ドーナツと私
丸い形でふわふわと甘い。
ドーナツの思い出と、ドーナツへの愛について。
最初のドーナツ
ドーナツという単語、あるいはその優しいフォルムを思い浮かべるとき、心の中にじゅわっと温かいものが広がる。
子供の頃、母が何度か家でドーナツを作ってくれたことがある。
パンのようにこねるタイプではなく、ホットケーキミックスで作ったやわらかな生地をドーナツメーカーに流し込み、熱した揚げ油に次々と落としていく。まるで浮き輪のように油にプカプカ浮かんで、少しずつきつね色に変化していくドーナツを眺めるのが愉快だった記憶がある。
揚げたてにたっぷりのお砂糖(スプーン印の)をまぶしたドーナツは、お砂糖がシャリシャリして、特に何の計算もないしみじみとした美味しさだ。
お店で売っているふわふわのドーナツと違い、美味しさの期限は揚げたての数分限り。冷めると途端に不味くなる、手作りならではの味なのだ。
絶品ではない。感動もない。
しかし母のその手作りドーナツが、私の人生の最初のドーナツということになる。
平成のドーナツの進化
この雑記を書く直前に、「ラーメン大好き小泉さん」というドラマを観ていた。
ラーメンをこよなく愛する女子高生が、実在するラーメン屋さんを巡っていくドラマで、その中のシーンに「平成はラーメン史において激動の時代だった」というようなセリフがあった。
もう間もなく時代が「令和」へ変わろうとしているが、人生のほとんどを平成で過ごした私にはこのセリフが妙に響いた。
そして同時に、それは例えばドーナツにも同じことが言えるのではないかと考えた。
平成には様々なドーナツ店が出現し、一瞬で消えたお店もあった。
母のドーナツしか知らなかった私が、1990年代、小中学生の頃に出会ったのが「ミスタードーナツ」だ。
説明するまでもないが、ドーナツを身近なおやつ(時には主食)へと浸透させたドーナツ専門店といえば、やはりミスタードーナツだと思う。
最初にどのように出会って、食べた時にどう思ったかはまるで記憶にない。
そもそも私が小中学生の頃はまだ地元に店舗がなく、少し遠くの街に行かなければ手に入らないため、食べる機会は滅多になかった。
その滅多にない機会が訪れたときには、様々なドーナツの中からどれを選ぶかじっくりと悩んでいたことをおぼろ気に覚えている。
しかし母の手作りかミスタードーナツしか知らなかったその頃、私にとってドーナツはまだ特別ではなかった。
その後の20代で出会ったドーナツの衝撃によって、自分の中のドーナツの地位が超出世を果たすことになる。
運命のドーナツ
時代が流れ2000年代。
社会人になって、グルメや旅行にも目覚め始めた。
台湾ラーメンの雑記でも触れたが、10代の頃から音楽が好きだった私は、20代になってインディーズバンドのライブにも足を運ぶようになった。
多少オトナになりお金と時間が自由になった私は、東京の方にも遠征ライブに行くことが増えた。
しかし和歌山から東京への旅は費用も高くつくため、年に1度、多くても2度程度しか計画できない貴重な旅行となる。
数週間前から新幹線や宿泊先を抑え、インターネットで旅先の情報を収集し、東京walkerも隅々までチェックするほど、関西人にとって東京旅は気合の入るものなのだ。
2007年の冬頃に東京遠征が決まり、その時期の東京walkerでアメリカ発の「クリスピークリームドーナツ」というドーナツ店が日本に上陸したという記事を見つけた。
当時まだ新宿と有楽町でしか入手できないというその珍しいドーナツは、従来のドーナツの概念を覆すような食感と美味しさだというような紹介がされていた思う。
食べたことがないようなドーナツって一体どんなドーナツ?それってドーナツなの?と期待に胸を膨らませながら東京へ、そして有楽町のクリスピークリームドーナツへと向かった。
店の中は甘い香りで満たされ、ガラス越しに作っている工程を眺めることができた。
店に到着した時点で30人程が並んでおり、慣れない東京で心細く列につくと、なんと出来立てほやほやのオリジナルグレーズドが客のひとりひとりに配布されたのだ。
「お待ちいただく間にご賞味ください」ということだったので、お砂糖のコーティングもまだ安定しないほかほかのドーナツを緊張しながら一口食べた。
温かく、指で支えるだけでも形が変わりそうなほどふわふわで柔らかい。ひと噛みするとお砂糖のコーティングの甘さの奥から、油分を含んだやわらかな生地がじゅわっと口に広がる。噛む力はほとんど必要がない。
お、美味しい…!!
その時受けた美味しさの衝撃は、10年以上経った今でも忘れられない。
何かを食べてあれほど美味しいと感動したことは、後にも先にも「出来立てのオリジナルグレーズド」を噛み締めたあの一瞬以外にないと断言してもいい。
もちろんこの歳になれば、日本各地の美味しいものをたくさん食べてきたし、それぞれに感動がある。
しかし、世界一、いや宇宙一美味しい!なんじゃこれ!!となったのは、「出来立てのオリジナルグレーズド」ただひとつなのだ。
この時の感動から、私はすっかりドーナツの虜となり、色んなお店のドーナツを食べた。
その後関西にもクリスピークリームドーナツが出店し、最近は完全にブームも終わってしまったけれど、オリジナルグレーズドは今でもやはり大好きだ。
食べる前にはキッチリ7秒、電子レンジであたためる。
10年ほど前に流行った生ドーナツは全然好きじゃないと思っていたら、やっぱり世の中(少なくとも私の生活圏内)からすぐ消えた。
フロレスタのネイチャードーナツは一時期マイブームだったし、ミスタードーナツは最近も定期的に利用する。
毎日食べるわけではないし、しばらく忘れることもあるけれど、ふと思い出したときに食べると、楽しい思い出と、その丸い形や甘さに幸せな気持ちになれる。
私にとってドーナツはそういう存在だ。
ドーナツの穴から平成を覗く
この平成の31年間で、得たものも失ったものも数えきれない。
町の商店街のシャッターがどこも開かなくなって、その代わりコンビニや大型スーパーがあちこちにできた。
小さい頃に行った映画館は取り壊されて、近頃ではレンタルビデオ店さえも減ってきたけれど、自宅でいつでも映画を観ることが可能となった。
お正月の静けさを失い、季節に鈍くなり、どれが旬の食べ物か分からなくなったけれど、一年中どんなものでも自宅に届く。
昔好きだったお菓子は製造されなくなったけれど、夢のようにきれいで美味しいスイーツが街中に溢れている。
ドーナツには「穴」が「ある」けれど、「穴」というのは本来「ない」ものだ。
あるけど、ない。
ないけど、ある。
穴の部分に生地が埋まっていればその分お腹は満たされる。
でも穴のないドーナツなんてつまらない。
良いか悪いかではない。あるものとないものはいつも同時に存在しているだけのことなのだ。
これから訪れる新しい時代、私はどんな風に生きていくだろう。どんなドーナツと出会うだろう。
期待も不安もあるけれど、時代がどんなに変わっても、ドーナツにはいつでも穴が開いていて欲しいと、私は思う。