Bohemian Rhapsody(2019-01-24 )

今日は長くなるわよw

場末のスナックのお姉さんの話が長くなるみたいな感じです。

とうとうー
みにいってきましたー
ボヘミアン・ラプソディー

Mama
Just killed a man
Put a gan against his head
の感じで読んでくださいw

映画ね!
見に行く前は
もうほんと
いろんな方々←同僚とか友人とか

「見に行ったー?」「まだなのー?」
「ぜひ見に行ってー」
と言われ
まあゆうほどではないだろうよ。
と思っていたんですが。

20世紀フォックスのファンファーレが
ロック調のメタリックな音色で奏でられ
わあおおおおお
となってたんだけど

もう冒頭には
フレディの死の影が漂い
Somebody to Loveが流れたら
うるるるー
涙がつつつーーー
その後は
ずっと鼻水と涙でタオルハンカチがじっとりくすむまで。

なんでそんなに泣けたのか?
まあ理由はふたつ。

この映画が遺された人々は
先に逝ってしまった人をどんだけの想いで何度も何度も
その在りし日の姿を追いかけながら生きていくのか
遺された人々のミッションみたいなものが
テーマだったから。
きっと見る人それぞれにある
先に逝ってしまった愛しいあなたへの想いがこみあげて
つながって。

そんな感情に訴えかける部分。

もう一つは
この映画はフレディが亡くなっているから成立すること。
当たり前の話なのだけど
伝記とは本人の書く自伝と違って
遺された人たちが
本当のその人、その人を取り巻く人たちに対する
こうあってほしかったそんな気持ちや視点を通して
ある種勝手な二次創造の物語だから。

つまり
フレディがどこかからこの映画を観ていたら
きっとQueenの4人を演じた
Rami Malek
Gwilym Lee
Ben Hardy
Joseph Mazzello
の熱演には
やべーーーーーすげーーーーー
となるかもだけど
物語に描かれた彼の側面については

Is this the real life?
Is this just fantasy?

となる気がして。。。。

フレディが生きていれば
この映画は生まれなくて私のこの涙もないんだけど
でも
フレディが生きていれば
フレディの尊厳みたいなものは
きっと誰にも詮索されたりしなかったのに。

そんなことを思ってしまう。

所謂
音楽は作品だけを聞いたらいいじゃんみたいな
純粋に作品だけを楽しんだらいいから
制作者のバックグランドとか時代背景を突っ込みすぎるのはどうか?
みたいな作品原理主義者の意見とは異なるのだけど

もちろん
作品が生まれるために様々な局面があって
葛藤があってそれを踏まえて作品に向きあいたいのですが。

でも
この映画はあまりにsuggestiveだったからこそ
あまりに示唆的だったからこそ
これ程受けたんだよね。
観客はなんども見たくなるほど
はまった。
世界がはまった。
クイーンの音楽と彼らにまつわる物語のその両方にはまった。
のは
この映画で
クイーンの作品もだけれど
メンバーの抱えていた葛藤やそこを超えた家族愛みたいなものを描いたからこそ
その作品の魅力が輝いた。
でも
フレディがブライアンがロジャーがジョンが
こんな作品を世に生み出さなかったなら
彼らはもしかして
市井の人々の感じる平穏みたいなものも得られたのかもしれないと思うと
普遍の気持ちなんだけど
天才たちに生まれついてしまった恍惚と孤独
人々に幸せを与えるために
自分のなかの平穏をかき乱される不穏な影
その周りには
欲や色が渦を巻き
天才たちが一つ苦難を超えると
あり得ないような艱難辛苦の克服であるにもかかわらず
観衆は
もっともっともっともっとと
ねだる。
もう十分すぎるほどの愛を
クイーンはくれていたのに。
そのもっと聞きたいと思ってしまう自分と
天才たちの営みの裏側を見て
こんなに苦しいなら
もういいんだよって思うそのはざまで思う。

We are the Champions
のなかで

But it's been no bed of roses
No pleasure cruise
I consider it a challenge before the whole human race
And I ain't gonna lose

これまでバラ色の人生なんてことはなくって
幸せな旅路だったこともなくて
人類全体に対する挑戦だからね
神様からの
僕はやっぱ負けるわけにはいかないんだよ

っていう言葉にすべてが体現されているのかもしれない。

どうしてアーティストは苦しむのか?
もっとみんなとつながりたいから
そのために群衆の観衆の心に寄り添おうとすればするほど
一人の人間としてはすり減っていく。

鶴の恩返しを連想するのだけど
自分の羽を一本一本抜きながら
才能をつぎ足しつつ
でも無限ではない才能をギリギリまで使い果たしながら
倒れそうになるまで
不和を引き起こしながら
それでも作品を生み出し続ける

そして気づくんだよね

この時間も身体もすべて有限だったと。

フレディは誰よりもその吸収と放出の
循環速度が速くて。
そしてロジャーとブライアンとジョンは
異常なほどの愛を生み出すフレディの揺らめきに対し
同等に戦える力を持ちながら
きっとフレディ以上に優しくてフレディのすべてを受け取って。

映画では
フレディのルーツ的バックグランドに対する示唆的なイメージがちりばめられていて。

例えば
農場のレコーディングシーンに
一羽の
足までふさふさの毛におおわれた鶏が一瞬出てくるんだけど。
それが凄く印象的で。

偶然映画見た日の朝に
その鶏がインド原産の「ブラーマ」という鶏で
他の鶏よりも大きさもそのフワフワの毛の豊かさでも際立って目を奪うことに気を取られていたら。

映画の農場シーンに
そのブラーマ種が一羽映し出されて
映画の時にはその鶏のルーツにまでは
考えが至らなかったんだけど
ふとああ
そういうことかと思わせるくらいに
フレディが幼い頃
そして10代後半過ぎまでを過ごしたザンジバルとインドのフレイバーを強く持ちながら
しかしそれ以上に
そこを通り越して17歳で移り住んだイギリス的なものを
バンド名にすら冠してしまう。
Queenってバンド名を思い付けて実際につけようって言えるのは
フレディがアウトサイダーとしての視点も持っているからと言えなくもなし。

ちなみに
鶏Brahmaは
ヒンドゥー教で世界最高の原理と言われる
「梵」
であり
ヴィシュヌ、シヴァとともに三主神である
ブラフマン
等を示す
Brahma
から来てるはず。

その鶏はもともとインドから19世紀にイギリスに輸入され品種改良され20世紀では
アメリカで好まれたらしいんだけど

そんなブラーマ種のにわとりをイギリスの農場で
映画のワンシーンに入れてしまう演出の恣意性も含め
この映画の
観客をよりクイーンの音楽理解へと誘うと同時に
さっきも言ったとおり
そういう裏側までを
フレディならきっと見せることになんらかの嫌な気持ちもあったんじゃないかとか
近現代史に触れる、理解するために伴う
その当事者配慮がどこまでなされるべきかっていうとことか
考えると涙がとまらなくなるのだけれど
でも
この映画を観ることで
間違いなく
Queenが差しだしてくれた問いや愛が
苦しみのなかからのメッセージであったことは届いてんだよね。
だからフレディなら
大きな心でこの映画を許しなのかも。

ボヘミアン・ラプソディの歌詞の最後部分が
それに対する答えになってる。

Nothing really matters
Anyone can see
Nothing really matters
Nothing really matters to me
Any way the wind blows

ほんとのとこは なんも変わりやしないし
そんなこと 誰にだってわかってる
なんも それほどのことでもない
僕にとってみたらほんと些末なこと
いずれにしたって 人はいつか死ぬし

きっとフレディは私が想像して泣いたりする以上の
でっかい人。

そして彼を支えられたロジャー、ブライアン、ジョンは
想像以上の愛のひとたち。

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