夜はない

 録音しているのか、と咎め立てるでもなく彼は言った。休憩室の隅の椅子に陣取った彼の手には琥珀色の液体、要するに酒と大雑把に砕かれた氷が入ったグラスがあって、これは少し珍しいことで、褒められることでもないのかも知れなかったが、彼が飲みたい気分になるのは分かることではあったので、俺もやはり彼を咎めることはない。彼とそんな共犯者めいた関係になれるというのは俺にとって舞い上がるぐらい嬉しいことだ。五年前、彼とあったばかりの頃であったらもっと喜んでいたように思う。かつて彼は俺にとっては敵であったけれど、そこで共に戦い、彼の技術や、センスとしか呼べないようなその操縦感覚を間近で見てすっかり参ってしまって、信奉者になってしまったのだった。戦後ににわかに出された書籍を政府のプロパガンダからアングラ誌に至るまで雑に買い漁って、図々しく質問を投げかけたことさえあった。その時の彼は今よりもずっとナイーブで、露骨に鬱陶しがられたから何度もやらなかったはずではある。「むかし」俺はグラスではなくマグを持っていて、入っているのは渋いコーヒーで、でも何だかアルコールも入っていないのに酔っ払っているような気分で、それはきっと、誰がいつぶらりとやってくるとも知れない休憩室でも彼とふたりきりでいるというのがあった。彼は本当に俺にとって憧れだった。今も。「雑誌であんたのインタビューを読んだって言っただろ」「ン……そうだったかな。それで、今日はあなたが俺にインタビューを?」「いや、お守りにいいかと思ってね。やめるか、緊張するなら」細長いレコーダーは掌で包むと見えなくなるほど小さい。性能としては十分で、これだけで十数時間は録音できたと思う。さすがにそんなに話す時間はない。「さすがに慣れたさ。あの時はひどいものだったろう? 抽象的で、言葉足らずで、同じ言葉を何度も繰り返して……」「使命感に満ちていると思ったぜ。背筋を伸ばして、次から次に言葉を繋いでいた。誰かに、伝えずにはいられない。そんな感じだった」俺はマグカップに口をつけたが、彼はグラスの中の氷を緩やかに回すだけだった。レコーダーの前でうっかり口を滑らさないように気をつけているのかも知れなかった。彼をきちんと休ませるためには録音を切って俺が退席した方がいいのだろう。しかし、あと少しぐらいは俺のために時間を使ってもらいたかった。「正直、別人かと思ったよ」「考えるようになったんだ。いくら言っても無駄じゃないか。誰にも、伝わらなかったから」彼の視線は揺れる氷を捉えている。「今は?」「少なくとも、奴は無駄だと思っているんだろうな」ため息をつき、彼はグラスに唇を触れさせるが、舌を少し湿らせたにとどまった。苦笑の滲んだ眼差しがこちらに向けられる。「あなたはどうだったんだ? 何を言っているか分からなかったんじゃないか、あるいは危険思想とか」「俺は旧いんだなって思ったかな。そうだな、確かに、英雄がああ言うことを言い出したら閉じ込めておこうと言う気になるかも知れないとは」「ああ」「ひどいと思うぜ」彼の指先が伸びて、無言のままテーブルの上に置かれたレコーダーを指し示す。俺はにやりと笑った。「今のあんただったら、どんな風に伝える?」「どうだろう、もし俺が今も」アラーム音。俺は手を伸ばしてレコーダーを拾い上げてスイッチを切り、冷めたコーヒーを一息に飲んでしまった。彼の方はそうもいかず、中身が十分に残ったグラスをテーブルの上に置いたまま、身を翻した。「どっちだ?」「ブリッジへ」床を蹴った彼の背中が加速して、飛ぶような速度で離れていく。彼の言葉の先を、俺は聞かなくても知っているし、別人かと思ったと言った時の彼の泣くような笑いを見逃すはずもない。それでもいいじゃないか、と無責任に言いそびれたのは、よかったのだろうか。
 俺はレコーダーを内ポケットにそっと差し入れた。

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