住民監査請求結果と再調査結果で「Colabo問題」「WBPC問題」は「ない」ことが確認されたのだが…


再調査結果後のツイート

結局「Colabo問題」は「『Colabo問題』の構築問題」であることが改めて明らかになっただけ。調査結果の主たる部分は、按分計上と事業の性格上Coloba側が秘匿すべきとした個人情報に関する見解・認識の違い。そして単純ミスを含め都側の判断に基づき再算出した経費でもなお委託費を上回る。

ただし、この問題は既にというか始めから経費計上の当・不当(正・不正ではない)の問題ですらない。Colabo・仁藤夢乃さん、そして同種の支援事業を行う団体、あるいは広くフェミニスト(的)とされる団体・個人の信用を貶めるという動機に駆動された、ミソジニーと私怨に基づく「問題構築」なのだ。

また、今回は印象操作に止まらず、「公金支出」に着目され住民監査請求というそれ自体は合法で正当な手続きに則って問題構築がなされた。その手続きや用語等がまた彼らの文脈に置き直され更なる印象操作がなされ、「公的に問題が認められた」かのようなイメージが振り撒かれた。

蓋を開けてみれば、他の委託事業や補助事業でも十分起こり得る、また起こっている見解・認識の違いや単純ミスであって、あくまで都側の基準・判断において「不当」とされただけであって「不正」ではなかったし、不当判断を是としてもなお委託費の過大支出はなかった。

しかし、結果として、この種の事業の委託や補助について「厳格化」につながることになった。それは即ち柔軟性が損なわれ、その結果今回のColaboのように自己資金で賄う部分が膨らむであろうし、その自己負担や管理負担の重さに応募を諦める団体、事業自体を断念又は縮小する団体も出てくるだろう。

また、今回Colaboが事業の性格上秘匿すべきと判断した個人情報の不提示が認められず都に経費計上が否認されたことは、暴力等の被害に遭い、困窮しあるいはそのリスクに晒される女性や子どもなどを支援する団体・事業にとって深刻な影響をもたらし得ると懸念する。

他の分野でも起こっているが、標的になり得る団体や事業について支援し又は協力・連携等することに対して行政が委縮することも懸念される。ネットで炎上する、抗議電話が殺到する、街宣が行われるといったことだけでなく、今回住民監査請求という形式が使われたことの影響は注視する必要がある。

「フェミ科研費裁判」、あいちトリエンナーレ問題等々でもそうだが、標的とされた側は多大な負担と損失を被るし、行政への委縮効果も持つ。そして、一旦問題化するとそれは派生・拡大する。女性や歴史が関わる「問題」は便乗者を吸い寄せやすく、虚偽や誤解が急速に流布し論点がぐちゃぐちゃになる。

もはや標的を攻撃するという一点ばかりが共通し、相互に矛盾する主張を多く含みながら論点が拡散し、訂正・反論が追い付かない状況がすぐにできてしまう。ある文脈での訂正・反論が違う文脈に置かれて別の攻撃を招くというようなことも次々に起こる。こうして、標的側・擁護側が一方的に疲弊する。

全体像を捉えて発言しようとする人はその困難さに手を出せなくなるし、標的となった側に批判的な意見も持っている人はそれを出すと攻撃側に利用されるし留保なしの擁護もしづらいしで沈黙せざるを得ない。単純に、攻撃側の論点がぐちゃぐちゃであるためにどう発言していいかわからず黙る人もいよう。

そうなると、全面攻撃対全面擁護の構図ができやすく、双方により過激なあるいは断定的な主張も目立つようになり、ますます参入しづらくなる。だいぶ一般論になってしまったが、現下の「トランス女性」問題もそうなっている。

今回の「Colabo問題」の大きな背景に「AV新法」(AV出演被害防止・救済法)があるが、この議論は論点が拡散しただけでなく、立場の違いで四分五分した状況で構図が極めて複雑化した。そのことは今回にも影響したように思えるし、その利を得たのは攻撃側だったことは間違いない。

だからどうするということがなかなか言えないのだけど、誰がどんな意味で「敵」なのかを見定めないとますます厄介なことになるという不安ばかりが募る。同時並行でいろいろなことが起こっている、起こされているのでなおさら。


Colaboの弁護団声明で、ひいては本件そのものについて、私が重要と考える点。

1. 委託費を超える部分の事業費はColabo持ち出しであり、今回認められなかった経費を除いても委託費を上回る。

2. 人件費は委託費分として計上し認定されたものの倍以上支出しているが、事業に必要な費目を明らかにすべく各経費をバランス良く計上した。

3. 食事代・宿泊費は監査過程で提出した領収書のみでは妥当性が確認できなかったに過ぎず、今回の調査で妥当性が確認された。

4. 本事業は、様々な背景・経験等から行政に不信感を持ち公的支援につながれない女性が対象。行政への個人情報開示は信頼関係を壊し、また虐待親が公務員である場合に知られるリスクもある。よって、個人情報部分を秘匿した領収書原本を提示した。

5. 個人情報部分を秘した形での領収書提示は本事業を受託した2018年度以来貫いており都の理解も得られていた。今回それが認められなかったため、守秘義務を貫き、当該支出分の委託費計上を取り下げた。

結局、暇空らが、Colaboや仁藤夢乃さんに「怪しいところがあるに違いない、あって欲しい、あるべきだ」という思いだけの歪んだ目で事実をつまみ上げ、様々な仮説や妄想でつなぎ合わせて「疑惑」「問題」を作り上げ、それに政治家、著名人、メディアらも乗っかって騒ぎ立てた「だけ」だが、被害は甚大。

委託費や補助金が事業に必要な支出に足りないというのはよくあって、その分は団体が持ち出したり、低給のスタッフやボランティア(交通費すら出ないこともざら)の熱意に頼ったりすることになる。ワンストップ支援センターへの交付金なども同じ。

何もわかっていないのに、叩きたい、信用を貶めたいというだけで「疑惑」「問題」を騒ぎ立てる者、確認もせず拡散する者、乗っかってくる政治家や著名人、切り取って角度を付けて記事にするメディア…。醜悪でしかないが、直接間接の被害は甚大だし影響は続く。行政や他団体等への委縮効果も懸念。


委託費・補助金等の行政による資金提供を巡る根本的な論点の一つとして本来あるべきなのは、行政が民間団体を下請け、手足のように扱ったり細かく口を出したりしてガチガチに縛ることはどうなのかということ。ことに民間団体の独自性やイニシアティブを生かし又は促すような場合。

私が民間団体への補助金の問題について明確に意識したのは、約30年前(NPO法よりも阪神大震災よりも前)、ODAのNGO事業補助金だった。NGOがJICAの補完のように扱われ、補助金の使途の自由度はなく、当該事業の実施に必要となる一般的な運営費・人件費はNGOの持ち出しだった。

あるいは、NPO法制定の過程では、NPOを行政の補完・下請けのように捉える考え方も根強く、アドボカシー・政策提言を含めるかが大きな論点となった。その意識はまだまだ政治・行政にあるし、政治・行政の顔色を窺い、あるいはびくびくしているNPOも少なくない。

行政からの委託・補助はその団体・個人の適格性や運営の信頼性を補完するものにはなるが、必ずしもその団体や事業にお墨付きを与えるものではないし、与えられるものに限るべきでもない。これは、科研費、文化芸術振興費補助金あるいはあいちトリエンナーレへの補助金などの問題でも議論になっている。

委託費・補助金の不正利用、不正流用は防がねばならないが、行政の意に反する案件は排除するとか、支給先の自由度・裁量を認めず行政の意に反する使途は不正・不当とするとかはあってはならない。委託・補助の目的は定められるが、その目的にも解釈にも不必要に価値判断が混入することは避けるべきだ。

政治家であれ市民であれ、意に沿わない団体・個人や事業への委託・補助について圧力をかけ又は介入することは許されない。これには、不正・不当の枠を徒に広げることも含まれる。一見使途の適正性を問題としてながら、意に沿わない使途を、ひいては当該団体・個人や事業を排除しようとするものだ。

寄付基盤がまだまだ確立しておらず、欧米のような大規模な助成団体もほとんどない現状において、いずれにせよ資金調達には相当の労力を要する中で(研究の前に資金獲得のためにペーパーワークに追われる研究者の姿も典型的だ)、行政による柔軟な資金提供は社会の多様性と民主主義に必須と言える。

資金調達力があったり政治・行政と緊密な関係があったり長期にわたり既得権益化した資金を得られたりする団体や個人ばかりが自由に活動できる社会は多様性が損なわれるし、民主主義の基盤も浸食されていく。形式上言論・表現の自由が保障されていても、その行使・実現が実質的に制約、阻害される。

住民監査請求結果が出揃った5月のツイート

「Colabo問題」「WBPC問題」は最初から存在せず、「不正」も「無駄遣い」もないことが認定された。まだ建前上は住民訴訟があるが、違法性が認められず棄却というのが極めて合理的な予測。暇空が気に食わない団体に公金が使われたというだけで、同調者と膨らませて「疑惑」の印象が作られたに過ぎない。

会計処理上のミスや処理方法に係る都と団体の意思疎通の不十分さは見つかったし、福祉保健局の書類チェックも甘かったと思われるが、大前提としてそれにより違法・不当な支出や過払いは生じていない。NPOの会計や運営に弱さがあることは女性支援団体に限らずNPOセクターが共通して認識している課題。

もちろん、NPOもそれに甘えている訳では毛頭なく、会計能力を含む組織基盤の強化については真剣な取り組みがなされてきた。ただ、NPO特有のジレンマとしてあるのは、団体の目的たる課題への取り組みと組織運営と両方に十分な労力と資源をかけることができる基盤、地力のあるNPOは一握りであること。

寄付文化がまだまだ発展途上であり、また十分な会費収入等を得られるNPOもわずかで、公的資金へのニーズは高い。それはNPOの財政基盤の目的だけでなく、社会課題の解決に行政は万能ではなくNPOなど民間との協働がますます必要となっているからでもある。

その時に、自主財源で会計や組織運営の能力を完璧に整備して初めて公的資金への申請資格があるとすればあまりに非現実的だ。行政には担い手たるNPOの足腰を強くするためのチェック役、助言役の役割も求められる。今回監査で会計処理のミスが見つかったことはその役割に不十分な面があったことを示す。

会社制度や個人事業主の納税制度に比べNPO法人制度も一般社団の設立要件緩和もずっと歴史が浅い。だからと甘えている団体は、特に公的資金に申請するような団体にはないが、厳格・厳密な会計報告等に不安がない団体の方が珍しい。企業、個人事業主にしても訂正や更生が稀であるとは決して言えない。

ところが今回は、重大でも特異でもないミスや処理の誤りが致命的なものであるかに、また企業や個人事業主との恣意的な比較によってさも完璧しか許されないかに騒がれた。適切に修正や対象経費からの除外が行われ、精算に問題がないことが確認された後になっても、デマを含め印象操作がなされている。
暇空の住民監査請求の動機は彼の気に食わない団体に公金を使わせず返還させることであって、請求の大半は却下又は棄却された。請求を具体的に記し形式的に監査実施要件を満たしていただけで、その主張には主観的な根拠しかなかった。認容された項目も主観的な予想がたまたま当たったに過ぎない。

気に食わない団体を叩く方法として住民監査請求という手続きに乗せただけであり、「問題」「疑惑」の合理的な根拠はない。形式的なステップである受理を「監査請求を通した」と表現するなどの印象操作によって、さも「問題」が認められて監査に入ったかの印象が広まってしまったに過ぎない。


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