宅で研究にいそしんでおり、僕がピザを食べている間も常にパソコンで何かやっており、その席に加わることはなく、大体いつも祖母と2人向かいあってピザを食べた。
祖母は2人の子供がおり、長男(僕の叔父)も長女(母)も、僕が通っているのと同じ高校に行っていた。
とくに叔父は活発な生徒だったようで、成績もトップクラス、体育祭などでも大活躍していたらしい。
当然祖母は、「とし君(=僕)もきっとそうなんでしょう?」と期待している。叔父は見た目も食べ物の好みも服の趣味まで!僕とそっくりだったという。祖父母の期待を一身に受けていた叔父は、若くして亡くなっていた。祖母の自分への期待も、当然のことだったろう。母もそのことは懸念していて、「ちょっと鬱陶しいかもしれないけど気にしないで」と言っていた。もしかしたら母も、祖母から兄と比べられることがあったのかもしれない。
しかし、高校生になった僕は叔父とは程遠い状況だった。
先ほども言った通り成績は悪く、好きな科目以外の勉強のモチベーションもあがらず、親友といえる存在もいなかった。
文化祭バンドをやったりして、音楽の話ができる友達もいるにはいたのだが、僕が一緒にバンドをやる人はなぜか必ず学校に来なくなってしまった(僕の学年で最終的に3人の中退者が出たが、そのうち2人が僕が一緒にバンドをやってた生徒だった)。
学校が終わればまっすぐ家に帰り、CDやレコードを聴くか、たまにライブに行くか。休日もレコード屋か映画館に一人で行くだけの日々だった。
祖母に話すことがない。気まずい。
学校の話はしたくない・・・・・・。
そこで僕は何を考えたか、食事の間中ずっと祖母に向かって自分が好きなバンドやレコードの話をするようになった。
「おばあちゃん、俺、ジョニー・サンダースって人の『L.A.M.F.』ってレコードが欲しくてもうずっと探してるんだけど、どこにも売ってないんだよねえ~。こんなレコード探してるの、学校で俺くらいっしょ!」
「学校の図書館でリンダ・マッカートニーの写真集見つけたよ。ビートルズのポール・マッカートニーの奥さんだった人。おばあちゃんもビートルズは知ってるでしょ?貸出記録見たら、俺が最初に借りた人だったよ。あんな写真集借りるの、学校でも俺くらいだよなあ~~」
・・・・こんな感じで・・。
これは思えばある意味自然な行動であったかもしれない、というのも自分がその時誰かに誇れるのって、「たくさんロックを聴いてる」、それだけだったのだから。
自分の正気を保つために、僕は祖母にロックの話をしていたのだ。と思う。
祖母は、いつもニコニコ笑って僕の話を聞いてくれた。大げさに「そんなに沢山知ってて、すごいねえ~~」と驚いてくれた。
だから僕も得意げになった。自分の好きなものについて、言葉にするのってなんか楽しいな。そう思った。
ある時、その頃夢中になっていたプライマル・スクリームというバンドについて、僕は祖母に向かって熱のこもった大演説をうった。
「今のクソみたいな音楽業界や、資本主義の世界を、彼らは音楽で批判しているんだよ!ボーカルのボビー・ギレスピーってすげえかっこよくて、革命家みたいな人なんだよ!」
・・・・こんな感じで・・。
なぜかその話が祖母のツボにはいったらしく、そんなすごい人たちなら覚えておきたい、バンド名とそのかっこいい人の名前をもう一回教えて。と祖母はメモを用意し始めた。
(え!おばあちゃん絶対プライマル・スクリーム好きじゃないと思う・・・)
自分で話をしておきながら僕はうろたえてしまった。
その頃のプライマルは「エクスターミネーター」というアルバムをリリースしたばかりで、その中には「ヒッピーを全員ブチ殺せ」とか「カギ十字の瞳」とか至極物騒なタイトルの曲が並んでいた。
ひどくやかましい電子ノイズやひずんたギターがぎゃんぎゃん鳴り響き、これをウォークマンで学校の帰りにフルボリュームで聞きまくったせいで僕は耳が悪くなった。
どう考えてもおばあちゃん向きの音楽ではない。
もし、メモを基におばあちゃんがプライマルのアルバムを買って家で聞いて、ショック死とかしたらどうしよう・・・・
73歳の老女の指が鉛筆で「プライマル スクリーム」「ボビー ギレスピー」という文字をゆっくりとメモ帳に書いていく奇妙な光景を、僕は不安な気持ちで眺めていた。
そんな冴えない一人暮らし生活も1年半くらいで終わり、僕はまた家族と一緒に暮らすようになり、祖母のところへ行くこともあまりなくなった。
祖母とのそんな時期があったことすら、ずっと忘れていた。
僕は目の前で眠っている祖母に、あの時ピザをとってくれてありがとう、僕の話を聞いてくれてありがとう。と感謝した。
そしてついでに思いついた。
「おばあちゃん、もう絶対忘れてると思うけど、おばあちゃんが昔興味あるって言ってたプライマル・スクリームってバンドの曲、今からちょっと一緒に聴いてみようよ。」
高校の時にはなかったSpotifyという実に便利なサービスのおかげで、こういうときすぐに音楽がとりだせる。
しかし困った。なんの曲を聞かせたらいいだろう?ゆったりとしたテンポであまりうるさくないやつがいい・・・・
こう見えてもノーザンソウルDJである。条件に適した曲をすぐに探し当てた。『スクリーマデリカ』収録の『ローデッド』。
アイフォンを祖母の枕元に置く。
「たぶんおばあちゃんの好きな音楽じゃないと思うけど・・・・」
映画『ワイルド・エンジェル』のピーター・フォンダのセリフで曲が始まる。
"We wanna be free...to do what we wanna do..."
僕もすごく久しぶりに聞いた。で、思い出したんだけどこの曲はインストで、ボーカルのボビーの声がほとんどはいってない。
やっちゃったな。
聴きながら、過去の自分がいまの自分の中にどんどん蘇ってくるのを感じる。
僕は16歳で、日曜日のちょっと遅い始まりを祖母と一緒に過ごしている。ピザを食べながら、これからこの1日をどう過ごそうか、考えている。祖母の家の近くにあるレコード屋に行ってみようか?でもあそこはこないだ行ったばかりで、たぶん品ぞろえに変わりはない。
でも行ってみるか。何もなければ、こないだわざと買わずに残しておいた3枚千円コーナーの『シーホーゼス』と『モリッシー』のソロを買おう。あと1枚は・・・何かあるだろう。何か。
なんせレコード屋以外に行くとこがない。
祖母がお茶を出してくれる。「今度は誰のライブに行くの?」と僕に聞いてくる。
アイフォンのスピーカーから、ボビー・ギレスピーが「アー、イェー!!」と調子はずれに叫ぶ声が聞こえてくる。
この曲で唯一彼のボーカルらしい声が聞こえる箇所だ。
16歳の僕が祖母に語りかける。「この人はボーカルなんだけど、ぜんぜん歌がうまくないんだ。でもそんなの関係ないよ。それがパンクなんだからさ。パンクってのはつまり既成概念に対する・・・」
祖母は黙ってニコニコ笑いながら、僕の話を聞いている。
16歳の僕は気づいていないけど、37歳になった僕は知っている。
日曜日の祖母との時間が、自分の人生におけるかけがえのない、二度と戻ってこない美しい時間であったことを。
おばあちゃん、僕の話を聞いてくれて、ありがとう。
いつかまた会いましょう。
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