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うさぽんの昔話 1


今回は、わたしの昔話をしよう。

※虐待の話が含まれます。
苦手な方は読まないで下さいね。


私は気がついたら児童養護施設に
住んでいた。

そして、子供の精神病院に入れられた。

児童自立支援施設に入れられた。

そしてまた子供の精神病院に戻された。

そしてまた、
児童養護施設へ戻された。

まるで、人を噛む凶暴で
なつかないイヌ。
飼い主の決まらない捨てイヌ。
転々と移動させられた邪魔なイヌ。
と同じような扱いだった。

だから、保健所に犬を連れていく
飼い主を見るとメラメラする。

私はイヌが大好きだ。
ネコも大好き。動物が好き。
動物と、言葉で意思疎通している
つもりになっている人間がいるが、実は動物が学習して察しあげていることに
人間は気が付いていない。

自分の都合のよい解釈をして偉そうな
仕草をしているのはいつも人間の方だ。


そんな大人達の仕草を観察しながら
私はいつも考えていた。

ここから逃げるには
どうすればいいのかを。

ちなみに、
わたしが何かしでかしたのか?
悪い子だったからでは?
と思う人もいるかもしれないから
書いておく。

「わたしは何もしていない」

いや、何もと言うと嘘になるな。

正確には、とても変わった子供だった。

食事が嫌いだった。食べ物が嫌いだった。食事の楽しさを知らなかった。

中学生までは極度の偏食だったので、食事の時間は先生達をとにかく困らせた。

あとは、やめなさい!と怒られてもトイレ以外は半日ブランコに乗っていたり、どこにでも絵を描いたり、虫を集めて部屋で繁殖させて育てたり、施設で買っていた犬小屋で一晩過ごしたり、野生の鳥を捕まえたり、動物語を話せると言い張ったりしていた。

私のことを、職員は吉の外だと言っていた。まぁ、確かに間違いではないかもしれないな。

だから、保健所にいらなくなった犬をポイポイ持っていく人間のように、私も施設を移された。

屈辱なんだよ。
子供ながらに自分を否定し続けるから、常に大人に負けたようなそんな気持ちだった。

寂しいとか、悲しいとかじゃなくて
悔しいだった。とにかく怒りの感情が支配していた。

おこりんぼうの子供だった。
感情の発散の仕方や扱い方を
知らなかった。

当時は知らなかったとはいえ、子供の時の私の生きる原動力は悔しいという感情を保っていたからこそ今生きているのだなと感じる。


ここからは、両親のことを書こう。

突然だが、これだけは先に言いたい。
私の両親はミラクルバカだ。

親に感謝すべきことはない。
あるとすれば…
私を人間で産んだことぐらい。

こんなことを言うと大抵怒られる。
親に感謝しないとは何事だ!
けしからん勢が押し寄せてくる。

最後まで読んでも私に対し親に感謝しろという人がいるのならば、その人は人間の心を失った人だと思う。

そして、私は今生まれて来てよかったと思っている。こんなにおもしろい偶然はないからね。そして同時に死ぬのも楽しみにしている。

話を戻しますね。

貧乏子沢山という言葉があるよね。

うちは貧困だったのか普通なのか裕福だったのか分からないけど、とにかくアホみたいにきょうだいが多かった。大家族の番組に出られるレベルで。

大人になった今、私達きょうだいは何人血の繋がりがのあったのだろうか…と考える程、私の両親はとにかくめちゃくちゃな人だった。

親がリビングでやらかしてたり、そこに浮気相手が参戦したり、その隣で乳幼児が遊んでたり、倫理も道徳も皆無の家庭だった。それが普通だと思ってた。

あとね、両親の彼氏彼女がしょっちゅうきてた。

新しいお母さんだよー
パパだよーおとうさんだよー
どのお母さんがいい?なんて会話が普通にあった。

初めは混乱するが、私は大概「顔」で決めていた。子供は、美人なお母さんやカッコイイお父さんがいいに決まってる。


今考えると…
あれは浮気公認だったのか?
はじめから夫婦じゃなかったのか?
今となっては何もわからない…


我が家は、ある日突然知らない間に赤ちゃんが居た。

タケノコが突然生えてきたかのように、
お土産でもおいてあるかのように、
赤ちゃんがそこにいた。

一般的には、妊娠中のお母さんの話題やそれを気遣う家族のエピソードや、きょうだい達で楽しみにしたりするじゃないですか。そういった事が全くない。

とにかくサンタのように、
赤ちゃんが突然我が家にやってくる。

だからね、私は赤ちゃんは卵から
産まれるとずっと思ってた。

おしりの穴からポコッって。

幼稚園の先生にそう言ったら笑いながら
コウノトリさんが…云々言っててね。
やっぱ卵なんだ!と納得したよね。


ね、バカな大人達でしょ?

私は、きょうだいのど真ん中で割と自由で立ち回りも上手くずる賢く逃げ足が早い子供だった。

だから、親に殴られるのはいつも
姉と兄か弟だった。


もちろん私も殴られたり酷いことはされたが、兄や姉ほどではない。多分。

父親は反社の人だったようで、立派な神棚があったことは覚えてる。集団で何度か旅行に言ったのも覚えてる。

あと、実家の場所も覚えてた。

思い出したかのように去年の夏頃かな。実家に行ってみた。
ここに感動的な話は何もないよ。


実家みたらね…

「ファミレス」になってたよ!
ビックリだよ!見てはいけない物を見た気分になったよ!

あぁ、私の実家は…
めでたくファミレスになったんだ!

いつでも帰れる!
帰ればごはんも食べれる!
ファミレスになっててくれてありがとう!末永く営業してくれ!


さて、実家はファミレスになっていましたが、当時の家の中のイメージは、ボロボロで破壊されたような壊れた障子の枠だけある感じ。でも家は割と広かった。

子供が入ってはいけない部屋が
2つあってね。

武器がおいてあるぞ!と兄が言っていたので、こっそり見たことがある。

見てはいけないものが沢山あった…
書かなくてもわかる人にはわかるだろう。

我が家の暗黙のルールで壁は殴るもの!
と決まっていた。

兄や姉がよく殴ってたので私と弟もよく殴ったり蹴ったりしてた。
家の壁中ボッコボコ。

そんな家だった。

唐突だが、私が保護されたのは19時頃だったと思う。薄暗くなった頃事件は起きた。

私が弟と妹達と皆でお風呂に入って
石鹸を泡立てて遊んでいた。

1番下の弟は赤ちゃんだったので
バケツに入れて泡を弟にぬって遊んでた。

父親が帰ってきて、お風呂で騒いでいた私達を怒鳴りつけた。

私は突き飛ばされ泡で滑って蛇口に頭をぶつけて血が吹き出た。

それを見て弟達が泣き出した。

私はあまり痛くなかったけど、
弟達の反応をみて怖くなっていた。

ギャン泣きする赤ちゃんを父親が
湯船に投げ入れた。

慌てて兄を呼んだ。
母も兄も姉も居なかった…

父親がお風呂の蓋をしめた。
弟の声は消えた…


隣のおばさんの家に裸で走った。
湯船の上で浮いて待っているだろうと思っていた。

数分後、警察が来た。
驚くことに父親はリビングで
大いびきをかき寝ていた。

警察が来るまでの間、隣のおばさんが、私達の着替え等をしてくれた。

痛いね、怖いねといって
おばさんが泣いていた。

私達にあれこれ言いながら
ごめんね…
ごめんね…
と何度も謝っていた。

でも、私達にはおばさんがなんで泣いているのかが分からなかった。

パトカーを初めて見たすぐ下の弟が
めちゃくちゃ喜んでいる姿を覚えてる。
私も弟も妹も警察官を見たりパトカーを見たりしてはしゃいでいた。

赤ちゃんは大丈夫だろう。
その時は軽く考えていたので
おまわりさんが助けてくれたはず!
そう思った。

弟が亡くなったことを知ったのは
施設に入って数十年後かな。

警察でこう聞かれた。

赤ちゃんをお風呂に投げたのはだれ?

「おとうさんだよ!」

じゃ、あなたの頭のケガはどうしたの?

「お父さんが叩いたよ」

外から母親の怒鳴り声が聴こえた。
物が投げ付けられたような…

ガシャガシャーン!

ギャーー!って声。


それ以来、両親には会っていない。
何処にいるのかもわからない。

ただ、その時食べたざるそばが
めちゃくちゃおいしかったことだけは
鮮明に覚えている。


高校卒業前に職員さんから
色々な話を聴いた。

戸籍も見せられた。
驚いたのが、両親の欄に❌と書いてあり
「不明」「親権者なし」と書かれていた。

当時はまぁまぁショックだったが、
何かの配慮だったらしい。
調べてもらうことも出来たので職員さんに教えて貰いながら申請した。

ま・さ・か!の…

今話題の、のり弁だったwww
そんな事もあるんです。

まぁ、今となればどうでもいいこと。

後日談として聴いたのは、
両親は覚醒剤と虐待、殺人で
刑務所にいるみたいだった。

母親は、先に出所したが
逆戻りしたらしい。

バカだなと思う。
クソすぎるなと思う。

両親には会いたくはない。

でも、遠くからこっそり穴の中から
覗いてみたいなとは思う。
おもしろそう。
勿論、単なる好奇心です。

こんな感じで、私は児童養護施設で
暮らすことになりました。

この事件で我が家は一家離散になりました。

ホント、人生何があるかわからないね!

次回は、施設の話でも書こうかな。

勿論、貧困者ビジネスについても書いて行きたい。

まったねー!

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