嘘をつく

 閉鎖病棟での話だ。
 精神科の閉鎖病棟は、もちろん病院や地域にもよるのだろうが、現在は認知症の患者が多くを占めている。施設に入所できない患者さんたちなので基本的にドが付くほど重症度が高い。重症度が高いと言うのは寝たきり、という意味ではなく、認知症の症状が重症ということだ。(他にも入院治療を必要とする合併症を持っている、などの意味もある)
 この意味、きっと介護のお仕事をされている方ならわかるだろう。

 体は元気だが認知症の症状が激しいので、とんでもないことをする。目離しができない。例えばトイレのトイレットペーパーを全て盗んでしまうとか、それでボーリングして遊んじゃうとか、廊下の壁に小水しちゃうとか、まぁそんなものはまだかわいいほうだ。

 僕は当時、うつ病(現在は躁うつ病と診断変更)として入院していた。頭は悪くないが(悪いが)、精神はどんよりしている。唯一の癒しは閉鎖病棟の真ん中にあるホールでブラックコーヒーを飲み、煙草を吸うことだった。そんな僕が認知症患者に対し「嘘をつくことで」平和になったケースを(いくつかあるが)ひとつ、お話しようと思う。

Case.「ウーウーおじさん」

 Aさんは「ウーウーおじさん」と呼ばれていた。
 理由は、ウーウー唸るからではなく「叫ぶ」からである。

「ウー!ウー!警戒警報!警戒警報!」

 ずっとこれを繰り返す。看護師さんに聞けばもう90歳近いと言っていたが、どこにそんな力があるのか閉鎖病棟中に響き渡る声で咆え続けていた。近くにいるとたまったものではなく、正直、パチンコ屋にいるよりキツい。重症度が高い他の認知症患者でさえAさんには近づかなかった。

 僕は日課として日記をつけていた。それは必ず午後8時(睡眠薬を飲む時間)と決めていた。その日も「Aさんの咆哮が木霊する」という旨の日記を書いていたのだが、そこで気づいたことがあった。Aさんはほとんど決まって夕食前に「ウー!ウー!」と叫んでいた。そしてほとんど毎日叫んでいたが、特に「雨の日」に限ってはその力強さが増していた。

「Aさんは若い頃、消防署や灯台に勤めていた方だったのではないか?」

 そう思って、僕は嘘を吐くことにした。

 夕食前、いつものようにAさんは「ウー!ウー!警戒警報!警戒警報!」と叫んでいた。そこで僕はAさんから見えないところで大きな声で

「こちら西消防署!西消防署!了解しました!了解しました!」

 と叫んだ。
 するとAさんは叫ぶのをピタリと止めた。

「良かった…。やっと届いた……。良かった…」

 そうしてAさんは泣いた。

 それからAさんはウーウーおじさんをすることはなくなり、どんどんアルツハイマーが進行していって話すことは無くなっていった。

 認知症は医療従事者側ですら「どうせ忘れるんだから何しても(言っても)大丈夫だろ」と考える人がいる。しかし、認知症患者は過去にさかのぼってその「今」を見ている。精神が、あるいは心がその過去にさかのぼっているだけで、いまここ、にいる。

 嘘を吐くことは良いことではないが、僕は、悪いことでもないなと思ったケースだった。
 まだ他にもそんなケースはたくさんある。閉鎖病棟生活は、それほど長かったのだった。

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