障害者も健常者も人間

 大学院生の頃、障害者施設で仕事をしていた。
 一応、心理士ということで入所したのだが、実際は支援員という肩書で働くことになり事務も含め雑務全般を取り扱っていた。
 それ自体に不満はなく、将来的に博士課程に進んで障害者と社会の在り方について研究しようと思っていた僕は「実践現場にこれただけよかったやん」とポジティブに考えていた。

 クソ大学院生といえど、僕は結構マジメに勉強していたので、そこの障害者施設に所属する職員の誰よりも障害の(特に精神と発達と知的については)知識は深かったし、その対処についても適切なものを知っていた。
 しかし現実は机の上ではない。知っていることとできることには大きな隔たりがあった。
 僕の大きな仕事の一つとして、施設を利用している障害者を仕事の現場に送迎するということがあった。もちろん個人個人で対応すると大変なので、ハイエースに8人乗せてビューンと飛ばしていく訳だが、その中の一人の知的障害者の方が、僕はずいぶん、苦手だった。

 知的障害者の方はあくまで「知的に」障害があるというだけで、人格が悪いとか性格が悪いとかは個人による。しかし、その「知的に」という点でいわゆる社会的な振る舞いを習得できなかったり、あるいは知らなかったり、するので粗暴に見える方も結構いる。
 僕が苦手としたのはその中の一人の女性だった。

 とにかく暴言を吐いて怒鳴り散らす。やれ「車のスピードが遅せぇんだよバカヤロー!」だの「顔が気持ち悪ぃんだよ!」だの「私をなめんじゃねぇーぞ!わかってんのか!」と。
 車は法定速度ギリギリで飛ばしているし、顔については仕方ないし、あなたをなめてなんていないですよ、と諭しても一向に変わりはなかった。
 あまりにも毎日酷いものだから、一度上司にドライバーを変わってもらったことがある。
 すると上司は「すごく大人しい方でしたよ、なんの問題があるんですか?」と返答してきた。

 要するに、僕がなめられていただけだったのである。

 その後も暴言と怒鳴り散らすことは変わらず、そのたびに努めて冷静に返答して「彼女は知的に問題があるのだから仕方ない、仕方ない」と心の中でまるでお経を唱える如く反復していたのだが、ついに限界が来てしまい、ドライバーを辞めさせてもらうことにした。

 それからしばらく平穏な日々が続いたのだが、ふと気になって上司に尋ねてみた。「前にドライバーしてもらったときA子さんって怒ったり怒鳴ったりしませんでしたか?」と。
 すると上司は「あぁ、最初は酷かったね。でも僕がキレたら大人しくなった」と言った。

 それは障害者施設の職員がやることじゃないだろう……。
 僕はそう思ってその上司と距離を取った。とても優秀な方で、温厚で、なにか「なにか問題があったら任せなさい!」と広い胸を持っている方だったのだが、障害者の方にキレるなんて、なんて酷い方だと思ったのだった。

 ある日の飲み会。障害者施設の職員は日ごろのストレスがハンパないのでめちゃくちゃ飲む。僕は単純にただ酒にありつけるので飲んでいただけだったが、やっぱりストレスがたまっていたのだろう。かなり悪い酒を飲んでいた。その時に上司が近くの席に寄ってきて、僕に色々と説教をしてくれた。
 しかし僕はクソ大学院生である。理論武装に関してはイキりまくって完璧だった。僕はその上司が語る「理想」を「精神医学と臨床心理学」の知識でことごとく踏みつぶしていった。

 そして、そこで僕の人生は変わるのだが、上司はこう言ってくれた。

「牛島くん、ちゃんと利用者(障害者)さんのこと、人間としてみてる?」

 さすがに酔っぱらった僕でも意味は理解できた。僕は専門書と論文の知識だけで障害について語っていた。そしてそれに当てはめて障害者を型にハメて見ていた。だから「一対一の人間として」対処できていなかった。
 障害者の方はそれを敏感に察して「自分のことをちゃんと見てくれていない存在なんだな」とわかっていたのだ。

 上司がその女性にキレ返したのは、「僕にはここまで許せることがあって、それ以上になったらキチンと感情で返す。相手が仮に障害者でも健常者でも。だって同じ人間なんだからね」という訳だった。

 僕は障害者を障害者と見ていた。それは違った。障害者を人間としてみていなかった。机の上の勉強だけではわからないことだった。

 その後、障害者施設は僕が色々やらかしたり、所長がいろいろやらかしたりするのを見て嫌になって辞めてしまったのだが、その言葉はまだ胸に響いている。

 障害者も健常者も同じ人間。
 だからぶつかるときだってあるのさ。

 僕の新刊小説にはこの思想が色濃く表出している。

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