国家・国民のフィクションが実体視される中で

ネーションは「想像の共同体」(B.アンダーソン)だが、それが「想像されたもの」であるが故に「国民」寄りにも「国家」寄りにもなる。今日は国境の拘束性が緩んでいるだけに、一方で国境の象徴性が高まり(領土問題、トランプの「壁」)、他方で国民の純粋性あるいは「血」がより焦点化される。

法的には国の領域内に住む人の権利が保障され政府が責任を持つというシンプルな仕組みでいいはずなのだが、住民としての資格・権利と「国民」としての権利・資格との間には線が引かれてきた。住民としての保護の水準と国民としての保護の水準が異なり、より国民の方に寄せようという主張がある。

住民として保護され受益することには国籍が問われないものもあるが、生活保護のように国民には権利として保障され、外国人には政策的、恩恵的に提供されるものもある。それを外国人にも権利として保障しようという方向ではなく、恩恵としても剥奪しようという主張がある。

さらには、国籍要件がなく(ある時点で撤廃され)、国民・外国人を問わず、またしばしば在留資格の有無を問わず保障されている権利について、国籍要件を復活させようという主張、少なくとも不法滞在者からは剥奪しようという主張がある。今の入管法改正の問題ともそれは連動している。

しかし、そもそも国民国家は今よりはるかに移動、移住が困難だった時代に、今よりはるかに情報伝達手段も速度も限られていた時代に成立したもので、ネーションに対する想像力は一方で技術的な条件が可能にしたものでありつつ物理的に制限されていた。その初期条件が微調整されつつも枠づけてきた。

それが、人も情報も越境が容易になるにつれて逆説的にとも言えるし、そもそも「想像の共同体」であるが故にとも言えるが、歴史的な構築物でしかない国の文化・伝統や国民性といったもの、あるいは「血」に仮託されるような象徴性への固着、執着が強められている面がある。

そもそも現在の日本の領域も、侵略・併合や連合の結果として拡大し編制されてきたものに過ぎないし、天皇は元々地域的な王権だったものが徐々にその権威が及ぶ範囲が拡大し、またその権威が利用されることでむしろ強められという経過を辿ってきた。

「万世一系」は「血」のフィクションであると同時に、時代時代において遡及的に構築され更新されることで「存続」してきたと言えるし、日本に限らず「国の歴史」「国民の歴史」は常に「現在」の視点から遡及的に書かれるものだ。

だから、歴史において「外国人」をどう描くかには現在の国や国籍の捉え方、考え方が忍び込むし、当時感得されたであろう異質性、異文化性を想像する時に現在の異質性、異文化性への感覚が紛れ込む。しかもそれは「想像の共同体」を成立させたものが再帰的に構築してきた認識であり想像力である。

その歴史的に構築され枠づけられてきた、国であり国民であるネーションへの認識と想像力に固着、執着し続けるのかが今まさに問われているのではないか。排外主義的、優生学的に不安や恐怖を煽り、国境・領土の象徴性を実体視し、日本人・日本国民の象徴的な「純粋性」を実体視するのかどうか。

どこの国もそうだが、日本の文化にせよ各地域の文化にせよ常に変わり続けている。伝統であったり一貫した特徴であったりとして認識、感得されるものも遡及的に更新され、合理化され続けている。忘れ去られたり比重が低められるものもあれば、再発見されたり重み付けがされたりするものもある。

「外国人」も日本文化を外から豊かにするものと捉えられる時代もあれば、日本文化を受容し同化し内から貢献するものと捉えられる時代もある。それは同時代的にもそうだし、歴史的に捉える時にもその捉え方は揺れ動く。日本人が受動的に受容したのか、能動的に摂取したのかについても同様だ。

想像・象徴の領域をさらに膨らませて日本人・国民の「純粋性」にこだわることには意味はなく、日本という国の領域に住み、滞在する人がいかに安寧に、豊かに暮らし働けるかを構想する段階にあると考えるし、外国人受け入れを増やすか否かではなく「どのように」円滑に受け入れるかだと考える。

外国人を悪魔化し悪者視するのではなく、日本人・国民と同等に善も悪もある存在と見ればよく、文化的な違いは当然あるがそれに優劣をつけず、どう共存し通約していけるか(同化強要でもゲットー化でもなく)、それにより日本という領域内の文化をどう豊かなものにしていけるかだろう。

それはこれから来る外国人との間のことだけでなく、当然ながら、既に暮らしている在日外国人との間、コリアン、中国人はじめ何世代にもわたって暮らしてきた在日外国人との間のことでもある。だから法制度的にも入管法だけの問題ではないし、まずは入管法から排外主義の要素をなくす必要がある。

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